86:初めての喧嘩
案内されたのは、先ほどの区画から石畳を二本挟んだ先だった。
札に記された薬草の名は同じで、植え付けられた時期もほとんど変わらないという。けれど近づくにつれ、先ほど見た株との違いは遠目にも分かるようになった。
「こっちは大きいね」
レオが畝の手前で足を止める。
葉の色そのものに大きな違いはない。それでも一枚ごとの広がりが大きく、茎も先ほどの区画より明らかに高く伸びている。
フローレンはしゃがみ込み、一番手前の株へ顔を近づけた。
「さっきの区画だと、このくらいの位置までしか葉が広がってなかったよね」
「ああ。それに節の間も少し短かった」
ルシアンも隣へ腰を落とし、茎へ視線を沿わせる。
「こちらは上へ伸びながら、横にも葉が開いている」
「でも、色はほとんど同じ」
フローレンは葉の表面を眺めたあと、裏側へそっと指を添えた。
「厚さも……そんなに変わらないと思う」
「触っただけで分かるの?」
レオが横から覗き込む。
「大きく違えば分かるけど、これは自信ないかも」
素直に答え、フローレンは責任者へ振り返った。
「この区画の葉の厚さも測っていますか?」
「ああ。何株かは測ったよ。少し差はあるけど、異常と言えるほどじゃない」
「やっぱり」
フローレンはもう一度葉を見た。
明らかに違うのは大きさと伸び方。それ以外は、近くで見れば見るほど似ている。
「同じ苗だったんですか?」
ルシアンが尋ねる。
「仕入れ先は同じだよ。入ってきた苗をいくつかの区画に分けて植えてるから、どれがどの束だったかまでは残ってないけどね」
「植え付けた日も同じですか?」
「ここと、さっきのところは一日違いだったかな」
責任者が帳面を開き、記録を確かめる。
「こっちが四月十二日で、向こうが十三日だ」
「一日だけなら、それだけでこの差を説明するのは難しそうですね」
ルシアンが立ち上がる。
「そう思う。念のため同じ日に植えた区画も見たけど、そっちにも育ちの悪いところはあったからね」
また一つ、目立った違いになりそうなものが消える。
三人は区画の端から端までゆっくり歩き、株の様子を見比べていった。葉の大きさ。茎の長さ。節の間隔。株同士の間隔や、地面へ落ちる影の形。
すべてが完全に同じではない。植物なのだから、一株ごとの差は当然ある。
ただ、そのばらつきとは別に、育ちの悪い区画は全体が一段低い。
「こっちは、どの株もだいたい同じくらい育ってるね」
レオが何株かを順に眺めながら言う。
「向こうもそうだったよ」
フローレンは先ほどの光景を思い返すまでもなく答えた。
「一株だけ極端に小さいんじゃなくて、区画全体が少しずつ小さかった」
「それなら、特定の苗だけが悪かったっていうのも考えにくいか」
ルシアンが呟く。
「少なくとも、それだけでは説明できなさそうだな」
責任者も頷いた。
風が畝の上を渡り、目の前の葉が幾重にも揺れる。
よく育った区画と、そうでない区画。並べて見ることで違いははっきりしたのに、その理由はむしろ遠ざかったようにも感じられた。
「土はどうかな」
レオが足元へ目を向ける。
しゃがみ込んで指先で表面を軽く崩し、少し離れた場所でも同じように確かめた。
「こっちの方が柔らかい気もするけど……」
「昨日ここを耕したからだよ」
近くにいた作業員が教えてくれる。
「あ、そうなんですね。じゃあ今の状態だけでは比べられないですね」
「土の記録は管理小屋にあるよ」
責任者が言う。
「水分量も何度か測ってる。そこも大きな差は出なかった」
「分かりました。あとで見せてください」
レオは素直に手を払って立ち上がった。
その間にも、フローレンは少し先の畝へ移っていた。葉の縁を見て、茎の根元を確認する。
先ほどと同じ種類なのに、こちらでは茎の先まで勢いよく伸びていた。
「フローレン、どう?」
レオに呼ばれ、顔を上げる。
「見た目で分かるのは、やっぱり成長の量かな。こっちは葉も茎も大きい。でも病気っぽい違いは見つからない」
「僕も同じだ」
少し離れた場所から、ルシアンが答えた。
「葉の傷み方にも大きな差はない。こっちだけ虫が少ないということもなさそうだ」
フローレンは頷き、立ち上がる。
正常な区画と比べれば、何か違いが見えてくるかもしれないと思っていた。けれど、葉や茎、土の状態を一つずつ確かめても、育ち方以外に目立った差は見つからない。
「次の種類も見てみるかい?」
責任者に促され、三人はさらに奥の区画へ移動した。
今度の薬草は先ほどより背が高く、細い茎がいくつにも枝分かれしている。治療院では主に鎮痛薬の調合へ使われるもので、よく育つと人の背丈近くまで伸びるらしい。
正常な区画では、フローレンの頭より高くまで茎を伸ばした株がいくつも並んでいた。
「さっき見た方は、ここまで高くなかったよね」
フローレンが自分の肩のあたりへ手を当てる。
「うん。フローレンの肩より少し下くらいだった」
レオが答えた。
「上の方も同じような状態なんですか?」
フローレンが尋ねる。
「ああ。下の方だけ悪いわけじゃない。あっちは背が低いぶん、上まで見やすかったからね」
正常に育っているこちらは、茎の先がさらに高い。奥の株になるほど密に重なっていて、下からでは上部の葉の様子が見えにくかった。
フローレンは少し場所を変え、背伸びをする。
見えない。
さらに爪先立ちになってみるも、やはり一番上までは届かなかった。
「……見えない」
小さく零すと、すぐ近くにいたレオが笑う。
「そりゃそうでしょ」
「もう少しなのに」
「その『もう少し』、たぶん二十センチくらいあるよ」
「そんなにないよ」
むっとしながらもう一度背伸びをする。
その横を通りかかったルシアンが、上の葉へ視線を向けた。
「何を見たいんだ?」
「一番上の葉。下と同じように広がってるのか見たくて」
ルシアンはそのまま顔を上げた。
「僕には見えるが」
「……それは知ってる」
あっさり返され、フローレンが少しだけ口を尖らせる。レオが吹き出した。
「今のはちょっと自慢っぽかったよ、ルシアン」
「……? なぜそうなる」
「身長の話でそれ言うと、大体自慢になるんだよ」
「そんなつもりはなかったんだが……」
真面目に返すルシアンに、レオはますます楽しそうに笑った。
フローレンは二人のやり取りを横目に、区画の端へ目を向ける。そこには先ほど見かけた小さな脚立が立て掛けられていた。
「あれ、使ってもいいって仰ってましたよね?」
責任者へ確認すると、責任者は頷いた。
「ああ。上を見るなら持ってきていいよ。ただ、さっきも言ったけど土の上だ。足元だけはよく見てね」
「はい」
フローレンは脚立を運び、畝の間の比較的固そうな場所へ置いた。
四本の脚が地面へきちんと触れていることを確かめ、上部へ両手を掛けて軽く揺らしてみる。大きく傾く様子はなかった。
「大丈夫そう」
そう呟いて一段目へ足を掛け、続いて二段目へ上がる。
両足を揃えて立つと、さっきまで下からは隠れていた茎の先がちょうど目の高さまで近づいた。
「あ、見える」
フローレンの声が明るくなる。
上部の葉もよく広がっていた。下の葉より少し若く、色が淡いものの、形に目立った異常はない。
レオは少し離れた株を見ており、ルシアンは脚立から数歩離れたところで、責任者と先ほどの区画について話していた。
フローレンは一枚ずつ葉を目で追っていく。
そのうち、少し右奥にある一株の葉の重なり方が気になった。
「もう少しだけ……」
脚立の上で、右へ身体を乗り出す。
茎の付け根まで、あと少し。
右足へ体重を移した。
――その瞬間。
脚立の右側が、ぐ、と土へ沈んだ。
「え――」
足元が斜めに傾く。
身体もそのまま右へ流れ、フローレンは咄嗟に脚立の上部を掴んだ。右足が二段目から外れ、宙へ浮く。
左足だけが段に残った。
一度崩れた重心は、もう自分では戻せなかった。
「――フローレン!」
鋭い声がした。
次の瞬間、右へ倒れかけていた脚立が止まる。
駆け寄ったルシアンが、倒れかけた側へ身体を滑り込ませていた。左手で脚立の支柱を掴み、傾きを押し戻す。そのまま右腕をフローレンの腰の後ろへ回し、崩れた身体を受け止めた。
「び、びっくりした……」
左足はまだ二段目に残り、右足は行き場を失ったまま宙に浮いている。両手も脚立の上部を掴んだままで、それでも身体の重さの大半はルシアンの腕に支えられていた。
何が起きたのかを確かめるように、フローレンは何度か瞬きをした。
「大丈夫か。怪我は?」
すぐそばからルシアンの声がする。
「うん。ない……と思う」
「右足を一段目へ戻せるか?」
「うん」
ルシアンが脚立を押さえたままなのを確かめ、フローレンは宙に浮いていた右足を慎重に一段目へ下ろした。
それから左足も一段下げる。
最後はルシアンの腕に支えられたまま、ゆっくり地面へ両足をついた。
フローレンは腕や膝を確かめる。どこにも痛みはない。
「ルシアンは? 手、痛くない?」
「僕は大丈夫だ」
まだ右手をフローレンの腰へ添え、左手で脚立を押さえたまま、ルシアンが答える。
そこで初めて、フローレンは自分がすぐ近くで支えられていることに気づいた。
顔を上げれば、金色の髪が思っていたより近い。風に混じる薬草の青い匂いの中に、それとは少し違う、馴染みのある香りが淡く混じっていた。
けれど、その近さを意識するより先に、足元が傾いた瞬間の感覚が鮮明に蘇った。冷や汗がじんわりと首筋を湿らせ、脚立を握りしめていた指先が、微かに震えている。
「支えてくれてありがとう」
自分で立てることを確かめて身体を離すと、ルシアンも腰へ回していた腕を解いた。
「怪我がなくてよかった」
短く息を吐く。
いつも通りの穏やかな声だったが、その表情にはまだ硬さが残っていた。
レオもすぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「うん。ほんとにびっくりしただけ」
「足ひねってない?」
「大丈夫。どこも痛くないよ」
答えながら足首を動かしてみせると、レオもようやく安心したように息をついた。
責任者は沈んだ脚立の足元を確認している。
「悪かったね。ここ、表面は固そうに見えるけど、その下が少し柔らかかったみたいだ」
「私も、ちゃんと確認したつもりだったんですけど……」
「いや、こういうことがあるからね。怪我がなくて何よりだ」
「はい」
フローレンも改めて地面を見る。
右側の脚だけが、先ほどより数センチ深く土へ沈んでいた。上から体重がかかったことで、その下の柔らかな部分まで一気に落ち込んだらしい。
「次からはもっと気をつけます」
そう答えたところで、隣から声がした。
「……高いところの作業は、僕たちに任せればいい」
フローレンが顔を上げる。
ルシアンは傾いた脚立を元へ戻しながら、いつになく真剣な顔をしていた。
「でも、脚立があれば私にもできるよ」
何気なく返したつもりだった。
けれどルシアンは、すぐには頷かなかった。
「今、落ちかけただろう」
低く返された声に、フローレンも少しだけ眉を寄せる。
「それは……そうだけど」
さっきまでとは違う空気が、二人の間に落ちた。




