96:薬草園のその後
市場街を出たあと、三人は昼食を済ませ、そのまま薬草園へ向かった。
市街地を離れるにつれ、建物の並びは少しずつ疎らになっていく。馬車の窓から見えていた石造りの家々が畑や草地へ変わり、緩やかな坂を上り始める頃には、空を遮るものもほとんどなくなっていた。
春の終わりに訪れた時とは違い、陽射しにはまだ夏の強さが残っている。それでも風には朝の市場街と同じ涼しさがあり、窓から入り込んだ空気がフローレンの髪を揺らした。
「今日、二か所とも回るとは思ってなかったなー」
向かいに座ったレオが、窓の外を眺めながら言う。
「市場街を見たら、こっちも見たくなっちゃって」
「僕も気になってはいた」
「まあ、俺も見たいとは思ってたけどね」
結局、三人とも同じように気になっていたらしい。顔を見合わせると、誰からともなく笑いがこぼれた。
やがて見覚えのある低い石塀が現れ、その向こうに広い薬草園が見えてきた。
馬車を降りた途端、青い葉と温められた土の匂いが風に乗って届く。
最初にここへ来た時より、畝の緑はずっと濃くなっていた。春にはまだ低かった株も大きく育ち、支柱に絡んだ蔓は高いところまで葉を広げている。
「やっぱり、季節が変わると全然違うね」
フローレンが辺りを見回していると、少し離れた作業道から声がした。
「あら」
籠を抱えて歩いていた年配の女性が、こちらを見て足を止める。
水やりの時間が変わったきっかけを、レオへ話してくれた女性だった。
「あの時の学院の子たちじゃない」
「こんにちは」
三人が揃って頭を下げる。
「今日はまた調査かい?」
「いえ。今日はお休みです」
レオが答えると、女性は目を細めた。
「休みの日まで薬草園に来たの?」
「その後どうなったのか、気になって」
「真面目だねえ」
そう言って笑ってから、女性はレオへ視線を向けた。
「今日はもう、聞いて回ることはないのかい?」
「あ、じゃあ聞かせてもらってもいいですか」
「やっぱり聞くんじゃない」
からかうような女性の笑い声につられ、フローレンの口元も自然と緩んだ。
「水やりは、今もあのやり方なんですか?」
レオが尋ねると、女性は籠を抱え直しながら頷く。
「やってるよ。朝の最初だけ担当を分けるやつ」
「見回りのほうもですか?」
「そっちもそのまま。二十分くらいしたら一緒になるから、思ったほど面倒でもなかったね」
あっさり返された言葉に、レオの表情が僅かに明るくなる。
「よかった」
「むしろ、朝の動きは前より分かりやすくなったくらいだよ。先に水をやるところが決まってるからね」
女性は園の奥を示した。
「育ちの悪かったところも、ずいぶん戻ったよ。責任者に聞けば詳しく教えてくれるんじゃないかい」
「ありがとうございます」
礼を言って別れると、女性はすぐに作業へ戻り、籠を抱えたまま畝の間へ入っていった。
少し先では、別の作業員が葉の状態を確かめている。以前と同じように、この場所では今日もそれぞれの仕事が続いていた。
「負担になってないって」
歩きながらフローレンが言うと、レオは小さく頷いた。
「うん」
それだけの返事だったが、口元には嬉しそうな笑みが残っていた。
女性と別れて管理小屋へ向かうと、責任者は机に帳面を広げているところだった。
三人の姿を見ると一瞬驚き、すぐに柔らかく目元を和らげる。
「これはまたお揃いで。今日はどうしたんだい?」
「先日、学院でその後の経過を伺ったんです」
ルシアンが答えた。
「せっかくなので、実際の様子も見てみようという話になりまして」
「そうか。それなら、ちょうどいい」
責任者は机の上に広げていた紙を端へ寄せた。
「少し見ていくかな?」
「ぜひ」
小屋へ入ったフローレンは、何気なく机の上へ視線を落とした。
何冊かの帳面と、日々の作業を記す用紙が重ねられている。見覚えのある形式だった。
「あ……」
一番上の紙に目が留まる。
区画番号。水量。天候。気温。
その並びの中に、春にはなかった項目があった。
――水やり時刻。
フローレンは思わず用紙へ近づいた。
「これ……」
「今も使ってるよ」
責任者はすぐに気づいたらしく、紙へ目を落とした。
「試験の時だけで終わらせず、普段の記録にも加えたんだ」
「ずっとですか?」
「ああ」
責任者は棚から一冊の帳面を取り出した。
「これが、あれからの分だよ」
開かれた頁には、日付の横へ一日ずつ時刻が記されていた。雨で水やりを行わなかった日にはその理由が書かれ、作業時間が普段より遅れた日には短い注記もある。
頁をめくっても、その次を開いても、同じ欄が途切れることなく続いていた。
「……本当に、ずっと書いてある」
春の終わりには、記録する項目さえなかった情報だった。それが今は、何週間分もの記録として紙の上に積み重なっている。
「今では、書く方もすっかり慣れたよ」
責任者は記録の並んだ頁を眺めながら、少し可笑しそうに口元を緩めた。
「最初は一項目増えるだけでも面倒に感じるかと思ったけど、実際には時刻を書き足すくらいだからね。それに、何か育ち方がおかしい時にも確認できる」
「もう役に立ったことがあるんですか?」
思わず身を乗り出したフローレンに、責任者は別の頁を開いて見せた。
「大きな問題じゃないけど、一度だけあったよ。予定より水やりが遅れた日のあと、葉が少し萎れた区画があってね。以前なら、暑さのせいか、水量のせいか、後から推測するしかなかった。でも記録に時刻が残っていたから、少なくとも一つ確認できる条件が増えた」
「……そっか」
時刻が分かっただけで、原因を一つに決められるわけではない。それでも次に何かが起きた時には、少なくとも以前より一つ多く、確かめられる条件がある。
春の日、レオが作業する人との会話から拾い上げたものが、今は毎日の記録の中へ当たり前のように組み込まれていた。
何週間分もの時刻が並ぶ頁から、フローレンは隣のルシアンへ視線を移した。
「ちゃんと残ってるね」
「ああ」
ルシアンも開かれた頁へ目を落とし、静かに頷いた。
「これだけ続いていれば、もう試験のための記録ではないな」
その言葉が妙に嬉しかった。
自分たちが来なくなったあとも、誰かが毎朝その欄へ時刻を書き加えてきた。試験のために増えた一項目は、いつの間にかここで働く人たちの日常へ馴染んでいる。
「生育が悪かった区画も見ていくかい?」
責任者に促され、三人は再び外へ出た。
案内されたのは、最初の調査でフローレンたちが見た区画の一つだった。あの頃は、枯れてはいないものの、周囲より葉が小さく、茎も伸びきらずに止まっていた。
けれど今は、少し離れた場所から見ただけでは、隣の区画との差を探す方が難しい。
「……大きくなってる」
フローレンは畝の前へしゃがみ込んだ。
葉の一枚一枚が春より大きく開き、茎も上へ伸びている。新しく出た葉にも張りがあり、上の節まで十分な間隔があった。
「ここ、最初に見た時はこのくらいだったよね」
フローレンが自分の手で高さを示す。
ルシアンも周囲の株と見比べる。
「今はほとんど変わらないな」
「ああ。完全にすべて同じとはいかないけど、収穫量の見込みもかなり戻ったよ」
責任者は畝の先へ目をやった。
「水やりの時間を調整した区画は、その後も安定してる。ただ、すべてを同じ時刻にしたわけじゃない」
「種類や場所ごとに変えているんですか?」
「ああ。試験した時にも分かった通り、日当たりや育ち方には場所ごとの差があるからね。影響が出やすいところを優先して、あとは記録を見ながら必要な区画だけ調整してる」
責任者は少し離れた作業員たちへ目を向けた。
「見回りも続けられてるし、水やりの方も大きな負担にはなってないよ」
春に机の上で考えた方法は、実際の作業に合わせて少しずつ形を変えながら、今も朝の仕事の中に残っている。
区画を見終えて戻ろうとした時、作業道の先から小さな荷車がやってきた。
木箱がいくつも積まれている。近くの作業員が二人、収穫した薬草を束ねて箱へ入れ、蓋を閉じていた。
箱の側面に付けられた札を読み、フローレンは思わず声を漏らした。
「治療院……」
「ああ。今日の出荷分だよ」
木箱には、収穫された薬草が種類ごとにまとめられていた。
その中に見覚えのある葉を見つけ、フローレンは目を凝らした。
「あれって……」
「最初に皆さんが見た、生育不良の出ていた種類だよ」
「もう出荷できるんですか?」
「できるよ」
責任者の声には、春の頃より明らかに軽さがあった。
「一時は秋以降の必要量に届かない可能性も考えていたけど、今は予定に近いところまで戻ってる。足りない分がまったくないとは言えないが、大きく供給を減らすほどでもないよ」
作業員が箱へ蓋をし、紐を掛けていく。札には、市の治療院の名が記されていた。
フローレンの視線は、その箱に吸い寄せられたままだった。
最初にここへ来た日、目の前にあったのは、いつもより少しだけ小さな葉だった。枯れているわけでも、病気らしい痕跡があるわけでもない。ただ去年より少し育たない。それだけの違いを前に、帳面を開き、作業する人に話を聞き、記録されていなかった水やりの時刻へ辿り着いた。
区画を分けて一週間だけ条件を変え、その後も園の人たちが手を入れ続けた。その先に、今こうして箱へ詰められている薬草がある。
「……ちゃんと、届くんだね」
ぽつりと零す。
「うん」
レオの声が隣から返ってきた。
ルシアンも何も言わず、同じ木箱を見ていた。
作業員が最後の一箱を荷車へ載せる。
責任者はその様子を眺めながら、穏やかに目を細めた。
「ここで育ててるものは、育ったらそれで終わりってわけじゃないからね」
思わず責任者へ目を向けると、彼は園の門へ進んでいく荷車を見ながら続けた。
「必要としてるところまで届いて、やっと役に立つんだ」
荷車がゆっくりと動き始めた。石畳の作業道を抜け、園の門へ向かっていく。
フローレンは、その後ろ姿を目で追った。
春には、目の前の薬草がなぜ育たないのかを知ることばかり考えていた。けれど答えを見つけた先にも仕事は続いている。育ったものは収穫され、箱へ収められ、この園を離れて必要な場所へ届いていく。
自分たちが見つけたのは、その長い流れの中にあった小さな違いの一つにすぎない。それでも、今遠ざかっていく荷車の先へ、確かに繋がっていた。
しばらく荷車を見送ってから、ルシアンが静かに声を掛けた。
「そろそろ戻ろうか」
「うん」
園の出口へ向かう途中、先ほどの年配の女性ともう一度すれ違った。
「もう帰るのかい?」
「はい。今日はありがとうございました」
「また来なさい」
女性はそう言ってから、レオへ目を向ける。
「今度は何か聞きたいことがなくてもね」
「それだと、何を話せばいいんです?」
「そんなの、自分で考えな」
間髪入れずに返され、レオは肩を竦めながら口元を緩めた。そのやり取りに、ルシアンとフローレンからも小さな笑いが零れる。
三人が門を出る頃には、治療院へ向かう荷車は坂の下まで進んでいた。荷台の木箱はもう小さく、その向こうには朝歩いた市街地へ続く道が伸びている。
朝に見た市場街では、荷車が滞ることなく通りを行き交っていた。ここでは、春にはなかった時刻が毎日の記録へ積み重なっている。
自分たちが離れたあとも、それぞれの場所では今日まで仕事が続いてきたのだ。
フローレンは遠ざかっていく荷車を見送り、風に揺れる髪を耳へ掛けた。坂を下りていく車輪の音が、少しずつ遠ざかっていく。
薬草の青い匂いを含んだ風には、もう夏の盛りとは違う涼しさが混じっていた。




