その12 焦り
暫くの間、
「静か、だな.....」
得体の知れないモノをそこに残したまま。
静寂と暗闇、ヨンファはその二つに包まれていた。
----さっきのカイジの顔。
不思議だった。
ついさっきまで、目の前で流れていた映像が砂嵐とともに消え。
同時に、
ついさっきまで、目にしていたはずのその映像が、どんなものだったのか。
そこに誰がいて、
そこでどんなことをしていたのか。
「なんでだよ」
思い出そうとしているのに、何一つ思い出せない。
それでいて、カイジの顔だけは脳裏に焼き付いているのだ。
「どうしてあいつの顔ばっかり」
しかもその表情は、これまでに目にしたことのないような、険しい表情だった。
確かに最後、消え入る前のカイジの目は、辛そうな色を浮かべ、こっちを見ていた。
「.....」
その瞬間だけが、まるで切り取られたかのように、意識の中に残っている。
何かがあったはずだ。
いや、あのあとに何かが起こったのかもしれない。
けれども、
「ったく、思い出せよっ、おい、しっかりしろ」
おかしなもので、記憶を消そうとしておきながら、この時のヨンファは心にひっかかるカイジの表情の謎を解き明かそうと必死だった。
目の前を通り過ぎようとするカイジの背中。
----そっちに行くな、待て。
そんな心の叫びもカイジには届かない。
「ぁ....カイジっ」
伸ばした手も虚しく空を切った。
「.....っ、待って、待ってくれよ、消すなっ!消えんなよっ」
暗闇に向かって怒鳴りつけた。
しかし、一度始まった記憶削除の作業は秒刻みで進んでいく。
頭の中に残ったカイジの顔。
それすらも、どんどん薄らと色あせていくような、そんな。
焦りにも似たものを感じながら、
ふと、ヨンファは己の両手を見つめた。
「.....」
両手が小さく震えていた。
なんとも言えない恐怖。
多分、それは、
記憶削除を受ける時に、一番感じてはならず、しかし、一番感じてしまいやすい種類のモノ。
----このまま、俺自身も消えてしまうんじゃないか。
「嘘....だろ」
震える手をぎゅっと強く握った。
「嘘、だよな」
ドクドクと音をたてて、血が頭の後ろを流れていく。
「がぁ----------------------------------------------っ」
獣にも似た声で叫び、
両手で頭を抱えるようにして、何度も何度も左右に振った。
フラフラと足元は乱れ、
ガクリと膝を折るようにしてその場に崩れた。
待ってくれ。
一度、ストップしてくれ。
「お願いだからっ、頼むからっ」
「俺は.......」
--------とんでもないことをやらかしたのかもしれない。
はぁ、はぁ、はぁ
感じるのは、ヨンファ自身の荒い息遣いだけ。
「.....っ」
刹那、意識がふわりと浮いた。
そうして、次に意識を取り戻した時には、
「......ぇ?.....何だ?俺、今、何をして」
「き、えた?」
その呟きも静かな暗闇に飲み込まれていく。
「俺は、誰だ?」
その答えをくれるものはいない。ただ、
「カン・ヨンファ....」
その名前を口にして、同時に息を吐いた。
カン・ヨンファはまだ、ここにいる。
と同時に、
----------やけに、静か、だよな。
静寂は時として更なる恐怖を生む。
「まさか、全部」
意識を失っている間に、すべてが終わったなんてことは。
『スピードが落ちてますね』
突然、暗闇の中から男の声が落ちてきた。
-----スピード?
声のする方へと顔を向けるが、そこにあるのは、闇だけ。
『データ処理量に問題ないか、見てもらえるかな?』
『あ、はい』
同じ男の問いかけに、別の声が返事をする。
-----あぁ、そうだった。
あの声の主は、例の会社から派遣された博士と助手。
この闇の向こうにリアルな世界がある。
「....聞こえてる?」
ということは、
向こうの声が聞こえるのなら、こっちの声も届くかもしれない。
気がつけば、ヨンファは着ている服の胸のあたりをぎゅっと強く握り締めていた。
「あのっ」
今聞こえた声のする暗闇の向こうへ声をかける。
最初は少しばかりおどおどした感じで。
「あのっ、聞こえますか?」
さっきより、僅かに声を張った。
しかし、返事はなかった。
「一つ、一つだけいいですかっ」
「なぁっ!聞こえてないのか?」
『どうだ?』
『はい。仰るとおり、僅かですが誤差が生じています』
『範囲内?』
『問題はないかと』
「......無理か」
男の声はするものの、それはヨンファに対する返事ではなかった。
リアルの世界の声は聞こえるけれど、夢の世界にいるヨンファの声は伝わらないということだろう。
とすれば、
「こっちで暴れればどうなる?」
例えば、夢の中で泳いでいると寝ている間も手足が勝手に動くみたいに。
「これはどうだ?」
ヨンファはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねてみた。
もしもつながっているのならば、ベッドの上で暴れるヨンファ自身に気がついてくれるだろう。
「....っ」
やはり、そこには暗闇と静寂しかなかった。
「.....だめ、か」
飛び跳ねるのはもとより、暗闇の中を走り回ったり、
その場で何度も足踏みをしたり。
それでも向こうからは、時折淡々とした会話が交わされるだけで、別段、ヨンファの様子を気にしている素振りはなかった。
いつしか、ヨンファは気がついてもらおうという気持ちすら諦めて。
膝を抱えるようにして、その場に座り込んだ。
「覚えて....ない」
そう。
記憶を削除しようと決心して、薬を服用し、ベッドに横たわった。
それは事実で、それは記憶にあるのだが、
目を閉じたあと、どんなことが起こったか。
ついさっきまで目にしていた映像。
この暗闇の中にぼんやり浮かんだ光。その光の向こうに見えたもの。
それが、どんな映像だったのか。
「記憶が消えてる....」
妙な焦りが生まれていた。
自分自身で望んだことだったはずなのに。どうしてだろう。この、なんとも言えない感情。
「....ぁっ」
再び、己の心臓を掴みだそうとでもしているかのように、シャツをぎゅっと強く握り締めていたことに気がついて、パッと手を離す。
シャツの胸元は大きなシワが寄っていた。




