その15 イチョウ並木
世の中には、
ものすごく奇妙な出来事もあるのだ、と。
頭の片隅でそう理解していながらも、そのほとんどの場合、
「私が?......どうして?」
そう。
そのほとんどの場合、私は違う。私には関係ない、と。
「ありえない。だって、だって」
そんな必要はない、と。
そんな風に思って、すべてを記憶のどこかに片付けてしまうんだろう。
「嘘......だよ」
不思議だった。
そこに映るものは、確かにソアン自身。
けれども、まるでそれは夢の中の映像を画面に映し出しているかのような。
それでいて、何故だかしっくりと。
その一つ一つがソアンの細胞に染み込んでいく。
「.....ち、がう」
頭の中では、これは事実ではないと。これは夢、これは作り物。これは嘘だと。
必死でそう結論づけようとしているのに。
「こんなの」
----シュッ
小さな音がした。
それは、ソアンが落とした涙が、手紙に吸い込まれて消える音。
「何、泣いて.....こんなの」
心がいうことを聞かない。
------涙が 止まらなかった。
どれぐらいそうしていたんだろう。
壁の時計を見れば、日付が変わっていた。
「今更......」
-----ひどいよ。
いや、
ひどいことをしたのは、自分自身。
「でも」
誰に向けての言葉なのか、それもわからないまま。
ただ、ポツリポツリと呟くしかなかった。
「......っ」
ふと見れば、手紙には処々涙で滲んでしまった部分がある。
「どうしたら、いい?」
----私はひどいことをしてしまった。
「カイジにも、ヨンファにも」
・・・・・・・・
・・・・・・・・
「カイジ?」
「ね、カイジ?」
「.....ぁぁ、明日早くあいつんとこ行きたいんだろ?だったら寝るぞ」
そう言って、カイジは寝返りをうつ。
その言葉通り、大きな背中は、暫くするとゆっくり規則正しく上下し始めた。
「.....うん。わかった」
10月の三清洞。
黄色く色付いたイチョウの葉が、雨上がりの日差しを浴びていっそう強い黄色に見える。
「まぁ----ったく元気だよな、ソアンは」
「え?」
背後からカイジが声をかけてきた。
振り返れば、腕時計に目を向けるカイジの姿があった。
「何よ、その言い方っ。自分だって『明日は早くからヨンファを叩き起して祝うんだぞ』なんて言ってたクセにっ」
昨夜、何週間かぶりにカイジの部屋に泊まった。
付き合い始めてまだ一年も経っていないのに、二人の関係はまるで結婚して数年経過した夫婦みたいだ。
といっても、同棲しているわけでもないから、これが結婚生活なら、『通い婚』か『別居』、ということになる。
世の中では、こんなカップルを『倦怠期』と呼ぶのだろう。
「......」
一緒にいて、ときめくということはなかったけれど、大事にしてくれている。
そう感じることはたくさんあった。
ただ一つを除いては、うまくいっていた。
そう思っていた。
そのたった一つの不安要素ですら、原因はソアンにあるのだから。
最後のセックスから、かれこれ二ヶ月。
体の関係は冷めている。
同じベッドで眠るのは久しぶりだというのに、昨夜もカイジは求めてこなかった。
「ふぁ------」
腕時計から視線を外したカイジは、口を隠すでもなく大きなあくびをしながら首をポキっと鳴らしている。
----やめてよ、そんな素振り。
思わずソアンは心の中でそう叫んでしまった。
カイジのそれは。
カイジ自身、別段何の意味も持たないのかも知れない。
けれど、
-----ヨンファがいるのに。
久しぶりに会った恋人との夜。
わかるだろ?俺たち寝不足なんだ、と。
カイジの態度は、そんなアピールに見えてしまわないか。
-----ヨンファが見てるのに。
「ね、ヨンファっ?」
慌ててヨンファに声をかけた。
-----あぁ、私は一体何をしようとしているのか。
「今日はヨンファの誕生祝いなんだからねっ。ほらほら、トボトボ歩いてないで 、もっとシャキっとなさい!」
そう言って、ヨンファの隣に走り寄ると、腕を掴んで歩き始める。
視線の先には、カイジの背中がある。
-----私は、一体何をしようとしているんだろう。
「この先にもっと綺麗な場所があるの。
最近はさ、観光客も多いからもう少ししたら人でごった返すし。こんなチャンス二度とないわよっ」
「.....ったく」
ヨンファは苦笑いを浮かべながらも、歩幅を合わせて歩いてくれた。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
頭の中がぐるぐると回るけれど、答えはみつからない。
目の前には、恋人のカイジがいる。
そして、
今、腕を組んで歩いているのは、恋人の親友。
なのに。
-----どうしよう。
胸が押さえつけられるように痛かった。
カイジと付き合い始め、親友のヨンファだ、と。紹介されたあの日から、もう慣れっこになっていたはずなのに。
それでもやっぱり胸が痛い。
「ね?ヨンファ?」
「ん?」
悟られないように、と。そう願うけれど。
ヨンファと目が合うとどうしても。
「あ、あのねっ」
変に上擦った声。
パッと視線をそらし、早口でまくしたてるように話し始めた。
「ソアン?」
目を丸くしたヨンファの気配を感じて、こんな風にしか接することのできない自分への恥ずかしさに耳まで赤くなる。
あぁ、ダメだ。
こんなんじゃ、私、何を言い出すか......。
どんなに普通でいようと思ってみても、やっぱり調子がおかしくなるのだ。
このままじゃダメ。
少しでも距離を取ろうと、僅かに離れた腕。その腕がヨンファに絡め取られた。
「.....っ」
-----ダメだよ、ヨンファ。
ヨンファの左手が手の甲に重ねられる。
瞬間、心臓が、止まるかと思った。
ドキドキしている鼓動が、手のひらから伝わったらどうしよう。
-----ダメだよ、ヨンファ。
チラっと覗ったその綺麗な横顔は、空を見上げていた。
------ごめんなさい。
もう、二度とこんなことはしないから。
神様ごめんなさい。
カイジ......ごめんね。
だから。
今だけ、ここにいさせて。




