87:「駄目だ」
「それは……そうだけど」
フローレンは一度言葉を切った。
落ちかけたのは事実だ。ルシアンが間に合わなければ、少なくとも無傷では済まなかったかもしれない。
それでも、素直に「分かった」と頷く気にはなれなかった。
「でも、私だって自分の目で直接確かめたかったの」
少しだけ強くなった声に、ルシアンの眉が僅かに動く。
「誰かに上の葉を見てもらって、どうだったか聞くこともできる。でも、自分で見た方が気づけることもあるでしょ?」
「それは分かっている」
「じゃあ――」
「だからといって、一人で危ないことをする必要はないだろう。僕たちを呼べばよかったじゃないか」
返事が早かった。
フローレンも思わず口を閉じる。
ルシアンは普段、相手の言葉を途中で遮ることなどほとんどない。けれど今は、フローレンが言い終えるのを待つより先に言葉を重ねてきた。
声にも、いつもより少しだけ硬さがある。
「自分で確かめようとするところは、君の長所だと思う」
一度そこで言葉を区切る。
「でも、それと危険を冒すことは別だ」
「危険なんて冒したつもりないよ」
「脚立が倒れかけたんだから、結果として危険だった」
「それは、土が沈むなんて分からなかったからで……」
「だからこそ、一人で登るべきじゃなかったんじゃないか?」
あまりにも正しい。
正しいからこそ、フローレンは少しむっとした。
「……ルシアン、こういう時すごく理屈っぽい」
「事実を話しているだけだ」
「それが理屈っぽいって言ってるの」
今度はルシアンが黙った。
少し離れた場所で、レオが二人を交互に見る。いつもなら、どちらかの言葉へ軽く何かを挟むところだった。
けれど今日は口を出さず、先ほどの脚立の足元へ視線を落としたまま静かにしている。責任者も、沈んだ地面を調べる作業へ戻っていた。
初夏の風が畝を渡り、薬草の葉を小さく鳴らす。普段なら心地よいはずのその音が、今のフローレンには妙に耳についた。
「私は、無理をしたかったわけじゃないよ」
先に口を開いたのはフローレンだった。
「ちゃんと脚立も揺らして確かめたし、危ないと思ってたら登ってない」
「ああ」
ルシアンも、先ほどより少し低く、短く答えた。
「それは見ていた」
「だったら……」
「でも、確認しても分からない危険はある」
また正論が返ってきた。
フローレンは唇を結ぶ。
「……そんなの、何もできなくなっちゃうよ」
「そこまで言っていない」
「高いところは全部任せろって言ったじゃない」
「君が落ちかけた直後だったからだ」
今度はルシアンの方が少し言葉に詰まった。
視線が、一度だけ先ほど沈んだ脚立の右脚へ落ちる。
「……あれを見て、もう一度一人で登っていいとは言えない」
その声に、さっきまでとは少し違うものが混じった。
責めているというより、本当に心配しているような声色だ。それに気づくと、フローレンの中にあった小さな意地も、少しだけ勢いを失った。
とはいえ、自分で見たいという気持ちまで消えたわけではない。
「じゃあ……」
フローレンは脚立へ目を向けた。元へ戻された右側の脚には、先ほど土へ沈んだ分だけ、濃い土の跡が残っている。
「誰かに下で支えてもらうなら、いい?」
「……」
「脚立を使う時は、一人で登らない」
ルシアンはすぐには答えず、フローレンの顔を見た。さっきまでより和らいだ表情に、少しだけ視線を留める。
「下で誰かに押さえてもらって、それから見る。それなら、さっきみたいにはなりにくいよね?」
「……そうだな」
少し考えてから、ルシアンが頷いた。
「それならいい」
ルシアンが頷くのを見て、フローレンも小さく息を吐いた。
「じゃあ、そうする」
「ああ」
それだけで、二人の間に張っていたものが少し緩んだ。
レオがそこで初めて口を開く。
「まとまった?」
「……うん」
「ああ」
二人の返事がほとんど同時に重なった。
レオは少しだけ笑ったものの、それ以上は何も言わなかった。
フローレンは先ほど自分が立っていた場所をもう一度見る。右側だけ深く沈んだ跡が、まだ土に残っていた。
「……さっきは、本当にありがとう。助けてくれて」
「いや」
ルシアンは、気にすることではないと言うように小さく首を振った。
「間に合ってよかった」
それだけだった。
けれど、いつもの柔らかな声音へ戻っていた。フローレンもようやく少し笑った。
「じゃあ……その。……もう一回、見てきてもいい?」
「もう一回?」
思わず聞き返したルシアンの横で、レオが吹き出す。
「早いね」
「だって、まだ上をちゃんと見てなくて……」
語尾を少し濁したフローレンへ、ルシアンはしばらく何とも言えない顔を向けていた。
やがて諦めたように小さく息を吐く。
「……分かった。場所を変えよう」
「うん!」
今度は三人で足元を確かめながら、脚立を少し離れた場所へ移した。
責任者にも地面の状態を見てもらい、表面だけでなく足元を何度か踏んで確かめる。四本の脚を置いたあと、ルシアンが上部を掴んで強めに揺らした。
今度は沈まない。
「ここなら大丈夫そうだ」
ルシアンが脚立の正面に立った。
「登っていいぞ」
「うん」
フローレンは一段目へ足を掛ける。
「……なんか、さっきより緊張する」
「それくらいでちょうどいい」
「ほら、またそういうこと言う」
振り返ると、ルシアンが一瞬だけ言葉に詰まった。
その顔がおかしくて、フローレンは少し笑う。さっきまでの険のある空気は、風に流されてすっかり消えていた。
二段目を越え、今度は三段目まで上がる。
ルシアンは脚立の左右を、両手でしっかり押さえていた。
「動かない?」
「ああ」
「本当に?」
「僕が押さえているから大丈夫だ」
「それなら安心だね」
素直に答え、フローレンは上部の葉へ向き直った。
先ほど途中までしか見られなかった株を、一枚ずつ確かめていく。
若い葉は下の葉より少し色が淡い。けれど虫食いはなく、病斑らしいものも見当たらなかった。
茎も先までしっかり伸び、節ごとに葉が開いている。少し離れた株も同じだった。
「やっぱり上もきれい」
フローレンが呟く。
「病気らしいものはない?」
「うん。葉の付き方も揃ってる」
ルシアンの声は下から小さく聞こえてくる。
フローレンはもう少し奥の葉へ目を凝らした。
今度は身体を乗り出さない。見える範囲だけを確かめ、それ以上は脚立そのものを動かすことにする。
「あ」
少し高い位置にある一株で、茎の分かれ方がよく見えた。
「ルシアン、見て!」
思わず声を上げる。
「ここの茎、下から見た時より――」
呼ばれたルシアンが反射的に顔を上げかけた。
けれど、途中でぴたりと動きを止める。
三段目に立つフローレンを、ルシアンは脚立のすぐ下から支えている。普段とは違い、まっすぐ前を向いた視線さえ彼女の腰より下へ向かう高さだった。
この位置からさらに顔を上げるのは、女性に対して礼儀上よろしくない。
「……ルシアン?」
途中まで説明していたフローレンが、不思議そうに首を傾げる。
ルシアンは視線を脚立の支柱へ戻した。
「そこから説明してくれ。僕は下を向いている」
「え?」
意味が分からず、フローレンは瞬きをする。
「でも、見た方が分かりやすいよ?」
「説明で分かる」
「そう?」
「ああ」
返事だけは妙にきっぱりしていた。
フローレンは少し不思議に思ったものの、すぐに茎へ視線を戻す。
「じゃあ、この株なんだけど。上の方まで節の間隔がほとんど同じなの。さっきの育ちが悪い区画は、上にいくほど少し詰まってたでしょ?」
「ああ」
「こっちは最後まで広がってる」
ルシアンは顔を上げないまま、フローレンの説明を追うようにわずかに頷いた。
「それなら、一時的に成長が止まったというより、成長期に入ってからずっと伸び方そのものに差が出ているのかもしれないな」
「私もそう思う」
「でも、何がそうさせたのかはまだ分からないね」
少し離れたところからレオも会話へ加わった。
「うん」
フローレンはもう一度、上部の葉を見渡す。
目立つのは、やはり育ち方そのものの違いだった。虫に食われているわけでもなく、病気らしい変色もない。
正常な区画では、下から上まで素直に伸びている。
「もう大丈夫」
確認を終え、フローレンは脚立を降り始めた。
「ゆっくりでいい」
「分かってる」
今度こそ慎重に一段ずつ下り、両足が地面へつく。ルシアンがようやく脚立から手を離した。
「ありがとう」
「ああ」
フローレンは満足して、もう一度上の株を見上げる。
「やっぱり自分で見てよかった」
「……そうだな」
先ほどとは違い、ルシアンも否定しなかった。
「ただし」
「ただし?」
声の調子が変わり、フローレンが振り向く。
ルシアンは妙に真面目な顔をしていた。
「次に脚立を使う時も、僕を呼んでくれ」
「うん。ちゃんと誰かに支えてもら――」
「いや」
返事が妙に早かった。
「え?」
「僕か、レオだ」
フローレンが瞬きをする。
「でも、近くに背の高い男子がいたら、その人にお願いすればいいんじゃない?」
「駄目だ」
「……駄目?」
今度はフローレンだけでなく、少し離れたところにいたレオまで振り返った。
ルシアンは一瞬黙った。自分でも、今の返事が少し強かったことには気づいたらしい。
「……僕か、レオだ。いいな?」
結局、言い直した内容はほとんど変わらなかった。
「う、うん……?」
理由はよく分からない。
けれど二人とも自分よりずっと背が高く、力もある。さっきのように何かあった時に支えてもらうなら、その方が確実なのかもしれない。
フローレンはそう考えて、ひとまず頷いた。
「分かった。二人のどっちかにする」
「ああ」
ようやくルシアンの表情が緩む。
レオは二人をしばらく眺めていたが、何かを言う代わりに小さく肩を竦めた。
ルシアンもそれ以上理由を説明することはなく、再び薬草へ目を向けた。
正常な区画を一通り見終える頃には、陽の位置も少し高くなっていた。
いくつかの種類を比べても、結果はよく似ていた。育ち方には明らかな差があるのに、病気や虫害など、それを生んだ理由らしい違いは見つからない。
「現物で見られるところは、だいたい回ったかな」
責任者が帳面を閉じる。
「はい。ありがとうございます」
ルシアンが答える。
「次は、記録を見せていただいてもいいですか?」
「もちろん。管理小屋へ行こう」
責任者が先に歩き始め、三人もその後を追った。
フローレンは歩きながら、今日見た区画を頭の中でもう一度並べていく。
育っている場所と、育っていない場所。違いは確かにある。
けれど今のところ、その差を生んだものはまだ見えていなかった。




