90:揃わない結果
四日後。
薬草園へ着いた時には、朝の水やりを終えてからすでにしばらく経っていた。
数日前よりも陽射しは少し強くなり、園内を渡る風には初夏らしい温度が混じっている。畝の間を歩くたび、伸びた葉の先が触れ合って、乾いた音を小さく重ねた。
「これだよ」
管理小屋へ入ると、責任者が机の上に一冊の薄い帳面を置いた。
表紙を開いたフローレンは、最初の頁で目を止める。
区画名の横に、水量と天候、その日の気温。そして、これまでの栽培記録にはなかった欄が一つ増えていた。
水やり時刻。
「毎日、記録してくださったんですね」
「ああ。担当者にも共有して、試験区画だけは時刻まで残すようにしたよ」
頁をめくると、四日分の数字が並んでいる。
早い時間に水を与える区画は、おおむね同じ時間帯。比較する区画も、今年の通常作業とほぼ変わらない時刻に揃っていた。水量にも大きなずれはない。
前回まではどこにも残っていなかったものが、今は四日分の数字として紙の上に並んでいる。
「ちゃんと違うね」
横から帳面を覗いたレオが言った。
「早い方は、だいたい一時間くらい前か」
「ああ」
ルシアンも頁を追う。
「天候も、この四日間は大きく崩れていない。少なくとも今のところ、比較しやすい条件ではあるな」
「うん」
フローレンは帳面を閉じた。
「じゃあ、見に行こう」
最初に向かったのは、試験に使った二組のうち、管理小屋から近い方だった。
同じ種類の薬草が並ぶ二つの区画。
四日前には、どちらも葉がやや小さく、茎の伸びも鈍かった。隣り合っているわけではないが、植え付けの時期も土の配合も近く、日当たりにも大きな差はない。
片方だけ、水やりを以前のような早い時間帯にしている。
「……あれ」
畝へ近づいたところで、フローレンの足が少し速くなった。
「何か違う?」
レオが後ろから尋ねる。
「うん。たぶん」
しゃがみ込み、株の一つへ顔を寄せる。
四日前に見た時、この株の一番上には開きかけの若い葉が二枚あった。まだ小さく、縁も少し内側へ巻いていたはずだ。
今は、その二枚がしっかりと開いている。その中心から、新しい葉も一枚出ていた。
「ここ。新しい葉が増えてる」
フローレンが指すと、ルシアンも隣へしゃがんだ。
「比較する方は?」
「見てくる」
立ち上がり、もう一方の区画へ移る。
同じような位置にあった株を探すのに、それほど時間はかからなかった。
こちらも葉は増えている。ただ、先ほどの株ほど大きく開いてはいない。
「……やっぱり」
「違う?」
追いついてきたレオに、フローレンは少しだけ迷ってから頷いた。
「良くなってる、気がする」
「気がする、なんだ」
レオが笑う。
「だって、まだ見ただけだから」
フローレンはすぐに返した。
「覚えてるから前との違いは分かるけど、それだけで水やりの時間のおかげだって決めたら駄目だし」
「うん。確かにそれはそう」
その横で、ルシアンはすでに責任者から記録板を受け取っていた。
「測った記録もありますか?」
「ああ。今朝、決めてもらった株を測ってるよ」
責任者が頁を開く。
「こっちが早い時間に水を与えている区画だね」
「茎の伸びが……四日で平均二・八センチ?」
「比較側は平均二・一センチだね」
フローレンも数字を覗き込む。
大きな差ではない。けれど、同じ種類で同じ時期に植えられ、生育不良も似た程度だった二つの区画に、少しだけ違いが出始めている。
「新しく出た葉の大きさも、平均するとこっちの方が少し大きい」
ルシアンが別の欄を示した。
「葉の張りは数値にしにくいけど、担当者の記録では二日目から少し良くなったように見える、とあるよ」
責任者の説明を聞きながら、フローレンはもう一度株を見る。
確かに、四日前より葉が上を向いている。
「……これ、当たりなんじゃない?」
レオの声に、フローレンも思わずもう一度薬草へ目を戻した。
四日前より大きく開いた葉。少し伸びた茎。記録に並んだ数字も、目の前で見えている変化と同じ方向を示している。
胸の奥が、ほんの少しだけ浮き立った。
水やりの時間。あれが本当に、生育の違いへ繋がっていたのかもしれない。
けれど、そう思った瞬間に、フローレンは自分でその考えを止めた。
「でも、まだ一組だけだよ」
口にすると、期待に傾きかけていた気持ちも少し落ち着く。
「もう一組を見てから」
「ああ」
ルシアンも最後にもう一度記録へ目を落とし、二組目を確かめるために立ち上がった。
「同じ傾向なら、かなり面白くなる」
「面白くなるって言い方するんだ」
レオが可笑しそうに笑う。
「調査として、だ」
「分かってるって」
三人はそのまま園の中央を抜け、二組目を設けた東側の区画へ向かった。
歩きながらも、フローレンの頭には先ほど確認した記録が残っている。茎の伸びも、新しい葉も、葉の張りも、早い時間に水を与えた方が少し良かった。
もし次も同じなら。
期待しすぎないようにと思うほど、その続きが気になった。
「ここだね」
責任者の声に足を止める。
二組目も、同じように二つの区画を選んでいた。フローレンはまず、早い時間に水を与えている方へ入り、四日前に見た株の前へしゃがみ込む。
葉には触れず、根元から先端まで順に目で追っていった。
四日前よりは育っている。新しい葉も出ていて、茎も少し伸びていた。
「どう?」
少し後ろからレオが尋ねる。
「待って」
フローレンはもう一度、株の根元から先端まで視線を辿った。
この葉がどれくらい開いていたかも、茎の先がどの高さにあったかも覚えている。けれど、一組目で感じたような明確な違いは見つからない。
「……こっちは、そんなに変わらないかも」
「変わらない?」
「うん」
確かめるようにもう一度株を見てから立ち上がり、今度は通常の時間に水を与えている区画へ移った。
そちらも同じように確認し、もう一度最初の区画へ戻る。似た位置の株を選び、葉の開き方や茎の高さを何度か見比べた。
「同じくらい?」
レオの声に、フローレンは少し眉を寄せる。
「ほとんど」
今度は責任者が記録を開いてくれた。
「茎の伸びは、早い方が平均二・三センチ。通常の時間が平均二・二センチだね」
「ほぼ同じだな」
ルシアンも二つの数字を見比べたあと、実際の株へ視線を移した。
「新しく出た葉の大きさも、はっきりした差はないよ」
責任者の言葉に、先ほどまで胸の奥にあった小さな高揚が、すっと静かになっていく。
同じように時間だけを変えたはずなのに、こちらではほとんど違いが出ていない。一組目で見つけた変化が鮮やかだったぶん、その差が余計にはっきり感じられた。
「……あれ」
レオが二つの区画を見比べながら首を傾げる。
「一組目だけ?」
「今のところは」
フローレンも同じように視線を往復させた。
失敗したという感じではない。ただ、一組目で綺麗に繋がりかけた線が、二組目へ来たところでもう一度途切れたように思えた。
「記録を確認しよう」
ルシアンの声に、三人はその場でもう一度帳面を開いた。
水やりの時刻は予定通りだった。早い区画は四日とも朝の早い時間帯で、比較区画は従来通り見回り後に行われている。
水量にも差はなく、追肥もしていない。天候やその日の気温も、記録の上では同じ条件だった。
「作業上の違いはなさそうだね」
「ああ。少なくとも記録されている範囲では」
ルシアンは頁を追い終えると、二組目の区画へ視線を戻した。
「だからといって、一組目の差が偶然だともまだ言えない」
「二組目が変わらなかったから、水やりの時間は関係ない……とも言えないよね」
「そういうことだ」
フローレンも再び薬草へ目を向ける。
同じ種類で、土も似ている。植え付けの時期も近く、条件はできるだけ揃えたつもりだった。
けれど、畑の中にまったく同じ場所などない。
フローレンの中には、四日前に見た二組目の姿が鮮明に残っていた。
「最初から、こっちの方が少し育ちが悪かったよね」
「一組目より?」
「うん。四日前に見た時、葉の数はほとんど同じだったけど、こっちの方が上の節が少し詰まってた」
ルシアンは二組分の記録を見比べながら、少し考えるように目を細めた。
「生育不良の進み方そのものが違っていた可能性はあるな」
「戻る速さも違うかもしれない?」
レオも二組目の株へ目をやりながら問いかける。
「それはまだ分からないけど……あり得ると思う」
答えながらも、フローレンの視線は畝の上を動いていた。
同じ条件に近づけた。それでも結果は揃わない。
それなら、まだ見ていない違いがあるのかもしれない。
「そういえば」
レオがふと、近くで作業していた男性へ顔を向けた。
「ちょっと聞いてきてもいい?」
「何を?」
「この辺、水やりするときに何か違うことないのかなって」
言い終える頃には、もう男性の方へ歩き始めている。
フローレンとルシアンも顔を見合わせ、その後を追った。
男性は試験区画の水やりも何度か担当したという。
「作業自体は同じですよ」
尋ねられた男性は手を止め、少し考えてから答えた。
「量も決められた通りですし、特別なことはしていません」
「こちらの区画だけ、やりにくいところはありますか?」
レオがさらに尋ねると、男性は辺りの畝を見渡した。朝の作業を一つずつ思い返すように、しばらく黙り込む。
「そうですねえ。強いて言えば、東側なので朝は日が当たるのが少し早いですかね」
三人の視線が同時に畝の上へ向いた。
今は昼に近く、どちらの区画にも十分な光が落ちている。けれど、朝の景色は今ここから見えるものとは違うらしい。
「朝は違うんですか?」
フローレンが尋ねる。
「ええ。園の西側は建物と木の影が少し残りますから。こっちは朝から晴れていれば、早い時間でも結構明るいですよ」
「水をやる頃には、もう日が差しているんですか?」
「日が差している日もありますね」
「ありがとうございます」
レオが礼を言い、三人は作業の邪魔にならない場所まで少し離れた。
「また、書いてないやつだ」
レオが小さく笑う。フローレンも「……そうだね」とつられるように口元を緩めたが、今度はすぐに帳面へ飛びつかなかった。
「でも、それが原因って決めるのもまだ早いよね」
「うん。日が当たる時間が違うから二組目だけ変化しなかった、っていうのも今は想像だから」
「ああ。ただ、同じ『早い時間』でも、実際の環境まで完全に同じではないということは分かった」
ルシアンの視線を追うように、フローレンも二つの区画を見渡した。今は同じように陽を浴びている畝も、朝にはそれぞれ違う条件の中にある。
学院の授業なら、問題文に必要な条件は最初から書かれている。けれど、目の前の畑には書かれていない条件がいくらでもあった。
日が差す時刻も、風の通り方も、作業する人が感じる小さな違いも。それらをすべて最初から揃えることなどできない。
「……難しいなあ」
考えれば考えるほど条件が増えていくようで、フローレンは思わず息を漏らした。
「今さら?」
「今だからだよ」
からかうようなレオの声に笑い返しながらも、フローレンはもう一度二組の区画を見比べる。
一組目では、確かに改善らしい変化が見えた。二組目では、まだほとんど差がない。
どちらか一方だけを見ていたら、簡単に答えを決めてしまっていたかもしれない。
しばらく三人のやり取りを聞いていた責任者が、二組の区画を順に見渡した。
「どうする? このまま試験は続けるかい?」
問われても、フローレンはすぐには答えなかった。
一組目で見た、四日前より大きく開いていた新しい葉を思い返す。それから、目の前の二組目へもう一度視線を向けた。
変化がないように見える区画も、悪化しているわけではない。
フローレンは二組目から目を離し、責任者へ向き直った。
「もう少し見たいです。一組目は差が出始めています。でも二組目は、変わっていないのか、それともまだ変化が見えるほど時間が経っていないのか、今は分かりません」
「分かった。予定通り、一週間までは同じ条件で続けよう」
「お願いします」
話が決まると、フローレンはもう一度二組目の薬草へ目を向けた。一組目には小さな変化が出ているのに、こちらにはまだほとんど差がない。今はどちらかへ無理に揃えず、その違いをそのまま見ておけばいい。
「じゃあ、あと三日。次は両方とも変わってるといいね」
レオが指を三本立て、二組の区画を見比べる。期待はしているらしいが、結果を急かすような声音ではなかった。
「変わってなかったら?」
フローレンが聞くと、レオは少しも困った様子を見せなかった。
「その時は、その時でまた考える」
欲しかった結果が出なければ、そこからまた考えればいい。あまりにもあっさりした返事に、フローレンの肩からも少し力が抜けた。
「結果をこちらの期待に合わせるわけにはいかないからな」
ルシアンも穏やかに続け、手元の記録を閉じた。そこで話を終えるように、もう一度だけ二組目の畝へ視線をやる。
「うん」
フローレンは頷き、自分もその先へ目を向けた。畝を渡る風に、まだ大きさの揃わない若い葉がいくつも揺れている。
あと三日。その間に何が変わり、何が変わらないのか。今は急いで答えを作らず、それぞれの違いを見ていくことにした。




