98:どっちが良い?
昼休みになる頃には、朝の冷たさを含んでいた風もいくらか和らいでいた。
それでも窓の外へ目を向ければ、青く澄んだ空はもう夏のものとは違う。中庭の木々はまだ多くの葉を残しているものの、風が吹くたびにその色の中へ少しずつ黄が混じり、陽射しもどこか薄くやわらいで見えた。
午後の授業で使う資料を確認するため、三人は昼食を終えると図書館へ向かった。
途中、すれ違った教師がレオを呼び止めた。どうやら荷物運びを手伝ってほしいらしい。レオは「あとで行く」と二人へ告げると、教師と連れ立って別の廊下へ曲がっていった。
そのまま二人で、図書館へ続く長い廊下を歩いていく。
フローレンの髪は朝に結ってもらったままだった。
やや高い位置から流れる髪が歩調に合わせてふわりと揺れ、簪から垂れた硝子石も、少し遅れて小さく光を返している。
歩くたび、長い髪は座っていた時よりもずっと大きく弾んだ。それに合わせて簪の垂れ飾りまできらきらと揺れるものだから、否応なく意識へ入り込んでくる。
朝から何度も目にしているはずなのに、ルシアンの視線は時折そちらへ向いた。
図書館の扉が見えてきたところで、ルシアンは一度口を閉ざした。何か言いかけてわずかに息をつき、それでも数歩ぶん迷ったあと、ようやく意を決して口を開く。
「その……首元は寒くないのか?」
「え?」
フローレンはぱちりと瞬き、歩みを少し緩めた。
何を聞かれたのか考えるように、しばらくこちらを見つめている。もう一度その言葉を頭の中で辿るように、小さく首を傾げた。
やがて、あ、とでも言いたげに自分の首元へ手を添える。その途端、きょとんとしていた表情が自然にほどけた。
少しだけ視線を逸らしてから、口元にやわらかな笑みを浮かべる。
「大丈夫。あ、でも風が吹くとちょっとスースーする」
そう言って、くすぐったそうに肩をすくめた。
その拍子に、まとめられた髪が背中の上でふわりと跳ねる。
また、白い首筋が目に入った。――けれど、今度は理由がある。
最近は肌寒く感じる日もちらほら出てきている。いつもは出していない肌が出ていれば、寒くないか気になるのは当然だ。季節の変わり目は、些細な原因でも体調を崩しやすいものだ。
朝から何度も目が向いていたことまで、なんとなくそれで説明がついたような気がした。
「とても似合っていると思うが、風邪を引いたらよくないからな」
「もしかして心配してくれてる?」
「……ああ」
思いがけずまっすぐ尋ねられ、少しだけ言葉に詰まった。けれど、否定する理由はどこにもない。ルシアンはそのまま素直に頷いた。
フローレンは首元へ触れていた手を下ろし、少しだけ考えるように視線を泳がせた。
「……ルシアンは、どっちが……その、良いと思う?」
「髪型か?」
「うん」
予想していなかった問いに、今度はルシアンが少し考える番になった。
朝から何度も目にしていた姿と、普段のフローレンの姿を頭の中で並べてみる。
いつもの髪型は、もちろんよく似合っている。ミルクティー色の髪はゆるやかに波打ち、その柔らかな色合いも彼女の雰囲気によく馴染んでいた。
風を受ければふわりと靡き、陽の下では光を含んだように淡く透ける。丁寧に手入れされているのだろう、長い髪は毛先まで艶やかで、見慣れているはずなのに綺麗だと思うことは何度もあった。
一方、今日の髪型はいつもより少し大人びて見える。耳の上に沿った編み込みには愛らしさがあり、高い位置で束ねられた長い髪は、歩くたび、振り向くたびに軽やかに揺れた。そのたびに簪の飾りまで小さく光るものだから、どうしても目を引かれる。
首筋やうなじがすっかり露わになっているのは、やはり少し気にかかる。けれど、だからといって隠れている方がいいとも思えなかった。普段は髪に覆われている白い首筋が覗く姿には、いつもとは違う不思議な魅力がある。目を留めていたいような、それでいて、あまり長く見ていてはいけないような、自分でもうまく説明できない感覚だった。
下ろしている方にも、今の髪型にも、それぞれ違った良さがある。……と、しばらく真面目に比較してみたものの、どう考えても片方だけを「良い」と選ぶことはできそうになかった。
「そうだな……どちらも似合っていると思う」
「ほんと?」
「ああ。……夏なら上げた方が涼しいだろうが、今は少し冷える日も増えてきたから」
最後にはやはり気候の話になった。
フローレンは一瞬きょとんと目を瞬かせたあと、その答えを受け取るように、小さな笑みをこぼした。
「そっか。じゃあ、明日は下ろしてくる」
「ああ」
返事はすぐに出た。
明日になれば、いつもの髪型に戻る。それだけのことだと、ルシアンは深く考えもせずに頷く。
隣では、フローレンが歩きながら簪のあたりへそっと指先を伸ばしていた。揺れる飾りに軽く触れ、その感触を確かめるように指を添える。
ふと、フローレンが窓硝子へ目を向けた。そこには、簪を挿し、長い髪を高く結った今日の姿が薄く映っている。
すぐに視線を戻すかと思ったが、彼女はしばらくそのまま、自分の姿を眺めていた。その横顔には、朝に鏡を見ていた時とよく似た、やわらかな笑みが浮かんでいた。
「見納めだね、この髪型」
「……ああ」
今度は、返事までにわずかな間が空いた。
見納めと言われて初めて、朝から何度も目にしていた姿が、今日の終わりにはなくなるのだと妙に実感が湧く。似合っていると思っていたぶん、少し惜しいような気もした。
図書館の奥には、ちらほらと生徒の姿があるだけだった。
昼の光は朝より高い位置から差し込み、長机の上へ白っぽく広がっている。静かな室内では、頁をめくる音や椅子を引く音さえ、普段より少し近く聞こえた。
図書館へ着いて少しするとレオとも合流し、三人は午後の授業に使えそうな資料を探すため、それぞれ別の書架へ散った。
高く並んだ本棚の間を歩きながら、ルシアンは背表紙をひとつずつ目で追っていく。静かな図書館には、ときおり本を引き抜く音や、遠くで頁をめくるかすかな音だけが響いていた。
やがて、探していた題名が目に留まる。
「これだな」
棚から一冊を抜き取り、そのまま三人で使っていた机へ戻る。少し厚みのある本を卓上へ置くと、先に席へ戻っていたフローレンが、隣から興味を引かれたように身を寄せてきた。
開かれた表紙へ目を落とすように、ひょいとこちらを覗き込む。
「どこ?」
「この辺りだと思う」
ルシアンは持ってきた本を二人の間へ寄せ、目当ての頁を探して指先で何枚かめくった。該当する箇所を見つけると、そのまま本を開いて中央へ置く。
いつもなら、あとは二人で一冊を覗き込むだけだった。
一緒に勉強するようになった頃から、一冊しかない本を並んで読むことは幾度かあった。肩が近づくことも、互いの手が同じ頁へ伸びることも、これまでは特に気にしたことがなかった。
今日も、そのはずだった。
フローレンが頁を見るため、隣から少し身を寄せる。机の中央へ置いた本を覗き込むように、肩がいつもより近くなった。
ルシアンも同じ箇所を追おうとして――なぜか、わずかに身体を引いた。
自分でも、そうするつもりがあったわけではない。気づけばそれまでより少しだけ距離が空いていた。フローレンはそんなことには気づいた様子もなく、中央の本へ視線を落としたまま文字を追っている。
けれど、離れたぶんだけ今度はこちらが読みづらい。細かな文字を追おうとすれば、どうしても少し身を乗り出す必要がある。
ルシアンは仕方なく、もう一度本へ身体を寄せた。
すると今度は、それと入れ替わるようにフローレンがわずかに身を引いた。
「……」
「……」
どちらも何も言わない。
ルシアンもそれ以上近づくのをやめ、わずかに姿勢を戻した。そうすると、フローレンとの間には先ほどより少しだけ余分な隙間ができる。
本だけが、妙に行儀よく二人の真ん中に置かれていた。
フローレンはその距離のまま、少し首を伸ばして文字を追っている。ルシアンも同じように視線を落としたものの、頁は微妙に遠い。
やはり、読みづらい。
しばらく互いにそのまま粘っていたが、結局、どちらからともなく本へ身を寄せた。ほとんど同じタイミングだった。
今度は、思ったより近かった。
肩が触れたわけではない。
それでも、横を向けば、すぐそこに相手の顔があると分かるくらいの距離だった。今までなら何でもなかったはずの近さが、今日は妙に意識へ引っかかる。
普段は背に流れているフローレンの髪が、高い位置でひとつにまとめられている。
そのぶん、頬の横に残された柔らかな後れ毛も、その向こうから覗く形の良い耳もよく見えた。簪から垂れた硝子石が、頁へ差す光を拾いながら、わずかな動きに合わせて小さく揺れている。
ルシアンはそこへ向きかけた意識を戻し、何事もなかったように本へ視線を落とした。
隣でも、フローレンが背筋をわずかに伸ばした気配がする。椅子がかすかに軋み、それきり二人の間には妙に静かな間ができた。
「……ここだな」
「う、うん。そこだと思う」
返ってきた声は、いつもよりほんの少しだけ硬い。ルシアン自身の声も、似たようなものだったかもしれない。
けれど、その理由について考えるより先に、書架の向こうから足音が近づいてきた。
「見つかった?」
聞き慣れた声とともに姿を見せたのは、レオだった。
「うん。ほら、この頁」
「俺も見る」
レオはいつものようにフローレンの反対側へ回り込み、そのまま肩越しに開かれた本を覗き込む。三人で一冊の資料を見る時には、いつもそうしているような、ごく自然な動きだった。
「どこ?」
「ここだよ」
フローレンも特に気にした様子はなく、頁の一箇所を指先で示した。
「これ、前の授業で出てきたやつ?」
「そう。こっちにもう少し詳しく載ってるみたい」
「へえ」
何でもない、いつも通りのやり取りが続く。
ルシアンは本へ視線を落としたまま、二人の様子をちらりと窺った。レオはフローレンとの距離など意識する様子もなく、すぐ隣から頁を覗き込んでいる。フローレンも身を引くことなく、指した箇所についてそのまま説明を続けていた。
少し近づいては離れ、離れれば読みづらくなって、また近づく。そうして最後には、二人揃って妙に姿勢を正す。
つい先ほどの自分たちの不自然な動きだけが、やけに際立って思い返された。
不意に、レオが本から顔を上げた。そのまま何気なく隣へ目をやり、フローレンの横顔を見たところで視線が止まる。耳元を見つめて、わずかに眉を上げた。
「あれ? フローレン、なんか耳赤くない?」
「……え?」
名指しされたフローレンが、ぱっとレオを見る。
「寒い?」
「え、あ、ううん。寒くないよ」
答えながら、なぜか少し慌てたようにフローレンは手元を動かした。開いた本へ視線を戻し、頁を整えるように指先を滑らせる。
けれど、そのまま何気なく伸ばした手が、机の端に置いていたペンへ触れた。
「あ」
小さな音を立てたペンは机から落ち、そのまま床を滑ってルシアンの足元で止まった。
「ごめん」
「いや」
そう言うのとほとんど同時に、二人そろって机の下へ身を屈める。椅子の脚のそばに落ちたペンへ、左右から手が伸びた。
その動きまで、ほとんど同時だった。
伸びた指先が近づき、あと少しで触れそうになる。そこで気づいたように、二人の手がぴたりと止まった。
「……」
「……」
どちらからともなく顔を上げる。
思いのほか近いところで、視線がぶつかった。
先ほどよりも、さらに顔が近かった。
机の下へ差し込む光は薄い。天板に遮られ、床のあたりには淡い影が溜まっている。
それでも、すぐ目の前にあるフローレンの顔はよく見えた。
驚いたように大きく見開かれた瞳が、一度ぱちりと瞬く。
その視線はまっすぐルシアンの顔を捉えていたが、ふと横へずれた。頬のあたりをゆっくり辿り、そのまま耳元で止まる。
何かに気づいたらしい。
フローレンがもう一度目を瞬いた。何か言おうとするように、唇がわずかに開く。
その言葉が出てくるより先に、ルシアンは床へ落ちていたペンを拾った。指先で掴むと、間を置かず身体を起こす。
「……さっきまで窓が開いていたんだ」
唐突にそう言って、今度は向かいに座るレオへ視線を移した。考える間もなく口にしたわりには、声だけは妙に落ち着いている。
「だから冷えたんだろう」
レオは答えず、まずルシアンを見た。それからフローレンへ視線を移し、もう一度ルシアンへ戻す。
「ふーん」
一拍。
「じゃあ二人とも、風邪ひかないようにね」
「ああ」
「う、うん」
ルシアンは「ああ」と頷き、フローレンも少し遅れて返事をする。
それ以上、レオは何も言わなかった。
ただ、開いた本へもう一度目を落とす時、その口元だけに、ごく薄い笑みが浮かんだように見えた。
「はい」
ルシアンが拾ったペンを差し出すと、フローレンは一瞬だけこちらを見てから、「ありがとう」と受け取った。
二人はパタパタと軽く制服の裾をはたき、それぞれ元の席へ戻る。机の中央には、先ほどと変わらず同じ頁を開いた本が置かれていた。
ルシアンはひとまず本へ視線を戻す。
文字を追えば、書かれている内容はいつも通り頭へ入ってきた。ひとつ読めば次の意味が繋がり、資料として必要な箇所もすぐに分かる。
けれど、ほんの少し意識を横へずらせば、隣にはいつもとは違う髪型のフローレンがいる。
先ほど机の下で間近に見た顔。そのあと、自分の頬から耳元へ移っていった視線。思い返そうとしたわけでもないのに、その二つがふいに頭の隅へ浮かんだ。
「……この続きも見てみる?」
隣から、少し控えめな声がした。
「ああ」
ルシアンは短く返し、示された先へ視線を落とす。
今度はどちらも妙に身を引くことはなかった。かといって、先ほどのように同時に近づくこともない。少しだけ慎重な距離のまま、三人で一冊の本を覗き込んだ。
頁をめくる音が、静かな図書館へ小さく響く。
窓の外では風が通り抜けたらしく、木々の葉がさわさわと揺れていた。枝の隙間から落ちる昼の光も、そのたびに机の上でかすかに揺らぐ。
やがて、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。
その音が響き渡るまで、三人はいつものように、一冊の本を囲んでいた。




