99:無意識
午後最初の授業は、二人一組で行う魔力伝導・出力制御の基礎実習だった。
実習室の机の上には、小さな魔法陣の刻まれた銀板と、細長い魔導硝子管が二本ずつ用意されている。
窓から差し込む午後の陽射しは昼休みの頃よりわずかに傾き、磨かれた銀の縁や硝子の表面に、白く細い光を落としていた。
硝子管の内部には、透明な魔力感応液が満たされている。銀板へ魔力を流すと、管の底から液体が淡い青白い光を帯び、その光は出力に応じて上へ広がっていく。側面に刻まれた目盛りから、光の届いた位置を読み取る仕組みだった。
「魔力は、強く流せばいいわけじゃない。必要な量を、必要な場所へ、安定して届けることが重要だ」
教師が前方の見本を使いながら手順を説明する間、生徒たちは指定された相手とそれぞれ机を囲んでいた。ルシアンの隣には、フローレンがいる。
二人で組むこと自体は、特に珍しくない。これまでの授業でも何度か同じ机を囲んできたぶん、互いが作業する時の間合いにも、いつの間にか馴染んでいた。
――そのはずだった。
「まず指定された第一段階の出力から始め、そのあと第二、第三段階へ順に魔力を上げていくように。片方が銀板へ魔力を流し、もう片方が硝子管の反応値を記録する」
教師は机の上の器具を示しながら、一度教室を見渡した。
「一通り終わったら役割を交代。魔力の残滓が反応へ影響する可能性があるので、二人で同じ硝子管を使わないこと。三段階の測定を終えたら、それぞれの記録を確認して提出するように。基準値から大きく外れていないか、段階ごとの出力が安定しているかも確認すること」
操作に使う銀板は机の片側へ固定され、その反対には記録用紙を置くための小さな台が設けられていた。役割を交代する時には、そのまま二人の立ち位置も入れ替わることになる。
フローレンは説明を聞きながら、配られた記録用紙へ視線を落とした。俯くたび、高い位置から背へ流れた髪が肩の後ろで揺れ、簪の垂れ飾りも少し遅れて淡い光を返している。
「最初、私が記録するね」
「ああ。頼む」
ルシアンは銀板の前へ立ち、表面へ刻まれた細かな魔法陣を確認した。
杖を取り出し、先端を魔法陣の中央へ向ける。教師から指定された最も弱い出力になるよう意識を整えてから、ごく少量の魔力を流した。
杖先から伝わった魔力が銀板の紋様を淡く走る。それに呼応するように、台座へ差し込まれた硝子管の底から魔力感応液が青白く光り始め、出力に応じて発光する範囲がゆっくりと上へ伸びていった。
最初の目盛りで光が止まったのを見て、フローレンが素早く数値を書き留める。記入を終える頃には、ルシアンも一度魔力を止め、銀板へ向けていた杖先を下ろしていた。硝子管に残っていた青白い光も、ゆっくりと底へ沈むように消えていく。
そこまでは、いつも通りだった。
フローレンが書き込んだ記録用紙を、ルシアンから見えやすい位置まで滑らせる。
「今の値、これで合ってる?」
フローレンが、先ほど読み取った数値の横へ指先を置く。ルシアンも確認しようと紙へ目を落とし、同じ欄へ手を伸ばした。
示そうとした場所が重なり、白い紙の上で二人の指先がほとんど同時に近づく。
「あ」
「……」
触れる寸前で互いに気づき、二人の指がぴたりと止まった。白い紙の上で、近づいた指先だけが動きを失う。
ほんの一瞬、そこだけ時間から取り残されたような静けさがあった。
次の瞬間、二人は示し合わせたように手を引いた。
記録用紙だけが、何事もなかったように二人のあいだへ残っている。
ルシアンは一度その紙へ視線を落とし、書き込まれた数値を順に確認する。どの欄にも誤りはなく、先ほど硝子管へ現れた反応ともきちんと一致していた。
「……問題ない」
「うん」
ほんの数秒のことだった。作業そのものには何の支障もない。
「じゃあ、次。二段階目」
「ああ」
フローレンのペン先は、すでに次の記入欄へ移っている。
それでも次の測定へ移ろうと、下ろしていた杖を構え直すルシアンの手は、いつもよりほんの一拍だけ遅れた。
気を取り直すように杖を銀板へ向け、三段階目までの測定を終える。魔力の流れを止めると、硝子管の中に残っていた淡い光も、底へ溶けるようにゆっくりと消えていった。
「じゃあ、交代だね」
「ああ」
役割を入れ替えるため、二人はそれぞれ反対側へ回ろうとした。
ルシアンが机の脇を抜けようと右へ一歩ずれる。ところが、フローレンも同じように右へ踏み出した。ちょうど互いの行く手を塞ぐ形になり、二人そろって足を止める。
では反対へ、と避けたのも同時だった。
今度は揃って左へ寄り、また正面で進路が重なる。
「……」
「……」
机の横で行く手を塞ぎ合うように立ち止まり、ほんの一瞬、二人は顔を見合わせた。
どちらからともなく次の一歩をためらった、その時。先に堪えきれなくなったらしいフローレンが、ふっと頬を緩めて小さく吹き出した。
その笑いにつられるように、ルシアンの口元からも自然と力が抜ける。
「ふふ、ごめん」
「いや。僕がこっちへ行く」
「うん」
今度はルシアンが先に進む方向を示し、フローレンが一歩待つ。それでようやく、二人はすれ違うようにして無事に場所を入れ替えた。
二回目の測定では、先ほどとは別の硝子管を使う。最初に流したルシアンの魔力がわずかでも残れば、次の反応値へ影響する可能性があるため、一人ずつ別の管を使う決まりだった。
記録側へ移ったルシアンは、記録台の脇に置かれていたもう一本の硝子管を手に取る。そのまま操作側へ回ったフローレンへ渡そうと、机越しに差し出した。
それを受け取ろうと、フローレンの手もこちらへ伸びてくる。
また、指先が近づいた。
今度は触れるよりもずっと前に、二人とも動きを止める。先ほどのことを同時に思い出したらしく、フローレンの視線が一度だけルシアンの手元へ落ちた。
「……いったん、そこに置いてくれる?」
「ああ」
ルシアンは硝子管を中央のトレイへ置き、フローレンがそこから拾い上げる。
間違ってはいない。硝子管だって無事に渡ったし、作業を止めるほどのことでもない。
それでも、普段なら手渡して終わるはずの動作に、一つ余分な手順が増えている。
斜め向かいの組では、二人分の記録用紙を並べながら、出力のわずかな差について小声で意見を交わしていた。少し離れた机からは、「二段階目だけ上がり幅が違うの、杖の角度かな」「いや、最初の基準値が少し高いんじゃない?」と、測定結果を検討する声が聞こえてくる。
別の机では教師が呼び止められ、生徒の示した数値を覗き込みながら何かを説明していた。その向こうでも、細長い硝子管の中に青白い光が次々と立ち上がり、側面の目盛りに沿って静かに高さを変えている。
教室には、実習中らしいざわめきが絶えず満ちていた。低く交わされる相談の声に、ペン先が紙を擦る音、杖を置く小さな音が重なり、ときおり硝子管を取り替える澄んだ音が混じる。
その中で、自分たちの机だけが妙にぎこちない。
ルシアンは手元の記録用紙へ視線を落とした。フローレンの魔力は安定しており、硝子管の中を上っていく光も、教師の示した範囲から外れていない。
操作も正確だ。記録にも抜けはなく、実習そのものは何一つ失敗していない。
それなのに、いつもなら考えもしないようなところで手が止まり、互いの動きがほんの少しずつ噛み合わない。
そうした小さなずれを残しながらも、その後の測定は問題なく進んだ。最後の反応値を書き終える頃には、他の組より早く一連の手順を終えている。
「できた」
銀板へ向けていた杖を下ろし、フローレンが小さく息をついた。硝子管に残っていた青白い光が静かに消えていくのを待って、ルシアンは二人分の記録用紙を机の中央へ並べる。
「ちゃんと範囲内に収まってるね」
「ああ。ばらつきも問題ない」
二枚の記録を順に確認する。どちらも指定された範囲から大きく外れることはなく、三段階の出力も安定していた。提出する結果として見れば、普段と何も変わらない出来だった。
けれど、机の端へ並べた二本の硝子管を眺めながら、ルシアンは先ほどまでの細かな行き違いを思い返していた。
紙へ伸ばした手。場所を譲ろうとして、二度も同じ方向へ動いたこと。硝子管を渡そうとした時の間。
どれも一つだけなら、わざわざ気に留めるほどのことではない。それでも、一緒に作業する時にはいつも自然に噛み合っていたぶん、今日に限って重なった小さなずれが妙に際立って感じられた。
実習室を出る頃には、レオも自分の組の片づけを終えていた。少し先を歩いていた彼は、廊下へ出たところでふと振り返り、そのまま二人の顔を見比べる。
「二人、今日ちょっと調子悪かった?」
「え?」
フローレンが目を瞬く。レオが足を止めたので、ルシアンたちも自然と廊下の端で歩みを止めた。
「さっきの実習。なんかいつもより噛み合ってなかったから」
責めるような声ではなく、単純に不思議なのだろう。レオはわずかに首を傾げて、ふと思い出したように言った。
「昼のあれでもう風邪ひいたとか?」
「いや、問題ない」
「ううん。大丈夫」
二人の返事が、ほとんど同じタイミングで重なった。
ルシアンもフローレンも一瞬だけ言葉を止める。互いに顔を見合わせるほどではなかったものの、わずかに視線の置き場を迷うような間ができた。
それを見たレオは、一度ぱちりと目を丸くする。けれど何かを言うでもなく、すぐに口元を緩めた。どこか可笑しそうな、けれど深く追及する気もなさそうな笑い方だった。
「そう? ならいいけど。無理しないでね」
「ああ」
「ありがとう」
今度は返事も重ならず、それぞれに答える。レオは二人の様子をもう一度確かめるように眺め、それから小さく頷いた。
けれど、歩き出すより先に、ルシアンの中にはレオの言葉が一つ引っかかった。――調子が悪かったのではないかと言われてみれば、今日の妙な違和感にも一応の説明がつくような気がする。
昼休みには耳が赤くなっていた。髪を上げて露わになった首元も、風が吹けば少し冷えると言っていたし、午後の実習ではいつもよりわずかに動きが噛み合わなかった。
本人に自覚がなくても、季節の変わり目には体調を崩すことがある。何より以前にも、本人が大丈夫だと言っていたあとで熱を出したことがあった。
「……本当に大丈夫なのか?」
ルシアンが尋ねると、フローレンは意外そうにこちらを見上げた。もう一度確認された理由が分からないらしく、ぱちりと一度瞬きをする。
「え、大丈夫だよ」
「……そうか。でも、前例があるからな」
その言葉でようやく、何のことか思い当たったらしい。フローレンは一瞬だけ目を丸くしたあと、少し困ったような、それでいて可笑しそうな笑みを浮かべた。
「それ、もう一年以上前だよ」
「あー、でも確かに」
レオも思い出したように頷く。
「でも、あの時もフローレン結構ぎりぎりまで大丈夫って言ってたよね」
「……二人とも覚えてるんだ」
「そりゃ覚えてるよ」
レオが当然のように返すと、フローレンは「もう」とでも言いたげに眉尻を下げた。けれど、その顔には困ったような可笑しさが滲んでいる。
「今日は本当に平気。昨日もちゃんと寝たし、ご飯も食べたよ」
そう言われれば、顔色に悪いところはない。声にも普段と変わったところはなく、先ほどの実習でも魔力出力そのものは終始安定していた。
それでも、昼休みに赤くなっていた耳と、今日だけ重なった細かな行き違いが、やはり少し引っかかった。
「熱は――」
無意識だった。
ルシアンの手が、ふっとフローレンの額へ向かっていく。
考えてから伸ばしたわけではない。
以前にもこうして熱を確かめたことがある。額へ触れてみれば分かる――ただそれだけの、ごく自然な動作として、考えるより先に身体が動いていた。
柔らかそうな前髪がかすかに揺れていた。その向こうに覗く額までは、もうほんのわずかしかない。あと少し手を進めれば、手の甲がその肌へ触れる。
そこまで近づいて、ふいに意識が追いついた。
伸ばしていた指先が止まる。
フローレンも動かない。触れる寸前で止まった手を見つめたまま、ほんの一拍だけ間があった。それからゆっくりと視線を上げ、ルシアンの顔を見る。
「……」
「……」
廊下には、生徒たちの話し声も、笑い声も、行き交う靴音も絶えず響いていた。すぐそばを通り過ぎる制服の衣擦れまで聞こえるほど、辺りはいつも通り賑やかだ。
けれど、フローレンと視線が重なった瞬間、それらすべてが急に遠くなった。
周囲の景色がさあっと薄れて、二人のいる場所だけがそこから切り離されたように静まる。伸ばしかけた手と、その先にある白い額。そのわずかな距離だけが、ひどく鮮明だった。
――僕は、何をしているんだ。
以前、同じように熱を確かめた時には、触れる前にきちんと尋ねたはずだった。
少し額に触れても良いか、と。
親しい友人であっても、女性へ触れる前には一言断る。公爵家でそう教えられてきたというだけではなく、それはもう、ルシアン自身の振る舞いとしてすっかり身についていた。
だからこそ、問いかけるより先に手が伸びていたことの方が、ひどく自分らしくないものに思えた。
ルシアンは伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。行き場をなくした指先が一度だけ空を切り、そのまま身体の横へ戻っていく。
「――いや」
一度言葉を切る。
「まあ、その様子なら大丈夫なんだろう」
「……う、ん」
フローレンの返事は、いつもよりわずかに遅れた。
けれど、それ以上何かを尋ねることはなかった。ルシアンから下ろされた手へ一度だけ視線を落とし、それから何事もなかったように顔を上げる。
レオも二人を黙って見ていたが、そこへ余計な言葉を挟むことはしなかった。ほんの少しだけ間を置いたあと、いつもの調子で前方へ身体を向ける。
「じゃ、次の教室行こっか」
「ああ」
「うん」
三人は再び並んで廊下を歩き始めた。
窓の外では、午後の風を受けた木々の葉が絶えず形を変えている。傾き始めた陽射しは硝子越しに長く伸び、三人の足元を追うように、廊下の床へ淡い光と影を落としていた。
ルシアンは歩きながら、先ほど伸ばしかけた自分の手へ一度だけ目を落とした。
体調を確かめようとしただけだ。そう考えれば、それで終わる話のはずだった。
それなのに、何にも触れていない指先には、触れる寸前で止めたあのわずかな距離だけが、いつまでも妙に残っていた。




