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91:同じ方向へ


 さらに三日が過ぎた。

 

 薬草園へ続く道には、前回よりも濃い緑が増えていた。空は高く晴れ、馬車を降りると、温められた土と青い葉の匂いがふわりと立ち上る。


 園の入口では、朝の作業を終えたばかりらしい作業員たちが道具を運んでいた。水気を含んだ畝の間を人が行き交い、桶や農具の触れ合う音が時折響いている。


「おはようございます」


 フローレンたちが挨拶すると、何人かが笑顔で返してくれる。


 その中に、前回話を聞いた男性の姿もあった。


「今日は結果を見る日でしたよね」

「そうなんです」


 普段と変わらない軽い声音ながら、レオの琥珀色の目には隠しきれない期待が浮かんでいる。


「どうでしたか?」


 フローレンもつられるように男性の顔を窺いながら尋ねた。


 男性は答える代わりに、意味ありげな笑みを口元へ滲ませた。


「それは、実際に見てもらった方がいいと思いますよ」


 それを聞いたレオの表情には、答えを教えてもらえなかった残念さより先に好奇心が滲んだ。口元を少し緩めながら、伏せられた結果さえ楽しむように男性を見る。


 フローレンの胸の奥にも期待がじわりと広がり、管理小屋へ向かう足取りは自然と速くなった。


 中へ入ると、責任者はすでに机の上へ一週間分の記録を並べていた。窓から差し込む朝の光が、開かれた紙面の端を白く照らしている。


「ちょうど記録を揃えていたところだよ」


 責任者は手元の帳面を閉じかけたところで三人へ気づき、そのうちの一冊をこちらへ滑らせた。


「予定していた七日間、どの区画も条件を変えずに続けてある」

「ありがとうございます」


 フローレンは椅子へ座るより先に机へ近づき、差し出された帳面を覗き込んだ。


 七日分の水やり時刻と水量、その日の天候や気温まで、記録は途切れずに続いている。試験の途中で、比較を難しくするほど条件が崩れた日はなかった。


 早い時間に水を与える区画では、一週間を通してほぼ同じ時間帯に水やりが行われている。比較する側も、従来通り見回り後の時刻に揃っていた。これまでの帳面にはなかった水やり時刻の欄が、今では七日分の数字で埋まっている。


「作業のご負担は大きくありませんでしたか」

「ああ。担当者からも、数区画だけならそれほど負担はなかったと聞いてるよ」


 レオはその返事を聞くと、安心したように目元をわずかに緩めた。試験の結果と同じくらい、実際に続ける人たちへ無理が出なかったことも気にしていたらしい。


「それならよかったです」


 たとえ効果があっても、現場で続けられない方法では意味がない。一週間前にレオが気にしていたことが、まず一つ確かめられた。


「記録から見るかい?」


 責任者が開いた帳面へ手を添える。


 フローレンは一瞬迷ったものの、並んだ数字へ残していた視線をゆっくり外した。


「先に、現物の方を見てもいいですか?」

「もちろん」


 責任者はそれ以上勧めることなく帳面を閉じた。乾いた紙の音が、小さく室内へ響く。


 数字を先に知ってしまえば、それに引っ張られて見てしまう気がした。まず自分の目で見て、そのあと記録と照らし合わせたい。


「僕もその方がいいと思う」


 ルシアンも同意を示すように腰を上げ、机の端に置かれていた記録用の紙を揃えた。


「まず現物を見て、そのあと記録と合わせよう」

「じゃあ行こう」


 レオは待ちきれない様子で扉へ向かい、取っ手へ手を掛けた。開いた戸口から明るい陽射しが差し込み、三人も責任者に続いて外へ出る。


 最初に向かったのは、四日前にも違いが見え始めていた一組目だった。


 畝が見えてくるにつれ、フローレンの歩みが少しずつ速くなる。遠くからでも、記憶にある四日前の輪郭とはどこか違って見えた。


「……あ」


 今度は、近くまで行かなくても分かった。


 早い時間に水を与えていた区画の方が、葉の広がり方が明らかに違う。隣り合ってはいなくても、二つを見比べれば、その差は以前よりずっと見つけやすかった。


 四日前には「少し良い」と感じる程度だった。けれど今は、新しく開いた葉の大きさだけでなく、株全体に張りが戻っている。上の方で詰まっていた節も少しずつ伸び、葉と葉の間に余裕ができていた。


 比較側も育ってはいる。ただ、同じ一週間を過ごした二つの区画には、前回よりはっきりした違いが現れていた。


「……これ」


 フローレンは早い時間側の株の前へしゃがみ込んだ。膝の脇で葉が揺れ、青い匂いが近くなる。


 七日前の姿も、四日前に見た姿も鮮明に残っている。目の前の株へそれぞれの記憶を重ねると、どこがどれだけ変わったのかが一つずつ浮かび上がった。


「かなり違う」


 思わず弾んだ声に、レオが楽しそうに目を細めて隣から覗き込んでくる。


「今回は『気がする』じゃない?」

「うん。今回は違うって言える」


 フローレンも笑いながら、もう一度葉へ視線を戻した。指を触れずに縁から先端まで目で追い、記憶の中の形と重ねていく。


「この株、四日前は一番上の葉がここまで開いてなかった。茎も、今よりずっと短かったし」


 少し離れた比較側へ移る。こちらも新しい葉は増えていたが、先ほどの株ほど勢いよく広がってはいない。


「こっちも育ってるけど……やっぱり違う」


 ルシアンは二つの区画から少し距離を取り、株全体の形まで見比べてから責任者へ顔を向けた。


「葉の張りも、早い時間に水をやった区画の方が良さそうですね」

「ああ」


 責任者は頷きながら記録板を開き、一週間分の測定値が並ぶ頁を三人へ見えるよう傾けた。


「測定している株の平均では、一週間での茎の伸びが、早い時間にした方で五・四センチ。通常の時間帯を続けた方が四・〇センチだ」

「四日前より差が広がっていますね」


 フローレンは二つの数字へ交互に目を走らせた。四日目の時点でも差はあったが、その開きがさらに大きくなっている。


「新しく出た葉も、こちらの方が平均して大きくなってる。担当者からも、五日目あたりから見た目の差が分かりやすくなったと報告があったよ」


 数字まで、目の前の変化と同じ方向を示している。見たものと記録が重なった瞬間、胸の奥に今度こそはっきりとした高揚が広がった。


 けれど、そのまま喜びきるより先に、四日前にはほとんど差のなかったもう一組が頭へ浮かぶ。フローレンは膝についた土を軽く払いながら立ち上がった。


「二組目も見よう」


 三人は軽く顔を見合わせ、そのまま東側の区画へ向かった。一組目だけなら、前回すでに変化は出始めていた。今日確かめたいのは、あの時ほとんど差のなかった二組目だった。


 二組目の畝が見えてくると、フローレンは自然と歩みを緩めた。朝は早くから陽が差しやすく、四日目の時点では水やりの時間を変えてもほとんど差が見えなかった場所だ。


 まず早い時間に水を与えている区画へ入り、四日前に確かめた株の前へしゃがみ込む。見覚えのある葉を見つけた途端、フローレンは言葉を忘れたようにその場で視線を止めた。


「……どう?」


 レオは少し後ろで足を止め、答えを急かさない柔らかな声で尋ねた。


 フローレンはすぐには答えず、茎の先から根元へ視線を下ろし、もう一度上へ辿った。


 新しい葉はしっかりと開き、前回ほとんど変化のなかった上の節もわずかに伸びている。葉の張りまで、四日前より明らかに良かった。


「比較する方も見てくる」


 今度は急がず、隣の区画へ移る。期待だけで差を見つけてしまわないよう、一度息を整えてから同じ位置にある株を探した。


 比較側の株も、もちろん三日分は育っていた。新しい葉も出ている。けれど、先ほど見た株の姿を重ねれば、今度は迷う必要がなかった。


「……違う」


 思わず振り返ったフローレンの声に混じった驚きを拾い、レオの目がぱっと大きくなる。


「差が出た?」

「うん」


 早い時間側へ戻り、二つの株を視線の中で重ねる。一組目ほど大きな差ではない。それでも、四日前には見つけられなかった違いが、今は確かにある。


「一組目ほどじゃない。でも、早く水をやった方が伸びてる」


 ルシアンも隣へ腰を落とし、葉の大きさと茎の節を順に見比べてから納得したように目を細めた。


「葉も少し大きいな」

「うん。四日前はほとんど同じだったのに」


 責任者は二人の言葉を聞きながら記録を開き、該当する頁へ指を滑らせた。


「こちらも数字に差が出てるよ」


 その一言に、三人の視線が一斉に頁へ集まる。


「測定している株の平均では、早い時間に水を与えた区画が四・四センチ。通常の時間が三・七センチだ」

「……出た」


 レオの口から零れた声は小さかったが、響きには隠しきれない喜びが混じっていた。確かめた数字を噛みしめるように、何度か同じ欄を見直していた。


 フローレンも数字から目を離せなかった。


 前回は、四日間で二・三と二・二。ほとんど差がなかった。それが七日目の今は、四・四と三・七まで開いている。


「新しい葉も同じですか?」

「こちらの方が、わずかだけど平均して大きくなってるよ」


 責任者の返事を聞いた瞬間、フローレンは嬉しさに弾む気持ちのままルシアンへ顔を向けた。


 ルシアンも同じところを見ていたらしい。紫の瞳がこちらへ向き、いつもより少しだけ明るく細められる。


「二組ともだ」


 普段の落ち着いた声にも、今だけはわずかな喜びが混じっていた。


「うん」


 フローレンも自然と笑みを浮かべて頷いた。

 一組目ほど大きな差ではなく、伸びた長さも同じではない。それでも、早い時間に水を与えた方がよく育ったという変化の向きは、二組とも揃っていた。


 四日前には止まってしまった線が、今度は確かにその先へ伸びている。そのことが嬉しくて、フローレンの口から小さく声が零れた。


「……やった」

「しっかり違いが出たね」

「うん」


 三人の間に広がった高揚はそのままに、それでも視線はすぐ二組分の記録へ戻っていった。


「一組目より差は小さいな」

「たしかに」


 フローレンは残った嬉しさを抱えたまま、改めて二組の数字を見比べた。結果が出たことと、そこから何を言えるかは別だ。


「前に聞いた、朝の日当たりの違いが関係してるかもしれないね」

「その可能性はある」


 ルシアンは二組目の畝から園の西側へゆっくり視線を移し、陽射しの向きと二つの場所の位置関係を確かめた。


「同じ『早い時間』でも、この辺りはすでに陽が差している日がある。西側の区画とは、水を与えた時の環境まで同じではない」

「だから、一組目ほど差が出なかった?」


 レオは足元の葉へ視線を落としながら、答えを決めつけない調子で問いかけた。


「そうかもしれない」


 フローレンはそう答えたものの、すぐに一週間前の株の姿を頭の中へ呼び戻した。二組を並べてみれば、他にも揃っていないものがある。


「でも、それも今はまだ決められないよ。元々の育ち方も少し違ってたし」

「ああ。差の大きさまで一つの理由で説明しようとするのは早いな」


 ルシアンは考えを確かめるようにゆっくり頷き、もう一度記録へ目を落とした。


 嬉しさはまだ胸の奥に残っていた。それでも、二組で差の大きさまで同じだったわけではない。陽の当たり方も、それ以前の育ち方も、完全には揃っていなかった。


 今分かっているのは、早い時間に水を与えた方が、どちらの組でもよく育ったということだけだった。


「責任者さん」


 レオは二組の畝と手元の記録を交互に見たあと、少し慎重な声音で責任者へ呼びかけた。


「これなら、水やりの時間はかなり関係ありそうだと考えていいんでしょうか?」


 責任者はすぐには答えず、一週間分の数字を指先で追った。最後に実際の畝へ視線を移し、しばらく考えてから口を開く。


「そうだね。少なくとも、無関係だと考えるのは難しくなったと思う」


 フローレンはその言葉を聞きながら、もう一度二組目の薬草へ目を向けた。葉は風に揺れ、数字には表れない細かな動きを見せている。


「一週間という短い期間だし、すべての区画で同じ結果が出るとは限らない。ただ、条件の近い二組で同じ方向の変化が出たなら、今後の管理方法を考える材料としては十分に価値があるよ」

「管理方法、ですか?」


 レオは聞き慣れない話題へ一歩進んだことに興味を引かれたのか、少し首を傾げながらその言葉を繰り返した。


 責任者は答える前に薬草園全体へ視線を巡らせた。遠くでは作業員が畝の間を歩き、別の区画で葉の様子を確認している。


「ああ。原因を突き止めることと、現場でどう改善するかはまた別だからね」


 その言葉を受けて、三人の視線が自然と交わった。


 一週間前は、水やりの時間が原因なのかどうかを確かめることだけを考えていた。けれど、それが有力だと分かってきた今度は、その先がある。


 どの区画を優先し、朝の見回りとどう両立するのか。作業する人に無理のない形を探しながら、今回見つかった違いを次からどう記録へ残していくのか。考えることは、原因を探していた時とは別の方向へ広がり始めていた。


「……次はそっちだね」


 レオは園内で働く人たちへ視線を向け、考えが次の段階へ移ったことを確かめるように呟いた。


 フローレンもレオの視線を追い、園内で働く人たちへ目を向けた。朝の作業を終えた人たちは、すでにそれぞれ次の仕事へ移っている。


「うん」


 帳面の数字だけを追っていた一週間前には、見えていなかったところまで来ている。見つけた答えを、そのまま現場へ押しつければいいわけではない。


 ルシアンは二組分の記録を重ね、紙の角をきちんと揃えながら考え込むように目を細めた。やがて区画図へ視線を移し、園全体の配置を確かめる。


「全部を以前のやり方に戻す必要はないだろうな」

「やっぱり?」


 レオは待っていたように身を寄せ、揃えられた記録と区画図を覗き込んだ。フローレンもルシアンが見ている場所へ視線を落とす。


「ああ。影響が出やすい場所だけを先にする方法もある。見回りを続けながらできる形を考えた方がいい」

「それなら、作業の人にも聞きたいね」


 レオはすぐに園内で働く人たちへ顔を向けた。机上で決めるより、実際に毎朝その作業をする人へ聞く方が早いと思ったらしい。


 フローレンもその視線を追い、畝の間で働く人たちを見ながら頷いた。


「うん。実際に続ける人がやりにくかったら意味ないし」


 責任者は三人のやり取りを聞きながら穏やかに目元を緩めた。それから近くで働く人たちへ視線を送り、時間を確かめるように空を仰ぐ。


「じゃあ、午後に担当者を何人か集めようか。今回の記録も一緒に見ながら、方法を考えてみよう」

「お願いします」


 三人の声が自然と重なった。少し遅れて互いの顔を見ると、レオが先に笑い、フローレンの口元もつられるように緩む。


 風が畝を抜け、二組目の葉を揺らしていく。一組目と二組目は、同じようには育たなかった。それでも、早い時間に水を与えた方へ、どちらも同じ方向の変化が現れている。


 少なくとも、水やりの時間を無関係なものとして外すことは、もうできそうになかった。


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