94:持ち帰った見方
数日後の放課後。
図書館には、授業を終えた生徒たちの姿がまだいくらか残っていた。高い窓から差し込む光はすでに傾き始め、幾列も並んだ書架のあいだへ細長く落ちている。頁をめくる音や、小声で交わされる相談が、紙と古い革の匂いを含んだ静かな空気の中へ溶けていた。
「アストリアさん、こっちの棚お願いしていい?」
「いいよ。じゃあ私はこの列見るね」
翌日の授業では、記録の読み取りに使えそうな資料を何冊か持ち寄ることになっていた。そのため、放課後の図書館には特進クラスの生徒が何人か集まっている。
声を掛けてきた女子生徒と別れ、フローレンは任された書架へ向かった。一つ向こうの列ではレオが別の本を探し、ルシアンは同じ書架の少し先で背表紙を追っている。
一覧と照らし合わせながら二冊ほど見つけ、題名の横へ順に印を付けた。次に探すのは《北部薬草誌》だ。
「……あった」
視線を上げると、目当ての背表紙はすぐに見つかった。ただ、棚のかなり上にある。爪先立ちでも指さえ引っかからない。
フローレンは辺りを見回し、近くに置かれていた二段の脚立を引き寄せた。床へ広げ、脚がきちんと安定しているのを確かめて一段目へ足を掛ける。
すると、一冊の本を手にしたルシアンが書架の向こうから戻ってきた。
フローレンが二段目へ上がるのを見て、その足元へ一度だけ視線を落とす。
「……脚立、気をつけて」
周囲へ響かないよう、囁くほどの声だった。
一瞬きょとんとしてから、すぐに薬草園での出来事を思い出す。あの時のことを、まだ少し気にしているらしい。
フローレンは困ったように眉を下げたものの、表情には自然と柔らかさが滲んだ。
「今日は二段だけだよ」
「分かっている」
「床も平らだし、土じゃないし」
「ああ」
「それでも心配?」
「……少しだけ」
「大丈夫だよ。……でも、ありがとう」
背表紙へ手を伸ばしたところで、一つ向こうの列からレオがひょいと顔を出した。
「まだ言ってる」
「……レオ」
「ルシアンは心配性だなあ」
「お前が呑気すぎるんだろう」
レオは声を抑えながら楽しそうに笑った。
二人のやり取りにフローレンも小さく笑い、目当ての本を棚から抜き取る。足元を確かめながら脚立を降りると、本を抱え直した。
「ね、大丈夫だったでしょ」
「そうだな」
「はいはい。ほら、次探そ」
レオに促され、それぞれまた背表紙を追い始めた。
必要な資料が揃う頃には、窓から差し込む光も随分と低くなっていた。
閲覧席へ戻り、集めた本を机の中央へ積む。何人かで使えそうな頁へ紙片を挟み、翌日の授業で参照しやすいように選り分けていく。
その作業が一段落した頃、少し離れた席で別の紙に向かっていた男子生徒がこちらへやってきた。以前、同じ班で課題に取り組んだことのある男子生徒だった。
「アストリアさん、ちょっといい?」
「うん。どうしたの?」
「前の授業でもらった練習問題、今やってるんだけど。これ、どう見る?」
差し出されたのは、前回の授業で配られた補助課題だった。翌日に扱う資料とは別のもので、同じ種類の薬草について複数の観察記録が表にまとめられている。
フローレンは紙を受け取り、まず全体へ目を通した。
「これは、何と何を比べたいの?」
「二つの生育条件で、反応に違いがあるかどうか。日照時間が近い記録を揃えたし、単位も同じにしたから、午前と午後をまとめて一日ごとの平均を出して比べようと思ったんだけど」
「同じ条件としてまとめたいのは、ここ全部?」
「そのつもり」
もう一度、表を見る。
使われている記録は同じ種類の薬草で、観察期間も揃っている。日照条件の大きく違うものも分けてあり、紙の上だけを見れば、そのまま一つにまとめても不自然には見えなかった。
「じゃあ、まだ揃ってない条件ってないかな」
「まだ?」
男子生徒も横から表を覗き込み、一つずつ欄を追っていく。
「種類は同じ。日照も近い。観察した日数も……同じ」
動いていた指先が、途中で止まった。
「あ」
その先に並んでいるのは、観察を行った時刻だった。
「午前と午後が混ざってる」
「うん」
「でも、時間でそんなに変わるかな」
「それは分からない」
フローレンは首を振った。
「変わらないかもしれないけど、一緒にしていい条件なのかは、まとめる前に一度見ておいた方がいいと思う」
「時間帯ごとに?」
「うん。分けて見ても同じ傾向なら、そのあとまとめればいいんじゃないかな」
男子生徒はしばらく紙を見つめ、それから午前と午後の記録へそれぞれ印を付け始めた。
「なるほど。ちょっとやってみる」
「うん」
男子生徒は礼を言って席へ戻っていく。フローレンもそのまま途中だった資料の選別へ戻った。
翌日の午後。
授業が始まると、教師から各班へ一組ずつ新しい観察資料が配られた。昨日図書館で集めた本は、必要に応じて参照できるよう教室の後方へまとめて置かれている。
今回の課題は、同じ種類の薬草を二つの異なる環境で育てた記録を読み、条件によって反応にどんな違いが見られるかを考えるものだった。
資料には複数日分の数値があり、午前と午後、それぞれ同じ数だけ観察結果が含まれている。四、五人ずつの班に分かれ、どの記録をまとめ、何を分けて見るのかは各班に任されていた。
「午前と午後でも分かれてるね」
同じ班の女子生徒が、資料の端に記された観察時刻を指した。
「でも今回見るのは、二つの生育環境で全体に違いがあるかどうかだよね」
「うん。最初から細かく分けるより、一度まとめて見た方が全体の傾向は分かりやすそう」
別の生徒が数値を追いながら答える。
「気温も少し違うけど、そこまで全部分けると一つずつの数が少なくなるしな」
「じゃあ、まず午前と午後をまとめて、日ごとに比べてみる?」
フローレンも資料を見直した。午前と午後で記録が分かれていることは気になったが、まず課題で求められている二つの環境の違いを見るなら、その進め方にも筋は通っている。
「うん。時間帯の違いが気になったら、そのあと戻って見ればいいと思う」
「じゃ、それでいこう」
方針が決まると、それぞれ手分けして数値を整理していった。教室のあちこちでも相談の声が重なり、紙の上へ次々と新しい書き込みが増えていく。
制限時間を迎える頃には、各班の結論が黒板へ並び始めていた。
フローレンたちの班が出したのは、《二つの条件に明確な差は見られない》という結論だった。同じ言葉や、それに近い結果が黒板の大半を占めている。
けれど、その中に二つだけ、《条件によって反応に差が見られる》と書かれたものがあった。
「二班だけ違うね」
「使った資料は同じだよね」
「どこで分かれたんだろう」
黒板を見ていた生徒たちの間から、自然と声が上がる。
教師もしばらく並んだ結果を眺めてから、二つの結論を示した。
「大半は明確な差なし。二班は差がある、か」
教師は一度教室を見渡した。
「では、どこで見方が分かれたのか確認してみよう。『差なし』の班と『差あり』の班から、一班ずつ途中の整理を出してくれ」
それぞれから用紙が提出され、黒板の前へ並べられた。
元にしている観察記録は同じだった。数値の転記にも間違いはなく、計算そのものにも問題はない。
「少なくとも、単純な計算違いではなさそうだな」
教師は二枚の用紙へ目を走らせてから、教室を振り返った。
「では、どこで分かれた?」
すぐにいくつかの手が上がる。
「比較する範囲が違うんじゃないですか」
「まとめる前の条件の扱いが違うとか」
「途中の表を見比べれば分かりそうです」
出された意見をもとに、二枚の整理表を順に追っていく。使っている記録も、確認している項目も同じだったが、途中から数字の並び方が変わっていた。
フローレンも二枚を見比べる。
《差なし》とした班の整理は、自分たちの班とよく似ていた。午前と午後の値を一日分としてまとめ、そこから二つの環境を比べている。一方、《差あり》とした班では、同じ記録が午前と午後に分けられたまま残されていた。
数字の並びが分かれ始めた箇所をもう一度確かめると、フローレンは手を挙げた。
「先生」
「アストリア」
「ここです。記録のまとめ方が違います」
フローレンが二枚の表を示す。
「こっちの班は午前と午後を一日分として平均しています。でも、もう一つの班は時間帯を分けたまま比べています」
「なるほど」
教師が欄を追うと、平均を出した班の生徒たちからも声が上がった。
「あ、本当だ」
「俺たち、最初に全部まとめてる」
反対側の班では、昨日フローレンへ相談に来た男子生徒が、自分たちの表へ目を落とした。
「自分たちの班は最初から時間帯で分けました」
「なぜそうした?」
教師に尋ねられ、一度だけ手元の表を見てから答える。
「昨日、別の資料を見ていた時に、観察時刻が違う記録をそのまままとめていいのか考えたんです。それで今回も、まず分けた状態を見てから決めようと思って」
フローレンと一瞬目が合う。
けれど、すぐに黒板へ視線を戻して続けた。
「午前だけを見ると、条件一の方が反応値が高いです。でも午後は逆に、条件二の方が高くなっています。一日分をまとめると差が打ち消し合って、全体ではほとんど違いがないように見えました」
「ああ、なるほど」
教室のあちこちから納得した声が聞こえた。
教師は二つの結果の間へ線を引き、一方に《一日平均》、もう一方に《時間帯別》と書き加える。
「つまり、この二つは必ずしも矛盾していない」
チョークの先が、二つの結論を順に示した。
「一日全体で平均すれば、二つの条件に大きな差はない。一方で、時間帯ごとに分ければ、その内側には逆向きの傾向がある。どちらも同じ資料から読み取れることだ」
黒板を見つめていた生徒たちの間から、いくつか頷きが返る。
「平均を取ること自体が悪いわけではない。何を知りたいかによっては、一日全体の値が必要なこともある。ただ、まとめることで見えなくなる違いがないかは確認しておく必要がある」
教師はそこで一度言葉を切った。
「それから、時間帯ごとに差が見えたからといって、時間そのものが原因だと決めることもできない。午前と午後では、ほかにも変わる条件があるからな。今回分かるのは、少なくとも分けて見ることで別の傾向が見えた、というところまでだ」
フローレンは黒板に並んだ二つの表を眺めながら、薬草園で記録を追った時のことを思い出していた。
あの時も、水量や回数だけを見れば大きな違いはなかった。けれど《いつ水をやったか》という、それまで残されていなかった条件を確かめたことで、初めて見えてきたものがあった。
扱っている資料はまったく違うが、数字そのものだけでなく、どんな条件のもとで残された数字なのかを見るところには、どこか似たものがある。
「では、このまま終わらせるのはもったいないな」
教師は二枚の用紙を黒板へ戻した。
「各班、もう一度、自分たちが何をまとめて何を分けたのか確認してみろ。結論を変える必要があるなら変えていい。ただし、どうしてそうしたのかも残すこと」
教室には再び紙をめくる音と相談の声が満ちた。平均を出す前の数値まで戻り、時間帯や気温、日照など、それぞれが扱った条件を確かめ直していく。
フローレンの班でも、中央へ寄せた資料の上をいくつもの指が行き交った。
「時間帯は分けた方がよさそうだけど、気温まで分ける?」
「時間帯とかなり重なってるよね。両方で細かく切ると、数が少なくなりすぎない?」
「じゃあ、まず時間帯で分けて、気温は補助で見た方がよさそう」
「私もそれが見やすいと思う」
意見がまとまると、分け方を変えた表をもう一度作り直していった。
授業が終わる頃には、黒板に並んだ結論のいくつかが書き直されていた。
すべての班が同じ答えになったわけではない。どこまでを一つの条件として見るかによって、残る解釈には少しずつ違いがある。それでも最初より、それぞれの班がどう考えてその結論へ辿り着いたのかは、ずっと分かりやすくなっていた。
フローレンが机の上を片づけていると、昨日相談に来た男子生徒がノートを手に近づいてきた。
「昨日、聞いといてよかった」
「練習問題のこと?」
「うん。あれがなかったら、今日も最初から全部まとめてたと思う」
ノートを開き、時間帯ごとに分けた表を見せる。
「別の資料でも同じ見方が使えるんだな」
「ね。私もそこ、面白かった」
男子生徒は自分でも同じところへ気づけたのが嬉しいらしく、少し照れたように口元を緩めた。
「途中で、昨日と似てるって気づいたんだ」
「だから最初から分けてたんだね」
「うん」
昨日の見方を自分で使えたことが嬉しいのか、男子生徒は少しだけ得意そうに頷いた。
「また詰まったら聞いていい?」
「もちろん。一緒に見よう」
「頼む」
軽く手を振り、友人のところへ戻っていった。
その背中を見送りながら、フローレンは机の上に残っていた資料を重ねる。
問いを返しながら一緒に考えることは、第二クラスにいた頃から何度もしてきた。
けれど昨日あの表を見た時、気になったのは紙に並んでいる数字だけではなかった。市場街では、同じ「朝」という言葉でも店によって意味が違った。薬草園では、毎日行われていた水やりの時刻そのものが記録から抜けていた。
市場街でも、薬草園でも、紙の外にあった条件が答えへ繋がった。昨日、あの表を見た時に観察時刻が気になったのも、たぶんそのせいだった。
「面白い授業だったね」
声のした方を見ると、レオが鞄を肩へ掛けながら黒板を眺めていた。
「途中まで、どっちか計算間違ってるのかと思った」
「私も最初はそう思った」
「ああ。答えだけじゃなくて、どうまとめたかまで見比べたのがよかったな」
ルシアンも机の上を片づけ終え、二人のそばへ来る。
黒板には消した跡の白い粉が薄く残り、その上に最初とは少し違う結論がいくつも並んでいた。
「答えだけ見てたら、どっちかが間違ってるって思って終わってたかも」
「同じ数字でも、見方でこんなに変わるんだねえ」
レオの言葉に、フローレンも頷いた。
「うん」
三人はそのまま授業の話をしながら、夕方の廊下へ出た。開いた窓から風が入り、傾いた光が床の上へ長く伸びている。
少し先では、先ほどの男子生徒が同じ班の友人とまだ話を続けていた。
「次の課題も、最初から全部まとめないで一回分けたまま見てみようぜ」
そんな声が聞こえてくる。
フローレンは足を止めることなく、ほんの少しだけ笑った。
窓の外では、風に揺れた木々の葉がさらさらと音を立てている。その音を聞きながら、ルシアンとレオの隣を歩いていった。




