95:市場のその後
それから、さらに数週間が過ぎた。
日中にはまだ夏の気配が残っていたが、朝の風には少しずつ涼しさが混じるようになっていた。高く澄んだ空の下を歩けば、道沿いの木々にも、ごくわずかに色を変え始めた葉が見える。
休日の朝、フローレンたちは三人で市場街へ向かっていた。
先日、教師からその後の報告を聞いて以来、実際にどうなっているのか一度見てみたいと話していたのだ。
「ちょうどこのくらいの時間だったよね、混み始めてたの」
「ああ。八時を過ぎた頃から記録が増えていた」
表通りへ入ると、以前と変わらない賑わいが三人を迎えた。店先から客を呼ぶ声に、焼きたてのパンの匂い。荷物を抱えた人々が行き交い、石畳の上では車輪の音が絶えず転がっている。
中央通りから脇へ入り、あの日何度も往復した細い通りへ近づくにつれ、三人の会話は自然と少なくなった。
その角を曲がったところで、フローレンは思わず足を止めた。
「……あ」
細い道の両側には、以前と同じように商店の裏口と倉庫が並んでいる。すでに木箱や麻袋が運び込まれ、何台もの荷車も入っていた。
運び込まれている荷物も、行き交う荷車の数も少なくはない。それなのに、春の日とは景色が明らかに違っていた。
以前は入口側へ何台もの荷車が連なり、一番奥の荷下ろし場所が空いていても先へ進めない車まであった。
今は手前の一軒で一台が荷下ろしをし、その少し奥では別の荷車が作業をしている。二台のあいだには十分な距離があり、道の中央にも余裕が残っていた。
さらに奥では、荷下ろしを終えた車がゆっくりと動き出す。その後ろに長い列はない。
「……本当に違う」
目の前を流れていく荷車を見つめたまま、フローレンは感嘆を含んだ声を小さく零した。
「荷車は結構いるのにね」
レオも通りの奥まで見渡し、春に並んでいた長い列を探すように目を細める。
「近い場所へ続けて入っていないんだな」
ルシアンの視線が、以前混雑していた一角へ向いた。
「春はあそこ、三軒ほとんど同じ時間だったよね」
八時二十分。
八時二十五分。
八時三十五分。
何度も見た三つの時刻を、フローレンは思い出した。あの時、その数字の向こうには三台の荷車が並んでいた。
「おや」
聞き覚えのある声に三人が振り向く。
少し離れた店の裏口から、この区画の取りまとめ役がこちらへ歩いてくるところだった。
三人の顔を順に確かめると、すぐに懐かしむように目元を緩めた。
「やっぱりそうだ。ノクティス、ルベライト、アストリアだったな」
「覚えていてくださったんですか?」
フローレンが思わず聞き返す。
「もちろん。あれだけ朝から歩き回ってくれた三人を忘れたりしないよ」
取りまとめ役は愉快そうに口元をほころばせ、そのまま通りの奥へ目を向けた。
「今日は学院の実習か?」
「いえ。先日、その後も調整を続けていると聞いたので、実際に見てみたくて」
ルシアンが答えると、取りまとめ役は事情を飲み込んだようにゆっくり頷いた。
「ちょうどよかった。今朝も今のところ順調だ」
「今も、あの時の案を使っているんですか?」
フローレンが尋ねる。
「ああ。君たちが出してくれた案をもとに、こっちで各店と運送側へ、実際にどこまで時間を動かせるのか確認した」
取りまとめ役は近くの店をいくつか指し示した。
「朝に必要な荷物はそのまま残す。午前中なら動かせるというものは後ろへ回す。荷下ろし場所が近い店同士は、できるだけ続けて入らないようにする。あの時まとめてくれた考え方は、今も土台になってるよ」
「じゃあ、店ごとに動かせる範囲が決まったんですね」
「そういうことだ。『九時まで』『午前中ならいつでも』って具合にな。仕入れ先や曜日によって便が変わるところもあるから、細かい調整は店と運ぶ側でやってもらってる」
取りまとめ役の視線の先では、手前と奥の二か所で同時に荷下ろしが進んでいた。
「全部を一列に並べてるわけじゃないんですね」
「ああ。場所が離れていれば、同じ時間でも問題ないからな」
それは、あの日最後に三人でまとめた考え方の一つだった。紙の上に残してきたものが、店ごとの事情や配送の予定へ一つずつ落とし込まれ、今は目の前の通りの流れとして、確かに形になっている。
「前みたいに長く列が続くことは、かなり減ったよ」
取りまとめ役は行き交う荷車へ視線を送りながら続けた。
「混む日がなくなったわけじゃない。けど、どこを動かせるか分かってるだけでも対応しやすくなった」
「……よかった」
胸の奥がふっと軽くなるのを感じながら、フローレンは小さく息を吐いた。
「こっちこそ助かったよ」
取りまとめ役も穏やかに目を細める。
短く礼を交わし、三人が再び通りを歩き始めると、今度は荷車のそばから声が飛んできた。
「お、前にいろいろ聞いてた学院の子だな」
見ると、春の実習でレオが話を聞いていた御者が、荷台の縄を締め直しているところだった。
「覚えてくださっていたんですか?」
名前を呼ばれたことが意外だったのか、レオは目を輝かせながら荷車のそばへ寄った。
「覚えてるよ。ずいぶん熱心に聞いて回ってただろ」
「必要なことを聞いていただけですよ」
「そういうことにしとくか」
御者の目尻に笑い皺が寄る。それから、思い出した名前が合っているか確かめるようにレオの顔を見た。
「ルベライトさん、だったな」
「はい。そうです」
一瞬目を丸くしたレオの顔に、隠しきれない嬉しさが浮かぶ。御者も満足そうに頷いた。
「最近、どうですか? 以前より待つ時間は減りましたか?」
「だいぶな。店ごとにどこまで動かせるのか分かるようになったから、こっちも順番を組みやすいよ」
御者は荷車の向こうへ目をやった。
「前は『朝に』って言われたら、早い便にまとめて載せることも多かったからな。今は急がないところを後ろへ回せる。それだけでも違う」
「よかった」
レオの声にも、素直な嬉しさが混じった。
「君たちも、あの時一緒だったな」
御者がルシアンとフローレンへも顔を向ける。
「ありがとな」
「実際に調整してくださったのは皆さんですから」
ルシアンが穏やかに返すと、御者は気恥ずかしそうに鼻を鳴らした。
「まあ、そうなんだけどな。でも、あの時ああやって調べなきゃ、ずっと『朝は混むもんだ』で済ませてたかもしれない。助かったよ」
御者は何でもないことのように言った。その声はすぐに荷車の音へ紛れていったのに、言葉だけはフローレンの胸へ残った。
御者と別れ、もう少し通りを進む。
「あら」
今度は生活雑貨の店先から声がした。
春に帳簿を見せてくれた女性が、並べていた商品から顔を上げている。
「アストリアさんじゃない」
「こんにちは」
向こうから名前を呼ばれ、フローレンの表情も自然と明るくなった。
「今日は学院の用事?」
「いえ。その後どうなったのか見に来たんです」
「あら、真面目ねえ」
女性は目を細め、親しげな様子で店の裏手を指した。
「うち、あれから荷物を少し遅い便に変えたのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。前は何となく朝一番にしてもらってたけど、別にそこまで早くなくても困らなかったでしょう? 今は十時前後に来てもらうことが多いわ」
春に見た帳簿が頭に浮かぶ。
毎日のように八時半前後へ揃っていた到着時刻。
「朝の荷受けが重ならなくなって、楽になったわよ」
「よかった……」
思わず漏れた声に、女性の目元も柔らかく和らいだ。
「ほんと、あの時ずいぶん真剣に帳簿見てたものね」
そこで、いたずらっぽく眉を上げる。
「今日は帳簿、見なくていいの?」
「今日は見ません……!」
即答したフローレンに、女性はとうとう堪えきれないように声を立てた。
「また必要になったらいつでも来なさい。あんたなら帳簿を渡しても安心だから」
「ありがとうございます」
フローレンはつられるように頬を緩め、丁寧に頭を下げた。
春にここへ来た時は、初めて訪れた学院生として話を聞いた。今は向こうから名前を呼ばれ、あの時の続きを話している。
店を離れてもしばらく、「アストリアさん」と呼ばれた声が耳の奥に残っていた。
「すっかり覚えられてるね」
レオは行き交う荷車からフローレンへ視線を戻し、面白そうに目を細めた。
「レオもでしょ」
「俺は質問しすぎたから」
「ちゃんと名前まで覚えてもらってたじゃないか」
ルシアンにそう返され、レオは照れを隠すように鼻先を軽く掻いた。それでも、口元に浮かんだ嬉しそうな緩みまでは隠せていなかった。
フローレンは歩きながら、もう一度通りを振り返った。
取りまとめ役は別の店員と話している。先ほどの御者は荷車を動かし始め、生活雑貨店の女性は新しく来た客へ声を掛けていた。
春に自分たちが歩き回った場所は、今朝もいつもの仕事を続けている。
「なんか、不思議だね」
目の前で続いている日常を眺めながら、フローレンは胸に浮かんだままを小さく零した。
「何が?」
「私たち、一日いただけなのに。まだ覚えてもらえてるんだなって」
レオは一度市場街へ視線を巡らせ、自分たちと同じように向こうにも記憶が残っていることを面白がるように口元を緩めた。
「俺たちも、あの人たちのこと覚えてるじゃん」
「……そっか」
話を聞かせてくれた人も、帳簿を見せてくれた人も、自分たちの案を引き取ってくれた取りまとめ役も、それぞれの顔と声をすぐに思い出せる。
あの日ここで交わした言葉や、一緒に考えた時間は、自分たちの側にだけ残っていたわけではないらしい。
「そう考えると、なんか嬉しいね」
「うん」
そんな話をしながら表通りへ戻りかけたところで、後ろから声が飛んできた。
「アストリアさん、またね!」
振り向けば、生活雑貨店の女性が店先から大きく手を振っていた。
「はい。また!」
フローレンも身体ごと振り返り、負けないくらいしっかり手を振り返す。
三人の明るい声が、朝の市場街の賑わいへ混じっていった。
表通りへ戻る途中、フローレンはもう一度だけ細い通りを振り返った。荷車は途切れることなく行き交っている。それでも、春の日のような長い列はどこにもなかった。
頬を撫でていった風には、もう真夏の重さがない。高く澄んだ空の下で、市場街は変わらない賑わいを続けていた。




