85:薬草園での実習
春も終わりに近づき、陽射しには少しずつ夏の気配が混じり始めていた。
学院から馬車で半刻ほど走った先にある薬草園は、市街地の外れからさらに緩やかな坂を上ったところにあった。
石造りの低い塀に囲まれた敷地の向こうには、大小さまざまな区画が幾何学模様のように並んでいる。葉の細いものや厚いもの、地面を這うように広がるもの。支柱へ蔓を絡ませたものもあれば、腰ほどまで伸びた茎の先に小さな花をつけているものもあった。
馬車を降りた途端、風に混じった青い匂いが鼻先を抜ける。
「すごい」
フローレンは思わず足を止めた。
学院の薬草学実習でも薬草園へ入ることはあるが、規模がまるで違う。視界の先まで続く畝には札が立てられ、遠くでは作業着姿の人々が籠を抱えて行き来していた。
「思ってたより広いね」
「学院と市の治療院にもここから供給しているらしいからな」
隣で辺りを見回していたレオに答え、ルシアンは教師から渡された資料へ軽く目を落とした。
「ほかにも近隣の施療所へ一部回している。種類もかなり多いみたいだ」
「これ全部管理するの、大変そう」
「大変だよ」
不意に声が重なり、三人が揃って振り向いた。
園の奥から歩いてきたのは、日に焼けた中年の男性だった。袖を肘まで捲り上げた作業着には所々土がつき、片手には薄い帳面を持っている。
「ようこそ。学院から来た生徒さんたちだね」
三人が挨拶をすると、男性も柔らかく笑って名乗った。園全体の管理を任されている責任者の一人らしい。
「今日はよろしくお願いします」
ルシアンが代表して頭を下げる。
「こちらこそ。若い人の目で見てもらえるのはありがたいよ。ただ、先に言っておくとね」
責任者は帳面の端で自分の肩を軽く叩いた。
「こっちも何もせず困ってるわけじゃない」
「もちろんです。これまで確認されたことから教えていただけますか」
言葉こそ軽かったが、責任者の笑いの奥には少し疲れが滲んでいた。ルシアンがすぐに返すと、責任者は満足そうに頷く。
三人を案内するように、責任者が敷地の奥へ歩き始めた。
細い石畳の両脇には、薬草の名札と区画番号が規則正しく並んでいる。歩くたびに香りが変わり、清涼感のある鋭い匂いの次には、どこか甘く湿った香りが漂った。
その先では土そのものの匂いが濃くなる。レオがわずかに鼻を皺めた。
「ここ、急に匂い強くなった」
「右の葉だと思う」
フローレンが一つの区画を指す。
「葉を擦るともっと強いよ。乾燥させると少し甘くなるけど」
「詳しいね」
「家で扱うことあるから」
何気なく答えながら歩いていると、前を行く責任者が振り返って笑った。
「商家のアストリアさんだったかな」
「はい」
「じゃあ、薬草を見る目はありそうだね。そりゃ心強い」
「売る方の知識が多いので、育てる方は勉強中です」
「そうか。自分がどこまで分かってるか、ちゃんと分かってるなら、なおさら心強いよ」
即座に返され、フローレンは少し目を丸くした。
横でレオが小さく笑う。
「もう気に入られてる」
「何もしてないよ」
「そういうとこじゃない?」
「どういうところ?」
聞き返しても、レオは楽しそうに肩を竦めるだけだった。
やがて責任者が足を止めた。
「問題が出ているのは、この先だ」
それまで整然と続いていた緑の中に、少しだけ様子の違う一角が見える。
一見しただけなら枯れているわけではない。葉は緑色を保っており、茎も立っている。
けれど、周囲と比べると明らかに勢いが弱かった。
「……小さい」
フローレンが呟く。
足元の札には薬草名と区画番号が記されている。同じ列に並ぶ株を目で追うと、葉の一枚一枚がやや小さく、茎も途中で伸び悩んだように低い。
隣の列も似たような状態だった。
「この一帯だけですか?」
レオが尋ねる。
「主にここ。それと、離れたところにもう二つ。全部同じ種類じゃないんだ」
「一種類だけの病気、という感じでもないんですね」
ルシアンがしゃがみ込み、葉へ顔を近づける。ただし触れる前に責任者へ視線を向けた。
「触れてもよろしいですか?」
「もちろん。葉を一枚取るくらいなら構わないよ」
許可を得て、ルシアンは葉の裏まで慎重に確かめた。フローレンもその隣に膝をつく。
近くで見ても、派手な異常はなかった。葉の縁が食われている様子もなく、変色した斑点や茎の根元の腐りも見当たらない。葉を裏返しても、小さな虫が群れているわけではなかった。
「虫害は確認されていますか?」
「一番最初に疑ったよ。葉の裏も根元も見たし、捕虫板も置いた。この区画だけ虫が増えている様子はない」
「病気については?」
「治療院の薬草担当にも見てもらった。今のところ、典型的な病害の兆候はなし」
そこから先も、答えは似ていた。
土壌の酸度や養分、排水には大きな偏りがなく、日照条件にも昨年との差はない。苗の仕入れ先や植え付けの時期も例年通りで、肥料の種類と量も変えていなかった。
「水不足の可能性も確認されていますか?」
今度はレオが足元の土を眺めながら尋ねた。
「散水量は毎日記録してる。雨の日を除けば、決めた量は入ってるよ」
「考えられるところは、かなり確認されているんですね」
「そりゃあね」
責任者は苦笑した。
「こいつらが育たないと、秋以降の供給に響く。治療院から必要量の見込みも来てるし、原因が分からないまま放っておくわけにはいかない」
少し離れたところでは、作業員が籠へ摘み取った葉を入れていた。
ここで育てられているものは、授業の教材ではない。誰かが熱を出した時に使うものもあれば、傷を洗う薬になるものもある。
乾燥させ、調合され、必要な場所へ運ばれていく。
フローレンはもう一度、目の前の小さな葉へ視線を落とした。
「昨年はいかがでしたか?」
「問題なかった」
責任者が答える。
「この区画も普通に育ってたよ」
「同じ種類を、昨年もここで育てていたんですか?」
「そう。輪作するものは別だけど、これは同じ区画を使ってる。もちろん土の手入れもしてるよ」
「今年だけ……」
小さく呟きながら、フローレンは札に書かれた番号へ目を留める。そのまま隣の株へ目を移すと、一株だけではなく区画全体が少しずつ小さい。
極端に悪いものが混じるのではなく、全体が同じように伸び切っていなかった。
「どれくらい差があるんですか?」
「種類によるけど、ここは平均で一割から二割くらい」
「収穫量が、ですか?」
「今の見込みだとね。まだ伸びる時期だから確定じゃないけど」
レオが辺りを見回した。
「一割ほどだと、見た目だけでは意外と分かりにくいんですね」
「一株だけ見せられたら、僕もすぐには分からないかもしれない」
ルシアンも頷く。
「病気で枯れているわけではありませんから」
「だから厄介なんだ」
責任者は短く息を吐いた。
「育ってはいる。ただ、いつもより育たない」
風が抜け、薬草の細い葉が一斉に揺れた。
枯れていないし、病気らしい痕跡もない。水も与えられ、土にも大きな問題はなく、日も当たっている。
それでも、去年と同じようには育っていなかった。原因がはっきり見えないからこそ、調べる範囲は広くなる。
「資料を見せていただけますか?」
ルシアンが尋ねた。
「もちろん。管理小屋に一通り揃えてある。ただ、その前に他の区画も見ていくかい?」
「お願いします」
三人は再び石畳を進んだ。
次に案内されたのは、最初の場所から少し離れた区画だった。
ここも同じように葉が小さい。ただし、先ほどとは種類が違う。こちらは茎が細く伸びる薬草で、本来ならもう少し高さが出ている時期らしい。
フローレンは札を読み、周囲の配置を確かめる。東側には低い生垣があり、南側は開けていた。
隣には別種の薬草が植えられている。
さらに先へ進むと、今度は木製の支柱や低い棚が並ぶ場所に出た。
背丈のある薬草や蔓性のものが植えられており、端には作業用の小さな脚立がいくつか立て掛けられている。
レオがその一つへ目をやる。
「高いところも確認されるんですか?」
「上の葉まで見る時に使うよ」
責任者が答えた。
「種類によっては一番上の葉の状態も見たいからね。今日は必要なら使って構わない。ただ、土の上は脚が沈むことがあるから気をつけて」
「分かりました」
フローレンは頷きながら、並ぶ支柱の高さを目で追った。
さらにいくつかの区画を見て回る。
状態の悪い場所には印が付けられており、責任者はその都度、いつ頃から変化に気づいたかを説明してくれた。
最初は春先だった。
芽吹きには問題がなかったものの、成長期へ入ってから少しずつ差が開いてきたらしい。
「急に悪くなったわけではないんですね」
フローレンが確認する。
「そう。毎日見てると、むしろ気づくのが遅れるくらいだった」
「少しずつだからですか?」
「そういうこと」
責任者が頷いた。
「ある日突然葉が黄色くなれば、すぐ分かる。でも毎日ほんの少しずつ差がつくとね。気づいた時には『去年より小さくないか?』ってなってた」
フローレンはその言葉を頭の中へ置く。
去年より小さい。同じ時期に、同じ場所で育てている。それでも、何かが違う。
市場実習で、混んでいる一角とそうでない場所を並べた時のことが浮かんだ。問題のある場所だけを見ていても、違いは分からない。
「ほかに何か、気になることはありませんか?」
レオが作業員へ声をかけた。
ちょうど近くで枯れ葉を取り除いていた年配の女性が、手を止めて振り向く。
「気になること?」
「はい。去年と何か違うな、とか。最近ちょっとやりにくくなったこととか、何でもいいんです」
責任者へ聞く時より少し柔らかな調子だった。
「面倒ねえ」
女性は手袋の指先についた土を軽く払う。
「今のところは、この育ちの悪さが一番面倒だね」
「やはり、そこですか」
レオは小さく頷いた。
「もし何か思い出されたら、教えていただけますか?」
「はいよ」
それ以上無理に聞かず、レオは軽く会釈して離れた。
ルシアンが横目で見る。
「もう聞き始めるのか」
「思いついた時に聞いとこうかなって。あとで忘れるかもしれないし」
「レオは忘れなさそうだけど」
フローレンが言う。
「俺だって忘れるよ」
「人が言ったことは結構覚えてるよね」
「全部じゃないよ」
「でも、『あの人あの時こう言ってた』ってよく覚えてる」
「フローレンに言われると、全然すごくない感じするなあ」
「そんなことないよ?」
本人は本気で否定しているらしい。
レオが笑い、ルシアンも小さく口元を緩めた。
調査とはいえ、ずっと難しい顔をして歩いているわけではない。
薬草園を吹き抜ける風は爽やかで、頭上には薄い雲がゆっくり流れている。足元では小さな白い花が揺れ、少し離れた区画からは土を返す鍬の音が一定の間隔で聞こえてきた。
その中を歩きながら、フローレンは見たものを一つずつ結びつけていく。
区画の番号や種類、葉の大きさ、茎の伸び。日当たりや周囲の配置に、その場で聞いた説明を重ねていった。
記録を見る前に、まず現物を見ておきたかった。
管理小屋が見えてきたところで、ふと足を止める。
「どうした?」
ルシアンが気づいた。
フローレンは振り返り、今通ってきた区画を見渡した。
「育ちが悪いところは、だいたい見せていただきましたよね?」
「そうだね」
責任者が答える。
「問題が出てるところは一通り」
「では……同じ種類で、きちんと育っている区画もありますか?」
責任者が一瞬だけ目を瞬く。
「あるよ」
「そちらも見せていただいていいですか?」
「もちろん。ただ、どうして?」
問い返され、フローレンは今見てきた薬草へもう一度視線をやった。
「育っていないところだけ見ても、何が違うのか分からない気がして」
「同じ種類なのに、きちんと育っているところがあるなら」
フローレンは責任者へ向き直った。
「そちらと比べたいです」
少しの間、責任者は黙っていた。
やがて表情を和らげ、持っていた帳面を閉じる。
「なるほど。じゃあ管理小屋は後にしよう。ちょうど向こうに、同じ時期に植えた区画がある」
「お願いします」
三人は再び歩き出した。
今度向かうのは、育っていない場所ではない。
同じ種類で、同じ季節を過ごしながら、きちんと育っている場所だった。




