97:「……見すぎだって」
秋は、いつの間にか学院の中まで入り込んでいた。
朝の特進クラスの教室には、開け放たれた窓から細い風が吹き込んでいる。夏のあいだは重たく感じられた陽射しも、今では少し色を淡くして、窓辺の机や床の上へやわらかな光を落としていた。
授業が始まるまでは、まだ少し時間がある。
ルシアンが教室へ入ると、窓際に何人かの女子生徒が集まっていた。いつもより少しだけ賑やかな笑い声が重なり、朝の光が差すその一角だけ、どこか華やいで見える。
「髪長いし、少し上で結んだ方が似合いそう」
「たしかに。その方が飾りもよく見えるかも」
「どっちでも任せるよ。自分じゃ上手くできないし」
聞き慣れた声に、ルシアンは自然とそちらへ目を向けた。
楽しそうに顔を寄せ合う女子生徒たちの真ん中で、フローレンが大人しく椅子へ腰掛けている。
いつもは背へ流している長い髪を、周りの女子生徒が両手ですくい上げていた。その隣では、もう一人がいくつかの髪飾りを机の上へ並べている。
「何してるの?」
一緒に登校してきたレオが、ルシアンの後ろから興味深そうにその輪を覗き込んだ。
「あ、おはよう。髪を結ってもらってるの」
「フローレンっていつも下ろしてるでしょ? 一回やってみたくて」
女子生徒がそう答えながら、最後に結び目を整える。
両耳の上からすくい上げた髪は後ろへ向かって可愛らしく編み込まれ、その先を結び目へ巻きつけるようにまとめられていた。そこから、やや高い位置でひとつに束ねられた長い髪が背へふわりと流れている。
もともとゆるやかに波打つ髪質なのか、ひとつにまとめても毛先まで真っ直ぐにはならない。結い上げて肩甲骨ほどの長さに落ちる髪は、毛先にかけてやわらかく巻き、身体が動くたびにふわり、ふわりと揺れていた。
いつもなら髪に覆われている首筋も、今日はすっかり外へ出ている。
「ねえ、付けるのこれにしよ」
もう一人の女子生徒が手に取ったのは、簪の形をした髪飾りだった。
細い金色の軸から枝を伸ばすように、淡い乳白色の花がいくつか咲いている。花弁にはごく薄く桜色が差し、中心から伸びた金色の蕊が、朝の光を受けて細かく輝いていた。枝先には小さな真珠のような蕾も添えられ、その根元からは三連の繊細な鎖と、それぞれに雫の形をした透き通る飾りが垂れている。
結び目の横へそっと差し込まれると、花の下で揺れた雫飾りが朝の光を拾い、きらりと淡く輝いた。
「できた」
「見せて見せて」
フローレンは差し出された手鏡を両手で受け取り、少し身を乗り出すようにして、そっと自分の姿を覗き込む。
途端に瞳がぱっと明るくなった。
「……素敵」
片手を上げ、せっかく整えてもらった髪を崩さないよう、指先で慎重に触れる。その動きに合わせて長い毛先がふわりと揺れ、耳の横へ残された細い後れ毛も、やわらかく頬を撫でた。
「絶対似合うと思ってたんだ」
「簪もイメージ通りだし、ほんと可愛い」
「ありがとう。自分ではこんな綺麗にできないから嬉しい……!」
フローレンは手鏡を少し右へ傾け、今度は反対側へ傾ける。角度を変えるたびに見え方の違う髪型が新鮮なのか、何度も鏡の中の自分を確かめていた。
簪の花へそっと指先を寄せては、触れてしまっていいものか迷うように一度手を止める。口元には少しはにかむような笑みが浮かんでいるのに、瞳の奥には隠しきれない嬉しさがきらきらと滲んでいた。
「わ、印象変わるね。そっちも似合ってるよ」
レオは、感じたことをてらいなく素直に言葉へしたようだった。
自分のことのように嬉しそうな笑みを浮かべながら、少し離れたところからいつもと違う髪型のフローレンを眺めている。
「ほんと?」
「うん。いつもよりちょっと大人っぽく見える」
「それ私も思った」と女子生徒たちの声が重なった。
次々に可愛いと言われ、フローレンは頬をほんのり緩ませた。恥ずかしさはあるらしいものの、それ以上に心が弾んでいるようだった。鏡と周りの顔を交互に見ながら、何度も小さく笑っている。
普段より少しだけ華やいだ表情のまま、ふいにこちらへ向いた瞳と目が合った。
「ルシアンもおはよう」
「……ああ。おはよう」
一拍遅れたが、いつも通りに返した。
フローレンが動いた拍子に、ひとつに束ねられた髪が肩の向こうでふわりと揺れた。簪から垂れた飾りが、細かな光を散らす。
いつもなら髪に隠れているところへ、朝の光がまっすぐ差していた。
耳の下から肩へ続く首筋は思っていたよりも細く、結びきれなかった短い髪が何本か、白い肌へ柔らかく落ちている。
「ルシアン?」
声を掛けられる。
「……」
返事がないのを不思議に思ったのか、フローレンが少し首を傾けた。
その拍子に、簪の飾りがまた小さく揺れる。
「……変、かな?」
「……いや」
ようやく出た声は、自分で思っていたよりも低く、少しだけ掠れていた。
「似合っている」
口にしてしまえば、ほんの一言だった。
フローレンは一度目を丸くした。
それから、わずかに力を抜くように、目元をやわらかく緩める。さっきまでとはまた少し違う、ほっとした色がその表情へ浮かんだ。
「えへへ。ありがとう」
はにかんだような笑い声が、朝の教室を包む賑やかなざわめきの中へやわらかく紛れていく。
髪を結っていた女子生徒たちも満足そうに顔を見合わせ、もう一度フローレンの姿を横や後ろから眺めた。長い髪が揺れるたび、簪の花と硝子石がきらきらと細やかな光を返している。
「可愛いし、今日はそのままで過ごさない?」
髪を結った女子生徒がそう言うと、周りの女子生徒たちもうんうんと楽しそうに頷いた。
フローレンはもう一度鏡を覗き込み、結び目を崩さないよう、その近くへそっと指先を寄せる。
「じゃあ、そうしようかな。せっかく綺麗にしてもらったし」
――どうやら今日は、このまま過ごすらしい。
ルシアンは賑やかに続く彼女たちの声を背に、自分の席へ鞄を置いた。
机の上へ教本を取り出しているあいだにも、窓際からは楽しそうな笑い声と、時折小さく揺れる髪飾りの光が届いていた。
午前最初の授業が始まった。
窓から入る風は先ほどより弱くなり、教室には教師の声と、ペン先が紙を擦る微かな音が重なっている。
斜め前の席では、フローレンがいつもと変わらず教本を開いていた。教師の声を追うように視線をページへ落とし、ときおり小さくペンを走らせている。
ルシアンも手元へ目を落とし、説明された箇所へ線を引く。
今日扱っている内容は、さほど難しいものではない。教師が黒板へ書き足した式も、その先に続く説明も、おおむね予想がついている。
そのとき、視界の端で小さな光が揺れた。
無意識に顔を上げる。
フローレンが黒板へ視線を向け、少し姿勢を動かしたところだった。
やや高い位置で結ばれた髪が背の上を滑り、簪の飾りは窓からの光を受け、淡く煌めきながら揺れている。
――あれか。
きらきらと光りながら動くものが視界へ入ったから、つい目が向いてしまった。そう思い、ルシアンはスッと自身の手元へ視線を戻す。
黒板に書かれた数行を書き写したところで、解説する声が一旦途切れた。ほとんど間を置かず教師は教本へ視線を移し、そのまま次の頁を開くよう告げる。
紙をめくる音が、教室のあちこちで一斉に重なった。
フローレンも頁へ手を伸ばした。
身体をわずかに傾けた拍子に、長い髪が背中の上でさらりと動く。
揺れた髪の隙間から、細い首筋とうなじがちらりと覗いた。窓から差す光を受けた白い肌は、髪の影から覗いたぶんだけ、ひときわ明るく見えた。
また視線が止まる。
今度は、髪飾りが光ったからではない。
そのことへ気づいた途端、紙の上を走っていたペン先がほんのわずかに止まりかけた。
普段とは髪型が違うのだから、見慣れない姿へつい目が向くことくらいあるだろう。つまりはそういうことだ。……そう考えて、黒板へ視線をやる。
教師の説明を追い、必要なところだけを手元へ書き留めていく。数式も条件も、頭にはいつも通り入ってきた。寄り道していた思考も、教師の説明を追ううちに少しずつ鳴りを潜めていく。意識はようやく、いつものように授業へ向かいはじめていた。
ふいに、斜め前でフローレンがふと横を向いた。
隣の生徒に何か尋ねられたらしい。
顔を向けるのに合わせて、束ねられた髪が一方へ流れて、また首筋が覗いた。先ほどよりしっかり露わになった首筋の、うなじに近いところにごく小さな黒子がひとつ、白い肌によく映えている。
しゃら、と簪の飾りが、遅れて揺れる。
――気づけば、そちらを見ていた。
その時、背後からごく小さな声が落ちてきた。
「……見すぎだって」
周囲にはほとんど聞こえないほどの、ほんの囁きだった。
ルシアンは小さく肩を揺らした。
授業中に堂々と振り返るわけにもいかず、身体は前へ向けたまま、顔だけをわずかに後ろへ傾ける。
真後ろでは、レオが教本を開いたままこちらを見ていた。
「何がだ」
同じように声を潜めて返す。
「いや、何がって」
レオの視線が、一瞬だけルシアンの斜め前へ向いた。
「さっきから何回見てるの」
「……」
言われて、初めて回数を意識した。
記憶にあるかぎり、一度や二度ではない。
何度も視線を向けてしまったことは認める。けれど、わざとではない。見ようと思って見ていたのではなく、気づいた時には目が向いていた。
ならば、問題はその先だ。なぜ、無意識に目が向いたのか。
光を受けた髪飾りが視界の端で揺れたから。いつもと違う髪型が気になったから。長い髪が揺れるたび、自然と視界へ入ってきたから。
ひとつずつ理由を挙げてみるものの、どれも決め手には欠けていた。もっともらしく並べたはずの説明は、考えを進めるほど頼りなくなり、最後にはどれも頭の中で霧散してしまう。
ルシアンは少し黙ったあと、もう一度フローレンの後ろ姿を見る。
髪の隙間から覗く首筋は、先ほどよりもなぜか白く、明るく見えた。一度気づいてしまったせいか、どうしてもそこへ目が留まる。
「……あれは、少し肌が出すぎじゃないか?」
「へ?」
レオはぱちりと瞬いた。口から出た声も、珍しく間の抜けたものになる。
「いや、あれくらい普通だと思うけど」
「……」
「同じような髪型の子、何人かいるし」
「……それもそうか」
言われてみれば、その通りだった。
ルシアンは前へ向き直る。
少しレオと話している間に、黒板には新しい式が増えていた。ルシアンは何事もなかったように続きを書き写し、そのまま教師の説明を追っていく。
それからしばらくは、意識して斜め前を見なかった。
なぜ目が向くのかを考えるのはやめて、ただ見ないでおこうと決める。それだけなら、思っていたよりずっと簡単だった。教師の説明を追い、目の前の内容へ意識を戻していけば、思考も少しずついつもの調子を取り戻していった。
ところが、教室へ吹き込む風がふいに強まった。
長い髪がふわりと揺れ、その隙間から白いうなじが一瞬だけ覗く。
それにつられるように、視線が動いた。
――髪型が違うから。
さっきまでより、その言葉はずっと説得力を失っていた。間違いではない。けれど、それだけで説明するには何かが足りない気がする。
では、その足りないものが何なのか。
その答えはどうにも見つからない。
簪の飾りが、秋の光を含んでいたずらに揺れていた。
後ろから、何やら含みのありそうな視線を感じる。
振り返って確かめるまでもない。おそらくレオは、また見てる……とでも言いたげな顔をしている。そこに少なからず面白がる気配まで混じっているように思えるのは、たぶん気のせいではない。
このままでは、授業が終わった途端に何を言われるか分からない。ルシアンは教師の説明を聞きながら、レオにどう説明すれば誤解なく伝わるのか、頭の片隅で早くも筋道を立てはじめた。まずは――。
「ノクティス」
教師の声が飛んだ。
「はい」
返事はほとんど間を置かなかった。
ルシアンは迷いのない動作で椅子を引き、立ち上がって黒板へ視線を移す。
「次の式。この条件なら、どこから整理する?」
示された箇所へ一度目を向ける。
「……まず、与えられた前提を成立条件の違いによって二つに分けます。両者には重なる部分がありますが、適用範囲そのものは一致していません。この段階では同一条件として処理せず、それぞれを分けて考えるべきです」
「そうだな。では、その先は?」
「それぞれの成立範囲を確定させてから、両方に適用できる部分だけを抜き出します。そのうえで整理すれば、矛盾なく一つの式にまとめられます」
「うん。続けて」
「はい」
そこから先も、問いに沿って条件をひとつずつ整理する。必要な式を組み立てながら、導いた答えまでを淀みなく説明していく。
答え終えると、教師は満足そうにひとつ頷いた。ルシアンが席に着くのを待って、授業は何事もなかったように次の説明へ進んでいく。
教室には再び教師の声が響き、その合間を縫うように、紙の上を走るペン先の音が重なり始めた。ときおりチョークが黒板を擦る乾いた音も混じる。
ルシアンは静かに教本へ視線を戻した。教師の説明を追いながら必要なところを書き留め、いつものように授業の流れへ馴染んでいく。
そうしているうちにも黒板には少しずつ文字が増え、教本の頁がめくられていった。
窓から差し込む光の中では、風に揺れる枝葉の影が床の上をゆっくりと行き来し、その形を絶えず変えていく。
時折、光を受けた簪の垂れ飾りと、くるんと巻いた柔らかな毛先が、視界の端でそれぞれ小さく揺れていた。




