92:書き加えられた欄
午後になると、管理小屋には朝より少し多くの人が集まっていた。
責任者のほかに、水やりや見回りを担当している作業員が四人集まっている。机の中央には、この一週間の記録と薬草園の区画図が広げられていた。
「まず、今回の結果から話そうか」
責任者は二組分の記録を机の中央へ並べ、作業員たちからも数字が見えるよう向きを揃えた。
「試験した二組とも、早い時間に水を与えた区画で生育の改善が見られた。差の大きさは同じではないが、水やりの時刻が少なくとも何らかの影響を与えている可能性は高いと考えている」
そこで一度言葉を区切り、今度は二組の位置が分かるよう区画図へ指を移す。
「ただ、二組で改善の幅は異なっている。日当たりや元々の生育状態など、ほかの条件も重なっているんだろう」
集まった作業員たちは、記録に並ぶ数字を確かめてから区画図へ視線を移した。すぐに答えを出すというより、自分たちが普段歩いている場所と照らし合わせているようだった。
「では、全部以前の時間へ戻すんですか?」
「いや。今のところ、その必要はないと思ってるよ」
責任者は小さく首を横に振ると、三人の方へ顔を向けた。
「その辺りも含めて、今日は実際に作業する皆の意見を聞きながら決められたらと思ってる」
話を向けられたルシアンは、皆が見やすい位置まで区画図を少し手前へ寄せた。生育不良の印がついた場所を目で追いながら、いくつかの区画を指先で示す。
「生育不良が出ている場所の中でも、程度には差があります。まずは影響が大きい区画を優先して、早い時間に水を与える形にできないでしょうか」
「全部じゃなくて、一部だけということですか?」
「はい。朝の見回りも必要な作業だと伺っていますから、そちらをなくすのではなく、両方を続けられる方法を考えた方がいいと思います」
作業員たちはそれぞれ区画図へ身を寄せ、普段の動線を思い浮かべるように目を走らせた。
そのうち一人が、園の西側を指でなぞる。
「この辺りなら、先に水をやってもそれほど時間はかからないと思います。まとまっていますから」
「ただ、北側まで入れると少し厳しいですね。朝の見回りが遅れそうです」
別の男性もすぐに図へ手を伸ばし、西側から北へ続く道筋を示した。
レオは二人の指先が辿った道を目で追い、しばらく実際の朝の動きを思い描くように黙っていた。
「水やりをする人と、見回りをする人を最初だけ分けるのは難しいですか?」
「最初だけ?」
「はい。早く水をやりたい区画が終わったら、合流する形で」
男性たちは一度互いの顔を見合わせ、それぞれの担当を頭の中で組み直すように考え込んだ。
「それなら……できそうですね」
「毎日二人を完全に分けるのは難しいですが、最初の二十分くらいなら問題ないと思います」
「二十分なら、見回り側にも大きな負担は出ませんか?」
レオが念を押すように確かめると、今度は別の作業員が普段の見回り人数を思い返すように頷いた。
「大丈夫だと思います。今も最初から全員で一緒に回っているわけではありませんから」
「なるほど」
レオは納得したように目元を緩めると、改めて区画図へ視線を落とした。机の上の案が、少しずつ実際の朝の動きへ近づいている。
その横で、フローレンは生育記録と地図を交互に見比べていた。生育不良の程度と場所を一つずつ重ねていくうちに、三か所の印へ目が留まる。
「それなら、最初はこの三つの区画からでどうでしょうか」
印のついた場所を順に指し示す。
「試験した場所と、生育不良の出方が近いです。今の記録では、この辺りが特に影響を受けているように見えます」
「こちらはどうです?」
作業員が少し離れた別の区画を指す。
フローレンは手元の記録から該当する場所を見つけ、これまでの生育状態を頭の中で重ねた。
「そこは少し軽いです。急いで変えるより、今の時間で記録を続けて比べた方がいいと思います」
責任者も同じ頁を覗き込み、数字と区画図を照らし合わせてから納得したように目元を緩めた。
「そうしよう。まず三区画を優先して水やりをして、それ以外は今まで通り。朝の見回りと水やりは、最初の時間だけ担当を分ける形で試そう」
ルシアンはそこで決まった人数と作業の順番をもう一度辿った。水やりを終えた人がどこで見回りへ合流するのかまで確認し、最後に責任者を見る。
「水やり側が終わったあとに、そのまま見回りへ合流できれば、作業全体が大きく遅れることもなさそうですね」
「ああ。その形なら問題ないと思うよ」
最初に案を出した時よりも、ずっと具体的になっていた。
どの区画を先にし、誰がどこから始め、どの時点で合流するのか。机の上で考えていた方法が、実際の朝の動きへ少しずつ形を変えていく。
「あと、記録なんですが」
フローレンは話が一段落したところで、試験中に使っていた帳面へ目を落とした。
「今後も、水やりの時刻は残しておいた方がいいかもしれません」
「そうだね」
責任者は試験用に作った記録頁を開き、これまでの栽培記録と並べて机へ置いた。
水量や回数、天候、気温が並ぶ。その隣に、この一週間だけ書き加えられていた欄がある。
――水やり時刻。
「試験区画だけじゃなくて、通常の栽培記録にも加えよう」
責任者は新しい記録用紙を一枚取り出すと、これまで使っていた項目を順に書き写していった。最後に空いた場所へペン先を置き、『水やり時刻』と新しい欄を書き加える。
フローレンは、その文字が紙の上へ増えていく様子をじっと見ていた。
一週間前まで、そこには何もなかった。誰かにとって当たり前だった作業の時間は、記録に残すものとして扱われていなかった。
けれど今、それは一つの情報として積み重ねられていくことになる。
もしレオが作業員との会話の中で水やり時刻の変化を拾っていなければ、この欄は今も書かれないままだっただろう。そう思ったところで、別の疑問がふいに胸の内へ浮かんだ。
「……書かれてない情報って、どうやって見つければいいんだろう」
思わず口にした声に、隣で区画図を畳んでいたレオの手が止まった。
「書かれていない情報?」
「うん。今回みたいに、記録すらされていないこと。でも、実はそれが重要な手掛かりになりうるってことも分かったから……」
「聞いて気付くしかないこともあるんじゃない?」
「聞いて、気付く?」
「うん」
レオはすぐには続きを口にせず、答えを探すように少し視線を上げた。
「その人にとって普通すぎることって、わざわざ書かないからね」
フローレンは返事をせず、もう一度新しい記録用紙へ目を落とした。
三年生以前の自分なら、もっと資料を探そうとしただろう。知識や情報を繋げることを知った今でも、まずは資料や記録に書かれたことを頭に入れて、そこから繋げていく。
けれど、最初からどこにも書かれていないものは、そもそも頭に入れようがない。いくら読む資料や記録を増やしたところで、そこから答えへ続く道を繋ぐことはできない。
誰かが毎日見て、当たり前のようにしていることの中には、本人さえ特別だと思っていない情報がある。
誰かにとっては、記録に残そうとさえ思わないほど些細なこと。それが別の誰かにとっては、答えへ繋がる重要な手がかりになることもある。そういう情報も、現実の中にはいくらでもあるらしい。
「今回も、そうだったね」
フローレンが水やり時刻の欄を指先で示すと、レオは意図を掴みきれないように少し首を傾げた。
「何が?」
「水やりの時間」
試験を始めるきっかけになった日のことを思い返す。
「レオが作業してる人と話してなかったら、私たち、たぶんずっと記録だけ見てたと思う」
「でも、あれはたまたま話してたら出てきただけだよ」
レオは本当に大したことではないと思っているらしく、肩の力を抜いたまま軽く笑った。
けれど、フローレンにはそれで済ませる気はなかった。すぐに首を横に振り、レオをまっすぐ見る。
「でも、レオが話してなかったら分からなかったよ」
少し離れたところで記録を整理していたルシアンも、その言葉に顔を上げた。手にしていた紙を机へ置きながら、レオへ視線を向ける。
「僕たちが記録をいくら見ても出てこなかった情報だからな」
「その通りだ」
声を重ねた責任者へ、三人の視線が集まった。
「最初に水やりの時刻を拾ってくれたのは、ルベライト君だった」
思いがけず話の中心に置かれたレオが、少し目を瞬く。
「アストリアさんが、それをすぐ原因だと決めつけずに比較する方法を考えてくれた。ノクティス君は、比較する条件を整理して、試す範囲を絞ってくれた」
責任者は机の上に残る区画図と一週間分の記録をゆっくり見渡した。作業員たちと話し合って決めた新しい手順まで含め、ここまで辿ったものを一つずつ確かめるような目だった。
「どれか一つだけでは、ここまでは進まなかったと思う。助かったよ」
そう言って三人へ向けられた表情には、調査を始めた頃にはなかった安堵が浮かんでいた。
三人もほとんど同時に姿勢を正し、感謝を受け取るように揃って深く頭を下げた。
「そっか……」
責任者や作業員たちが記録をまとめ、机の上を片づけ始める中で、レオがぽつりと呟いた。視線は、新しく水やり時刻の欄が加えられた記録用紙へ落ちたままだった。
「どうしたの、レオ」
フローレンが声をかけると、レオは一度こちらを見たものの、すぐには続く言葉が出てこなかった。
「ああ、いや……」
何かを口にしかけたまま、わずかに視線を逸らす。
その間は、自分の中に浮かんだものを本当に言葉にしていいのか確かめているようだった。以前、自分の望みを口にするまでに少し時間がかかった時と、どこか似ている。
やがてレオは、もう一度記録用紙へ目を戻した。
「その……人と話すのって、こういう時にも結構役に立つんだなって」
どこか遠慮がちな声だった。「そうなのかもしれない」と、自分でもまだ確かめきれていないような響きが残っている。
けれど、フローレンには迷う理由がなかった。
「レオが作業してる人に話を聞いてくれて、すごく助かったよ」
思ったままをすぐ返すと、隣からルシアンの穏やかな声も重なった。
「ああ。レオがいなければ、ここまで早く辿り着けなかったかもしれない」
二人からまっすぐに返された言葉に、レオは虚を突かれたように目を丸くした。
しばらくフローレンとルシアンを見比べる。いつものように笑って流すかと思ったが、レオは何も否定しなかった。
「……うん」
短く受け取ったあと、琥珀色の目がほんの少しだけ誇らしげに細められた。照れを隠しきれないように浮かんだ笑みに、フローレンも自然と頬を緩めた。
開け放たれた窓から風が入り、机の上に残された記録用紙の端を小さく揺らす。
一週間前までは、そこになかった《水やり時刻》の欄。
これから先、そこには毎日の時刻が一つずつ積み重ねられていく。
いつかまた誰かが困った時、役に立つかもしれない情報として。




