93:薬草園実習の成果
薬草園での実習を終えてから、数日が過ぎた。
午後の授業を終えた頃、フローレンたちは三人揃って教員室へ呼ばれた。
先日の実習について何か確認があるのだろうか。そんなことを考えながら向かうと、待っていた教師の表情は穏やかだった。机の上には何枚かの報告書が重ねられており、その一番上には見覚えのある薬草園の名がある。
「先日の実習について、薬草園から正式な報告が届いた」
教師は三人が揃ったのを確かめてから、手元の紙へ視線を落とした。
「水やりの時刻を見直した区画は、その後も安定しているそうだ。影響の出やすいところから運用を変えたやり方も、今のところ問題なく続いているらしい」
フローレンの頭に、管理小屋で最後に見た記録用紙が浮かんだ。
一週間前には存在しなかった《水やり時刻》の欄。
今も、あの欄には新しい記録が増え続けているらしい。
「報告書も読んだ。現場の記録だけに頼らず話を聞いたことも、見つけた違いをすぐに原因と決めつけず確かめたこともよかった。その後の作業まで考えて、現場で続けられる形へまとめたことも含めてな」
教師の声には、普段の授業で答案を評価する時とは少し違う柔らかさがあった。
「責任者からも、三人へ改めて礼を伝えてほしいと言われている」
隣へ目をやると、ちょうどレオもこちらを見ていた。目が合っただけで、同じことを考えているのがなんとなく分かる。ルシアンも報告書へ向けていた視線を上げ、穏やかに目元を和らげていた。
「……よかったね」
フローレンが小さな声で言うと、レオも嬉しそうに頷いた。
「うん。ちゃんと続いてるみたい」
三人の様子を見て教師は満足そうに頷き、重なった紙の中からもう一枚を抜き出す。
「それと、これは別件だ。市場街からも追加の報告が来ている」
思いがけない言葉に、フローレンの顔が上がった。
「市場街の実習についてもですか?」
「ああ。以前話した荷受け時間の調整だが、その後も試行を続けているそうだ」
春の実習からは、もうしばらく時間が経っている。
あの時は、特に混雑の大きかった一角で、周辺の店と配送側の協力を得て調整を始めたばかりだった。
「店ごとに動かせる時間を確認しながら、近い荷下ろし場所へ荷車が集中しないようにしている。朝に必要な荷物を無理に動かさず、調整できるところだけをずらす形だな」
教師は報告書の続きを確かめる。
「その後も朝の列は以前より短い状態を保てているらしい。荷下ろしを待つ時間も減っていて、今のところ大きな支障は出ていないそうだ」
「……本当ですか」
思わず声が弾んだ。
「ああ。実習全体として市場側から礼も届いている。その中でも、君たちが調べていた辺りの店では、三人のことを覚えている者も多いらしいな」
春の日差しの下で、三人で何度も囲んだ地図が蘇る。
近い三軒へ続けて荷車が到着していた時刻。店によって違っていた「朝に来てほしい」の意味。紙の上では綺麗に分けられた時間枠が、実際に店や御者へ聞いてみるたびに崩れていったこと。
そのたびに線を消して、条件を足して、また考えた。
あの日、自分たちが市場街を離れたあとも、そこで暮らす人たちが続きを引き受けてくれた。何度も直した案の一部が、今も朝の荷受けに使われている。
「それは……嬉しいです」
胸の奥へ広がったものをそのまま口にすると、教師もわずかに笑った。
「成果というのは、提出した時点で終わるものばかりではない。今回の二件は、その後まで含めていい経験になっただろう」
「はい」
返事は、三人ともほとんど同時だった。
教員室を出ると、長い廊下には放課後の静けさが広がっていた。
西へ傾き始めた日差しが窓から差し込み、床の上へ細長い光を落としている。三人はいつもの自習室へ向かいながらも、先ほど聞いた報告の余韻をまだ引きずっていた。
「市場街も、ちゃんと続いてたんだね」
フローレンが改めて口にすると、レオが懐かしそうに笑った。
「あれ大変だったもんねえ」
「ああ。何度も案を直したからな」
「でも、ちゃんと続いててよかった」
春の市場街を思い出しているうちに、フローレンはふと別のことに気づいた。
「あ。そういえば、父から手紙が来て、市場街の実習のことが書かれてたの」
「お父上の耳まで届いたのか?」
ルシアンが少し意外そうにこちらを見る。
「うん。父の取引先の方で、実習してたところを見てた人が何人かいたみたい。それに、荷受けの待ち時間が減って助かったっていう方もいたらしくて」
廊下の角を曲がる。窓の外から入った風が、フローレンの髪をわずかに揺らした。
「『随分しっかり取り組んでいた』『優秀な娘さんですね』って、いろんな方から褒めていただいたみたいで」
「あれだけ歩き回ったもんねえ」
レオはあの日の慌ただしさまで思い出したように、楽しげに口元を緩めた。
「頑張ったかいがあったね」
「そうなんだけど」
フローレンは少し困ったように笑って、指先で髪を耳へ掛けた。
「なんだか、人伝に自分のことが家族へ伝わるのって、ちょっと気恥ずかしい」
自分から「今日はこんなことがあった」と話すのとは違う。
知らないところで自分の話がされ、それが何人かの口を通って家族のもとへ届く。悪いことではないし、むしろ嬉しい。それでも、父がどんな顔でその話を聞いたのかと思うと、妙に落ち着かなかった。
「でね、父の手紙にはそのことが少し書いてあって、あとはいつもの商会の話だったんだけど……」
「うん?」
先を促すようなレオの声に、フローレンの口元が少し緩む。
「でも、兄からの手紙に、父が実はすごく喜んでたって書いてあったの」
取引先から話を聞いた日は機嫌がよかったこと。夕食の時にもフローレンの話をしていたこと。本人の手紙にはきっとそんなことは書かないだろうから、と兄は頼んでもいないところまで丁寧に知らせてきた。
「うーん、ちょっと待って」
隣を歩いていたレオの靴音が、一つ遅れた。
父の裏事情よりも先に、別のところへ引っかかったらしい。
「お兄さんからも手紙来たの?」
「うん。同じ日に、別々の封筒で」
答えてから、フローレンはそっと声の音量を落とした。三人の間でも耳をすませないと聞こえないくらいの小さな声で続ける。
「ちなみに……」
「え、なに?」
レオが面白そうに顔を寄せる。ルシアンも口を挟みはしなかったものの、いつの間にかこちらへ視線を向けていた。
「母と弟からの手紙も来た。同じ日に。別々の封筒で」
レオが瞬きをする。
「計四通?」
「計四通」
一拍。
「アストリア家、面白すぎるでしょ」
とうとう吹き出したレオにつられ、フローレンも苦笑した。
「私も受け取った時そう思ったよ。まとめて送ってくれたらいいのにね」
「別々に返事を書くのか?」
ルシアンに尋ねられ、フローレンは頷く。
「うん。そのつもり」
「なら、きっとそれを楽しみに書かれたんだろうな」
「え?」
予想していなかった言葉に目を瞬く。
「それぞれがフローレンへ手紙を書けば、それぞれに宛てた返事が戻ってくるだろう?」
「あ、なるほど」
先に納得したのはレオだった。
「自分だけ宛の手紙が返ってくるからか」
「そう考えると、わざわざ四通に分けた理由も分かる気がする」
ルシアンはそう言って、柔らかく笑った。
「ご家族ととても仲が良いんだな」
「……うん、そうなの」
改めて他人の口から言われると、それだけのことなのになぜか少し照れくさい。フローレンは前へ視線を戻したものの、頬に浮かんだ笑みまでは隠せなかった。
「あ、俺にも来てたな。父上からの手紙」
話の流れで思い出したらしく、今度はレオが声を上げた。
「そうなんだ。どんなことが書いてあったの?」
すぐに顔を向けたフローレンを見て、レオは可笑しそうに片手を振る。
「うちのはそんな面白みないよ。最近どうだ、学院生活に変わりはないかって。それと――」
少しだけ考えるように間を置いてから、記憶している文面を口にした。
「『双子が最近、学院のことばかり聞いてくる。私よりお前に聞いた方が早いだろう。次に帰ってきた時に相手をしてやってくれ』だって」
「来年入学だったか。早いな」
ルシアンの声にも、少し懐かしむような響きが混じる。
「それって、春に喧嘩をレオが仲裁したっていう弟さんと妹さん?」
「そうそう。あの二人」
レオは肩をすくめたものの、表情はどこか楽しそうだった。
「来年は騒がしくなるなあ」
「うちの弟も来年入学だから、もしかしたら同じクラスになれたりするのかな?」
思いついたまま口にすると、レオの目が楽しそうに細くなる。
「もしそうなったら、先生も面白がるかもね。また教室にアストリアとルベライトがいる……って」
「弟、私とそっくりの顔だから、先生困惑するかも」
「幼い頃に会ったきりだが、レオのところも確かよく似ていたな」
ルシアンが昔の記憶を辿るように言った。
「そそ、年々似てきてる。特に妹がそっくり」
レオは自分の顔を指しながら笑う。
「先生の反応、かなり見てみたいかも」
「同じ先生が受け持ったら、最初の一週間くらい毎回二度見されそう」
「それはありそうだな」
三人の笑い声が、人気の少なくなった廊下へ小さく響いた。
来年には、それぞれの弟や妹が同じ学院のどこかを歩いている。
自分たちが一年生だった頃は、四年生なんて随分先にいる人たちに見えた。それが今では、これから入学する年下のきょうだいたちへ学院のことを話す側になっている。
時間の流れを思うと、少しだけ不思議だった。
「ルシアンのところは?」
笑いが落ち着いた頃、レオが隣へ顔を向ける。
「最近、手紙来た?」
「ああ。ちょうど先日、父から届いた」
「ノクティス公爵から?」
フローレンも興味を引かれて尋ねると、ルシアンは頷いた。
「そんなに畏まった内容じゃない。家の近況が少し。それから――」
記憶を辿るように一度視線を上げる。
「『今年の四年特進には、例年以上に優秀な生徒が揃っていると聞いている。互いに高め合い、より一層勉学に励みなさい』と」
「もしかして、その四年特進にいる『例年以上に優秀な生徒』って、俺とフローレンも含まれるのかな?」
レオが冗談めかして尋ねる。いつものように、ルシアンが呆れた顔で軽く返してくるのを待っているような口調だった。
けれど、返ってきた言葉には少しの迷いもなかった。
「それは当然含まれるだろう」
今度はレオの方が一瞬黙った。フローレンも思わず隣を見る。
二人から同時に視線を向けられたルシアンだけが、不思議そうに眉を寄せた。
「なぜ驚くんだ?」
「いや……即答するんだなって」
「課外実習について、僕から伝えるべきことはできる限り報告するようにしている。詳細がどこまで父の耳に届いているかは分からないが、今年の特進でどんなことをしているのかは、ある程度知っていると思う」
「真面目だなあ」
「報告した方がいいことなら、報告する」
「ルシアンらしいね」
フローレンが笑うと、ルシアンは少し腑に落ちないように首を傾げた。
「そうか?」
そんな話をしているうちに、三人はいつもの自習室へ辿り着いていた。
扉を開けると、まだ人の少ない室内へ夕方の光が長く差し込んでいる。窓際のいつもの席まで歩き、机の上へ本やノートを置く。
フローレンが椅子を引こうとしたところで、向かいからレオがふと顔を上げた。
「そういえば、さっきの手紙の返事って書いた?」
「うん。昨日、四通とも書いたよ」
「全部?」
「全部」
「早いなあ」
感心したような声に、フローレンは笑った。
「レオはまだなの?」
「まだ」
「人のこと聞いてる場合じゃないよね」
「だから聞いたんだよ。何書こうかなと思って」
悪びれる様子もなく答えるレオに、ルシアンが本を取り出しながら口を挟む。
「それなら、まず返事が遅くなったことを書くのがいいんじゃないか?」
「ほら、そういうこと言うと思った」
レオが肩を落とす。その様子を笑いながら見ていたフローレンは、ふと思い出してルシアンへ顔を向けた。
「ルシアンは? お父上への返事、もう書いた?」
「ああ。先日返した」
「何て書いたの?」
今度はレオまで興味を向ける。
ルシアンは少し考えてから、記憶している文面をそのまま口にした。
「家の近況への返事と、課外実習のことを少し。あとは――『大切な友人と共に、良い成果を上げることができた』と書いた」
「大切な友人って、俺とフローレン?」
レオの顔がすぐに明るくなる。
「ああ。二人のことだ」
「おー、嬉しい」
隠す気もない素直な反応に、フローレンもつられるように笑った。
「私も似たこと書いたよ」
「何て?」
「大切な友達と一緒に頑張ったって」
「おお。そっちも嬉しい!」
レオがますます機嫌よく笑う。ルシアンも穏やかに目元を和らげた。
「ありがとう、フローレン」
「うん」
三人で上げた成果を、それぞれが家族へそう伝えている。
改めて考えるほどのことでもないのに、そうして言葉にしてみると、胸の奥へじんわりと温かなものが広がった。
「よし。俺も今日書こう」
「やっと?」
「今日書けば遅くない」
「もう十分遅いんじゃないか? 手紙の返事は早いに越したことはないだろう」
真面目な顔で返したルシアンに、レオがいかにも困ったように眉を下げる。
「正論すぎて耳が痛い」
フローレンは吹き出しながら椅子へ腰を下ろした。
結局レオは本より先に便箋を取り出し、机の上へ広げる。窓から差し込む夕方の光の中で、その横へフローレンとルシアンの本やノートも並んだ。
三人の間には、いつもの放課後の時間がゆっくりと戻ってきていた。




