89:比較実験
「では、明日から水やりを以前のように、朝の早い時間へ戻してみようか」
責任者の言葉に、フローレンは開いていた帳面から顔を上げた。
窓の外では、昼へ近づいた陽射しが薬草園を明るく照らしている。朝にはまだ長く伸びていた畝の影も、いつの間にかずいぶん短くなっていた。
「……あ、待ってください」
思わず声を上げる。
責任者が足を止め、ルシアンとレオも同時にフローレンを見た。
「どうした?」
「えっと……」
フローレンは一度、今年と前年の帳面へ目を落とした。
水やりの量も回数も同じだった。違っていたのは、記録されていなかった時間だけだ。
確かに、今まで見つけた中では一番大きな手掛かりに思える。
「まだ、それが原因だって決まったわけではないですよね」
責任者が僅かに目を見開いた。
フローレンは隣に座る二人へ視線を移す。
「……そうだよね?」
「ああ」
ルシアンがすぐに頷いた。
「水やりの時間が変わったことと、生育不良が今年起きていることは分かった。でも、今の段階では二つが同時に起きているだけだ」
「だよね」
言葉にしてもらうと、考えていたことがはっきりする。
レオも机へ片肘をつきながら、二冊の帳面を見比べた。
「早く戻して元気になったら、かなり怪しくはなるけどね」
「うん。でも、全部戻しちゃったら……」
フローレンはそこで言葉を止めた。
「何が効いたのか、かえって分からなくなるかもしれない」
責任者が続きを引き取るように呟いた。
「そうです」
フローレンは頷く。
原因かもしれないものを見つけたからといって、すぐにすべてを変えてしまえばいいわけではない。それで生育が戻れば、水やりの時間が関係していた可能性は高くなる。
けれど、その間に天候が変わるかもしれない。気温も日照も、薬草そのものの成長段階も少しずつ進んでいく。
反対に改善しなかったとしても、「時間は無関係だった」とすぐに切り捨てられるとは限らない。考え始めるほど、確かめたいことが増えていく。
「同じ条件のところを、二つに分けられないかな」
「二つ?」
レオが聞き返す。
「うん。同じ種類で、土も日当たりもできるだけ似てるところ」
机の上に広げた区画図を引き寄せる。今日歩いた場所を思い返しながら、指先でいくつかの区画を辿った。
「片方だけ、前みたいに早い時間に水をやるの。もう片方は、今まで通りの時間にする」
「水の量と回数は変えずに?」
ルシアンが尋ねた。
「そう。変えるのは時間だけ」
フローレンは頷く。
「それで何日か見て、育ち方に違いが出るか比べる」
ルシアンの視線が区画図へ落ちた。すぐには答えず、今年の栽培記録と図面を交互に見ている。
「やるなら、生育不良が出ているものの中から選んだ方がいいな」
「うん」
「同じ種類で、できれば植え付け時期も近いもの。土壌と日照も大きく違わない場所にする」
「肥料も揃えたい」
「もちろん」
フローレンが答えると、レオが少し笑った。
「増えてきたね、条件」
「だって、そこが違ったら水やりの時間だけ比べられないでしょ」
「分かってるよ」
レオは楽しそうに言いながら、区画図の端を自分の方へ引き寄せた。
「でもさ、条件だけならそれでいいとして」
指先が、薬草園の入口から管理小屋へ続く作業道をなぞる。
「実際に朝やる人はどうするの?」
フローレンが瞬きをする。
「人?」
「うん。今は見回りを先にする理由があるんでしょ?」
レオが責任者を見る。
「今年から朝の見回りを増やしたのは、必要があったからですよね?」
「ああ」
責任者は頷いた。
「冬の終わりに柵の傷みが何か所か見つかってね。それに、昨年は害虫の発見が少し遅れた区画もあった。そこで今年から、朝のうちに園内を一周して、葉や茎の状態も簡単に確認するようにしたんだ」
「それ自体をやめるのは難しいですか?」
「できれば続けたいね。早いうちに異常を見つけられたことも、もう何度かあるから」
「ですよね」
レオはあっさり頷いた。
フローレンは区画図へ落としていた視線を上げる。確かに、そこまで考えていなかった。
園全体の水やりをそのまま以前の時間へ戻そうとすれば、今年増やした見回りのやり方も変えなければならない。けれど、その変更にも理由があった。
ひとつの問題を確かめるために、別のところで役に立っている仕組みまで止めてしまうのは違う。
「朝の見回りって、皆さんで一緒に回るんですか?」
レオが尋ねた。
「いや、全員ではないよ」
責任者は少し考えながら答える。
「その日の担当から二人ほどだね。他の者は道具の準備や苗の確認をしている。ただ、見回りが終わってから水やりに合流する形に変えたから、全体として開始が遅くなったんだ」
「じゃあ……」
レオは図面から顔を上げた。
「試す区画だけなら、見回りをやめなくても先に水をやれませんか?」
責任者が僅かに眉を上げる。
「一部だけ、か」
「はい。園全体を昔のやり方に戻すんじゃなくて、試すところだけ」
レオは区画図の中ほどを指差した。
「このくらいの範囲なら、朝の準備をしてる人のうち一人が先に水をやっても、そんなに時間はかからないですよね?」
責任者はすぐには答えなかった。図面へ身を寄せ、レオの示した辺りをしばらく見ている。
「……そうだね。数区画程度なら、それほど負担にはならないと思う」
「だったら、その方が続けやすそう」
レオが言った。
「もし本当に時間が関係してたとしても、毎朝の見回りをなくさなきゃいけない方法だと、結局困るでしょうし」
「確かに」
責任者がゆっくり頷く。
フローレンは、レオと区画図を見比べた。
自分は、どうすれば水やりの時間だけを比べられるかを考えていた。ルシアンは、比較するなら何を揃えなければならないかを整理している。
レオが見ていたのは、その方法を実際に毎朝やる人たちの方だった。
同じ一つの問題を考えているのに、見ている場所が少しずつ違う。
責任者は区画図へ目を落としたまま、もう一度ゆっくり頷いた。
「それなら、試せそうだね」
フローレンも区画図へ視線を戻す。
「生育が悪くなっている区画の中から、条件の近い場所を選ばせていただいてもいいですか?」
「もちろん」
責任者は区画図を三人の中央へ寄せた。
「ただ、区画ごとに日当たりが少し違う。完全に同じ条件というのは難しいかもしれないね」
「それなら、一組だけじゃなくて何組か作った方がいいかな」
フローレンが言う。
「一組だけ違いが出ても、その場所だけの何かかもしれないから」
「ああ」
ルシアンが頷いた。
「ただし、広げすぎない方がいい」
「どうして?」
「まだ原因と決まっていないもののために、園全体の作業を変えるわけにはいかない。それに、もし早い時間の水やりが別の悪影響を与える可能性があるなら、試験する範囲は小さい方がいい」
「あ……そうか」
早い時間に水をやっていた昨年まで問題がなかったとはいえ、今年とまったく同じ条件ではない。試す側にも、何も危険がないと決めつけるわけにはいかなかった。
「では、二組くらい?」
「それくらいならいいと思う」
ルシアンは図面の上でいくつかの区画を見比べる。
「同じ種類で二組。各組の片方だけ早い時間に水をやって、もう片方は今まで通り。量と回数、肥料は変えない」
「見回りも今まで通り続ける」
レオが付け足す。
「うん」
フローレンは帳面を自分の方へ引き寄せた。
「あと、今度は時間も書いておきたい」
その言葉に、三人の視線が水やりの欄へ集まった。
昨日までなら、そこには量と回数があれば十分だった。けれど今は、その空白が妙に大きく見える。
「何時に水をやったか。それから、その日の天気と……」
「気温も残した方がいいな」
ルシアンが続ける。
「朝から晴れている日と曇っている日では、同じ時間でも条件が変わる」
「じゃあ、それも」
フローレンは空いている紙を取り、区画、水やりの時刻と量、その日の天候と気温を順に書き出していく。
そこまで書いて、一度ペンを止めた。
「生育は何を見よう」
「今まで差が出てたところじゃない?」
レオが答えた。
「葉の大きさとか、茎の伸び方とか」
「そうだね」
フローレンは今日見た二つの区画を思い返す。
「新しく出た葉の大きさ。茎がどれくらい伸びたか。それから……葉の張りも見たい」
「始める前の状態も残しておこう」
ルシアンが言った。
「今の茎の高さと葉の大きさを記録して、それが一週間でどれだけ変わったかを見た方がいい」
「あ、そっか。最初から少し差があるもんね」
「ああ。今の大きさだけを比べても、水やりを変えた後にどれだけ伸びたのかは分からない」
フローレンは頷き、記録する項目へ試験開始時の茎の高さと葉の大きさを書き加えた。
「毎日測るのか?」
「毎日全部は多いかな」
ルシアンに聞かれ、フローレンは少し考える。
変化を見逃したくない気持ちはある。けれど、調べることを増やしすぎれば、それだけ現場の負担になる。
「簡単な確認は毎日。きちんと比べるのは、何日かごと?」
「その方が現実的だな」
「見たものを、そのまま写し取って残せたら楽なんだけどね」
レオが何気なく言い、ふとフローレンを見る。
「……あれ。それ、フローレンならもうできるんじゃない?」
「頭の中にならね」
「それ、紙にまるまる写し出せないの?」
「無茶言わないで」
フローレンが笑うと、レオもつられるように笑った。張り詰めていた空気が、そこで少しだけほぐれたようだった。
責任者も目元を僅かに緩ませながら、三人が書き出した内容を覗き込む。
「数日で変化が見えるかは分からないけど、一週間ほどなら試せると思うよ。成長の早い種類を選べば、比較もしやすいだろう」
「一週間……」
フローレンは呟き、すぐに頷いた。
「お願いします」
「学院の授業もあるだろうし、毎朝こちらへ来るのは難しいよね?」
「……はい」
薬草園までは学院から馬車で半刻ほどかかる。毎朝の水やりに合わせて自分たちで確認へ来るとなれば、学院の授業との両立はできない。そこは、どう工夫しても変えられない条件だった。
「記録はこちらでつけよう」
責任者が言った。
「決めた区画と条件を教えてもらえれば、担当者にも共有する。皆には数日ごとに確認に来てもらう形でどうかな」
フローレンは一瞬、帳面へ視線を落とした。
自分で毎日見た方が、細かな変化まで拾えるかもしれない。記録だけでは残らないものがあると、ついさっき知ったばかりでもある。そう思うと、任せてしまうことに一瞬だけ迷いが生まれた。
けれど、何もかも自分で確かめる必要はない。
それは、これまで三人で何度も向き合ってきたことでもあった。
「はい。それでお願いします」
顔を上げて答える。
ルシアンが隣でほんの少しだけ目を細めた気がしたが、何も言わなかった。
「じゃあ、区画を選ぼう」
レオが図面を自分たちの中央へ戻す。
「条件が近くて、成長が早めの種類」
「今日見た中だと、この辺りかな」
フローレンが一つの区画を指差した。
「こっちにも同じ種類がある」
「日当たりはどうですか?」
「午前中はほとんど同じだよ」
責任者が教えてくれる。
「土も同じ配合だ。ただ、こちらの方が少しだけ東寄りだね」
「そのくらいなら候補にして、もう一組も別の場所に作ろう」
ルシアンが言う。
「二組とも同じ傾向が出れば、一組だけよりは判断しやすい」
そこからは、区画図と栽培記録を何度も往復した。
同じ種類でも植え付けの日が離れていれば外し、日照条件が大きく違えば別の場所を探す。生育不良の程度が極端に違うものも、今回の比較には向かない。
一つ条件を揃えるたび、別の違いが見つかる。完全に同じ場所など、当然どこにもない。
それでも、何を揃え、何を違いとして残すのかを三人で一つずつ決めていくと、ぼんやりしていた試験の形が少しずつ見えてきた。
「これならどうでしょう?」
最後に選んだ四区画を、フローレンが責任者へ示す。
二組のうち、それぞれ一方だけ水やりを早い時間へ戻し、もう一方は今年の時間帯を保つ。それ以外の条件は、できるだけ今まで通りにする。
責任者はしばらく図面と記録を見比べたあと、ゆっくり頷いた。
「分かった。この範囲なら、通常の作業にも大きな影響は出ないと思うよ」
その言葉に、フローレンの胸の奥が少しだけ軽くなる。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。原因が分からないまま手を尽くしていたところだから、試せることが一つ増えるのはありがたいよ」
責任者はそう言ってから、机に置かれた新しい記録用紙へ目を向けた。
「それに、今度は時間も残せるからね」
フローレンも、新しく作った記録用紙へ目を落とした。これまでの帳面にはなかった時刻の欄が、そこには加わっている。まだ、これから書き込まれる数字が何を意味するのかは分からない。
早い時間へ戻しても、何も変わらないかもしれない。まったく別の原因が、どこかに隠れている可能性もある。それでも今度は、ただ分からないまま探し続けるのではなく、一つの条件を変え、その違いが何を生むのか確かめることができる。
「じゃあ、一週間」
レオが言った。
「結果待ちだね」
「待つだけじゃないよ」
フローレンはすぐに返す。
「途中も見に来るから」
「うん。言うと思った」
レオが笑う。
ルシアンもわずかに口元を緩めた。
「授業を休まない範囲でな」
「分かってる」
答えながら、フローレンはもう一度記録用紙へ目を落とした。
水やりの量と回数に加えて、これからは時刻も記録に残る。昨日まで書かれていなかったものが、明日からは一つの情報として積み重なっていく。
それが答えへ繋がるかどうかは、まだ誰にも分からなかった。




