88:記録にないもの
管理小屋は、薬草園の中央から少し外れた場所に建っていた。
扉を開けると、外とは違う乾いた匂いが鼻先をくすぐる。壁際には棚が並び、紙束や帳面に混じって、乾燥させた薬草の標本がいくつも収められていた。小さな窓から入る光の中で、細かな埃がゆっくりと舞っている。
「これが今年の栽培記録だよ。それから、去年と一昨年の分も持ってこよう」
責任者は棚から厚い帳面を数冊取り出し、大きな机の上へ並べた。
「ありがとうございます」
フローレンは椅子へ腰を下ろし、最初の一冊を開く。
紙面には、区画ごとに植えられた薬草の種類や植え付けの日付、苗の仕入れ先が細かく記されていた。その隣には肥料や水やりについての欄があり、何か異常があれば備考へ書き足されるようになっている。
ここまで記録が残り、すでに調査も進められているなら、「何もしていない」などという状況とはほど遠い。むしろ、疑えるものの多くは一度確かめられているのだろう。
「まず、今日見た区画から合わせようか」
ルシアンが帳面を自分たちの間へ引き寄せる。
「正常だった区画と、生育が悪かった区画。同じ種類で比べた方がいい」
「うん」
フローレンは先ほど見た区画を思い浮かべながら、該当する頁を探した。
「あった。こっちが最初に見た方」
指先で一つの欄を示す。
「苗は同じ仕入れ先だね」
「植え付けも一日違いだったな」
ルシアンが隣の記録を確認する。
先ほど責任者が話していた通り、日付の差は一日だけだった。その一日が原因なら、同じ日に植えた別の区画でも似た生育不良が出ていていいはずだ。だが、そちらは問題なく育っている。
「じゃあ、苗そのものでも植え付けの日でもなさそう」
フローレンが呟くと、レオが向かい側から帳面を覗き込んだ。
「同じところから来た苗で、元気な場所もあるんだよね?」
「うん。さっき見た区画がそう」
「なら、仕入れ先だけで分けるのも難しいか」
苗の仕入れ先だけでは、生育の差を分けられない。
フローレンは次の欄へ目を移した。
「土は……こっちも同じ配合になってる」
「去年は?」
ルシアンに聞かれ、前年の帳面を開く。
現在の頁と同じ区画を探すより先に、そこに何が書かれていたかは頭に浮かんでいた。けれど、記憶だけで済ませず、もう一度紙面へ目を落とす。
「去年も同じ。土を入れ替えた記録はないね」
「一昨年も同じだよ」
責任者が別の帳面を開いて見せてくれた。
「この辺りは水はけも極端に悪くない。土壌については、生育が落ち始めた時に改めて調べてるよ」
「数値にも大きな差はなかったんですよね?」
「ああ。問題が出ていない区画とも比べたけど、原因になるほどの違いは見つからなかった」
ルシアンが小さく頷く。
土も外れる。
「肥料は?」
レオが今年の記録へ視線を移した。
フローレンも頁を戻る。
「種類は同じ。量も……こっちが一回分多い?」
「本当だ」
ルシアンが身を寄せた。一瞬、三人の視線が同じ数字へ集まる。
けれど責任者はすぐに首を振った。
「それは生育が悪くなった後だよ。様子を見て、少しだけ追肥したんだ」
「あ、そうなんですね」
フローレンは備考欄へ目を滑らせる。確かに、追肥の日付は生育不良が確認された後になっていた。
「原因じゃなくて、対処した記録なんですね」
「そういうことだね」
追肥も原因ではなく、生育が落ちた後の対処だった。
その後も、帳面を行き来しながら項目を確かめていく。日当たりや周囲の植栽、苗の仕入れ先。植え付けの時期や肥料の量、土の状態まで、一つずつ記録を追っていった。
一つずつ並べれば違いはいくつもあるのに、生育不良の区画だけに共通するものがない。
「ここは午前中に少し影ができるんですよね?」
レオが区画図を指差すと、責任者もそこへ目を落とした。
「そう。ただ、去年も同じだ。それに、今年問題が出ている場所の中には、一日を通してよく日が当たる区画もある」
「逆に、同じくらい影になるのに元気な区画もある……」
フローレンは今日見た景色を思い返した。
どれか一つが綺麗に揃えば分かりやすい。けれど実際には、条件が少しずつ重なり合っている。
日当たりの悪い場所に限らず、同じ苗でも育ち方は分かれている。土の条件にも、生育不良だけを切り分けるような共通点はなかった。
それなのに、育ち方には確かな差がある。
「水やりについてはどうでしょう?」
ルシアンが責任者へ尋ねる。
責任者は今年の帳面を開き、該当する頁を三人の方へ向けた。
「ここだね。生育不良が出てからは一時的に増減を試したけど、それ以前は例年と変えていない」
フローレンも欄を追う。
「一日一回。量も同じ……」
前年の記録を開く。そこにも、ほぼ同じ数字が並んでいた。
「問題が出ていない区画も同じですか?」
「基本的には同じだよ。ただ、種類によって必要量が違うから、その分は調整してる」
責任者が別の頁を示してくれる。
記録は細かかった。与えた量だけでなく、雨が続いた日にどうしたのか、乾燥が強かった日に水を増やしたのかまで、その都度備考欄へ短い記述が残っている。
水不足を疑わなかったわけではない。むしろ、すでにかなり丁寧に確かめられていた。
「量が少ない区画だけ悪いわけでもないね」
フローレンが言う。
「ああ。多すぎるとも考えにくい」
ルシアンは幾つかの記録を並べたまま、しばらく黙っていた。
「少なくとも、ここに書かれている条件だけでは、生育が悪い区画を一つのまとまりとして分けられない」
「うん」
フローレンも頷く。
正常な区画と比べれば、何か見つかるかもしれないと思った。実際、違いはいくつも見つかった。
けれど、そのどれもが途中で途切れてしまう。こちらに当てはまっても、別の生育不良区画には当てはまらない。反対に、同じ条件でも問題なく育っている場所がある。
窓の外から、作業道を行き交う人の声が聞こえてきた。風が入るたび、机の端に置かれた紙がかすかに持ち上がる。
「……難しいね」
フローレンが小さく息を吐いた。
「記録に間違いがあるとも思えないし」
「そこを疑うなら、今度は記録そのものを確かめる必要があるな」
ルシアンは開いた帳面を見ながら、少し考えるように続けた。
「ただ、何も根拠がない状態で全部やり直すのは効率が悪い」
「そうだよね」
項目を最初から調べ直せば、時間はいくらあっても足りない。
フローレンは開いた帳面へ目を落とした。数字も、日付も、書かれている内容も揃っている。
なのに、目の前で見た違いだけが説明できない。
「少し休憩にしようか」
責任者が声を掛けてくれた。
「去年より前の細かな作業記録もあるから、その間に持ってくるよ」
「お願いします」
ルシアンも軽く頭を下げる。
責任者が奥の棚へ向かい、フローレンも一度椅子の背へ身体を預けた。
「頭が数字だらけになってきた」
「まだ午前中だよ」
レオが笑う。
「レオは平気なの?」
「俺は途中から図ばっかり見てたから」
そう言って席を立つ。
「ちょっと外の空気吸ってくる」
「うん」
扉が開くと、明るい光が一瞬だけ室内へ差し込んだ。
レオの姿が外へ消え、フローレンはもう一度帳面へ視線を戻す。
前年と今年、正常な区画と生育の悪い区画を何度並べ直しても、やはり決定的なものはない。
「植え付け前の処理も同じだね」
フローレンが古い頁を指で辿る。
「ああ」
向かい側で、ルシアンも過去の記録を読み返していた。
「むしろ変えていないものの方が多い」
「だから分からないのかな」
「変わっていないなら、本来は去年と同じように育つはずだからな」
そのはずなのに、今年は違う。
紙の上では同じなのに、畑では同じになっていない。
フローレンがそのことを考えていると、外から笑い声が聞こえた。聞き覚えのあるレオの声だった。
窓越しに見ると、午前中に話していた年配の女性と並んで立っている。女性は作業用の籠を抱えたまま、何かを説明するように園の奥を指差していた。
レオが一度そちらを見て、また何かを尋ねる。特別に深刻な話をしている様子はなく、女性も時折笑いながら話している。
しばらくすると、女性は手を振って作業へ戻っていった。
レオはその場に残り、今聞いた話を確かめるように園の奥へ視線を向けていた。やがて何かに気づいたように小さく首を傾げると、管理小屋へ戻ってきた。
「ねえ」
「何かあった?」
フローレンが顔を上げる。
レオはすぐには答えず、机の上に開かれた帳面へ近づいた。いくつかの欄を見比べたあと、水やりの記録へ目を留めた。
「水の量じゃなくて……時間って見た?」
「時間?」
フローレンは瞬きをする。
「何時に水をやったか」
「あ……」
帳面へ目を戻す。
一日一回。
規定量。
雨天時は中止。
そこまではある。
けれど。
フローレンは頁の上から下まで視線を走らせた。次の頁も開き、さらに前年の帳面を引き寄せる。水やりについて書かれた箇所を続けて確かめても、探しているものは見当たらない。
「……書いてない」
ルシアンも水やりの記録を覗き込む。
「時刻の欄そのものがないな」
「うん」
レオは椅子へ戻りながら、外を親指で示した。
「さっき話してた人に、朝ってどんな順番で作業してるのか聞いてみたんだ」
午前中には「何か変わったことはないか」と尋ねた。その時には、特に思い当たることはないと言っていた女性だった。
「今年から、朝一番に園内の見回りをするようになったんだって。葉の状態とか、柵の周りとかを先に一通り確認してから、水やりに入るようになったらしい」
「去年は?」
「先に水をやってたって」
フローレンの指が、帳面の端で止まった。
水やりの回数も、量も変わっていない。だからこそ、それまで誰も作業の順番を「水やりの変更」として考えなかったのかもしれない。
「じゃあ……今年は、水をやる時間が遅くなったの?」
「少しね。毎日きっちり同じだけ遅いわけじゃないみたいだけど」
レオはそこまで言ってから、肩を竦めた。
「でも本人は、そんなの変わったうちに入らないと思ってたみたい。やってること自体は同じだから」
奥の棚から帳面を抱えて戻ってきた責任者が、その言葉を聞いて足を止めた。机へ近づきながら、水やりの記録へ視線を落とす。
「水やりの時間、か」
「はい」
レオは責任者へ向き直った。
「今年は、見回りを先にするようになったと伺いました」
「ああ……確かに」
責任者は少し考えてから、抱えていた帳面を机へ置いた。
「冬の終わり頃に、柵の傷みと害虫の早期発見を兼ねて、朝の点検を先にするよう変えたんだ。ただ、水やりの回数や量そのものは変えてない」
「時間については、記録していないんですね?」
ルシアンは水やりの欄へ目を落としたまま尋ねた。
「ああ。朝の作業の中でやるものだから、そこまで細かく残したことはなかった」
責任者の声に、言い訳めいた響きはなかった。毎朝行う作業の順番が少し変わっただけで、水やりそのものを減らしたわけではない。
病気が出たわけでも、水の量や肥料を変えたわけでもない。現場にとっては、わざわざ記録へ残すほどの変更ではなかったのだろう。
「でも……」
フローレンは今年と前年、二冊の帳面を並べた。
どちらにも同じように、水やりは一日一回と記されている。
「同じ一回でも、同じ条件とは限らないんだ」
朝早く水を与えるのか、日が少し高くなってからなのか。その違いは帳面の上には現れず、どちらも同じ「一日一回」になる。
「ただ、これだけで原因だとは言えない」
ルシアンが落ち着いた声で続けた。
「見回りを先にするようになったのは園全体だ。それなら、問題なく育っている区画があることも説明する必要がある」
「うん」
フローレンも頷く。
「種類によって違うかもしれないし、場所によって日が当たり始める時間も違う」
「水やりの順番も確認した方がよさそうだね」
レオは机に広げられた区画図へ目を戻した。
「どの区画が何時頃になるのか、そもそも毎日同じ順番なのかも」
まだ原因は分からない。
フローレンは、もう一度水やりの欄へ目を落とした。
量も回数も記録されている。雨の日にどうしたかまで、きちんと残っている。それなのに、その水が一日のうちのいつ与えられたのかだけは、どこにも書かれていなかった。
それが生育の差へ繋がっているのかは、これから確かめなければならない。
けれど、帳面の中だけを探していた時には見えなかったものが、ようやく一つ見つかった。
記録には残っていない、作業の時間という違いだった。




