84:静かな自習室
その日の授業がすべて終わる頃には、昼間から続いていた柔らかな陽射しが、少しずつ西へ傾き始めていた。
窓から差し込む光が机の端を長く照らし、帰り支度を始めた生徒たちの影を床へ落としている。教本を閉じる音や椅子を引く音が重なり、教室には一日の終わりらしい賑わいが広がっていた。
フローレンも机の上を片づけ、いつものように鞄へ教本を収めていく。
「アストリアさん」
呼ばれて顔を上げると、朝の休み時間に髪飾りを見せてくれた女子生徒が立っていた。その隣には、昔話の話題を出してくれた女子生徒もいる。
「このあと図書館行かない?」
「図書館?」
「うん。行きながら、さっき話してた髪飾りのお店のこと、もう少し聞きたいなって。それと、春物の布地が載ってる本が図書館にもあるって聞いたから見たくて」
「あ、それなら場所分かるよ」
フローレンの声が自然と弾む。
「服飾関係の本なら、たぶん二階の奥。商業資料の近くだと思う」
「やっぱり知ってる」
「前に何度か見たことあるだけだよ」
笑いながら答えてから、ふといつもの癖で斜め後ろへ目を向けた。ルシアンはすでに教本をまとめ終え、レオもその後ろで鞄を閉じている。普段なら、このあと二人と自習室へ向かう頃だった。
「私、今日ちょっと図書館行ってくるね」
何気なくそう告げると、レオがすぐに顔を上げた。
「うん、いってらっしゃい」
「二人は? 自習室行く?」
「うん。俺たちはいつも通り行くよね?」
レオが前の席へ問いかける。
「ああ、そのつもりだ」
「分かった。じゃあ、また明日」
「また明日」
「楽しんできて」
レオが軽く手を振る。フローレンも笑って手を振り返し、待っていた二人と一緒に教室を出ていった。
廊下へ消えていく三つの背中を、ルシアンは何とはなしに見送る。
「じゃ、俺たちも行こっか」
「ああ」
促されて立ち上がる。
教室を出たところで、ちょうどフローレンたちの楽しそうな声が階段の方から聞こえてきた。何の話をしているのかまでは分からない。
ルシアンはそちらへ一度だけ目を向け、そのままレオと並んでいつもの自習室へ向かった。
自習室は、今日も静かだった。
窓際のいつもの机には夕方の光が淡く落ち、開け放たれた窓から時折入る風が、机の上の紙を小さく揺らしている。
ルシアンはいつもの席に腰を下ろした。その斜め前で、レオも鞄を置く。
「今日は何やる?」
「午前の術式論を少し整理しておきたい。そのあと昨日の続きかな」
「了解」
ごく普通のやり取りをして、二人とも教本を開く。
いつもと同じ窓際で、同じ時間帯だった。教本と紙を広げ、必要なものを机へ並べる。その流れも変わらない。
ただ、三人で使うことの多い窓際の一角が、今日は妙に広く見えた。
正面――普段ならフローレンが使っている場所には、何も置かれていない。
ルシアンは術式の項目へ目を落とす。一行読んで、横の余白へ短く書き込む。そのまま次の行へ進みかけたところで、いつもなら視界の端にある髪の色も、教本をめくる小さな音もないことに気づいた。
「静かだね」
斜め前からレオの声がした。
ルシアンは教本から目を離さないまま、ペン先だけを一度止めた。
「自習室だからな」
「そういう意味じゃないんだけど」
何となく分かっている声音だった。
書きかけていた文字を最後まで記してから、ルシアンは小さく息をつく。
「今日は二人だからだろう」
「うん」
レオはそれ以上何も言わず、自分の教本へ戻った。ルシアンも再び前を向く。
朝の休み時間にも、フローレンはクラスメイトたちと楽しそうに話していた。特進へ移ってきたばかりの頃より、ずっと自然にこの教室へ馴染んでいる。
編入したばかりの頃は、新しい教室の流れを確かめるように周囲を見ることも多かった。今ではもう、誰かに声をかけられればそのまま笑って会話を続けている。
今日をきっかけに、これまでより話す相手も、一緒に過ごす時間も増えていくのかもしれない。
それは良いことだった。
ただ、今日は少し静かだ。
ルシアンはもう一度教本へ目を戻した。紙の上に並ぶ文字が、淡々と頭へ入ってくる。
そうしているうちに、窓の外では陽がさらに傾いていった。
同じ頃、図書館には夕方らしい静けさが降りていた。
ページをめくる音や、棚の間を歩く足音が時折重なる。その中で、三人は声を抑えながら目当ての本を探していた。
「あ、これかな」
フローレンは棚の背表紙を順に追っていた指を止め、大判の一冊を引き出した。
「春物の布地って言ってたの、これじゃない?」
「あ、本当に載ってる」
机の上へ広げると、春から初夏にかけて使われる布地や染色の見本が、地域ごとに細かく整理されていた。
「この青、かわいい」
「でもこれ、結構高くなかった?」
「産地が遠いからだと思う」
フローレンが欄外の記載を確認する。
「この時期だと、まだ輸送量が少ないんだよ。もう少しすると入ってくる量が増えるから、たぶん価格も少し下がると思う」
「やっぱりアストリアさんに聞くとすぐ分かる」
「本に書いてあることも多いよ」
「でも読むところが違うもん」
笑いながら言われ、フローレンもつられて笑った。
市場の店の話から、最近流行している色の話へ移り、そこから今度は寮で使っている香油の話になる。話題は一つのところへ留まらず、思いつくまま次々と広がっていった。
昼休みよりも時間に余裕があるぶん、話はさらにのんびりしている。
「アストリアさんって、こういう話好きなんだね」
ふと一人に言われ、フローレンは少し考えた。
「うん。好きだと思う」
家では当たり前のように目にしてきた品物の話も、友人とこうして話すと少し違って聞こえる。どこの店に何があり、どういう品が人気で、どの地域から運ばれてくるのか。知っていることを話すだけではなく、誰かが「これが好き」と言うのを聞くのも楽しかった。
「今度、一緒に見に行こうよ」
「ミレア通り?」
「うん。アストリアさんが言ってたお店」
「行きたい」
「あ、私も」
「じゃあ今度、みんなで休みの日に行く?」
自然に出た言葉に、フローレン自身が少しだけ嬉しくなる。また一つ、楽しみな予定が増えた。
それからしばらく本を眺めていたが、やがて一人が別の棚へ本を戻しに立ち上がった。
「ちょっと別の本も見てくる」
「私も行く」
二人が席を離れ、フローレンも返却する本を一冊抱えて立ち上がる。
指定された棚へ戻したあと、何気なく隣の棚へ目を向けた。そこには旅行記や地方誌が並んでいる。
一冊だけ、背表紙の文字が妙に気になった。
『北部旧街道沿いの旅と記録』
少し古びた装丁だった。
手に取って開いてみると、街道沿いの町や宿場についての簡単な記録と、その土地を訪れた旅人の手記が交互に収められている。ところどころに小さな街道図まで添えられていた。
「……面白そう」
思わず呟き、数ページめくる。
橋が流された年に旅人が遠回りした記録や、雪解けの時期だけ使われる脇道、今はもうなくなった小さな宿場の話まで載っている。
事実を記した資料なのに、読み進めていると一つの旅の物語のようにも見えた。
――これ、ルシアンに見せたい。
考えるより先に、そんな言葉が浮かんだ。
ルシアンが物語を読むのが好きだということはよく知っている。それに最近は、街道や輸送についての資料を興味深そうに読むことも増えている。
この本なら、そのどちらとしても楽しめそうだった。
少し遅れて、レオの顔も浮かぶ。
旅人の失敗談や土地ごとの変わった風習がいくつも載っている。レオなら、その辺りを面白がりそうだった。
「二人とも好きそう」
小さく呟いて、本を閉じる。
「アストリアさん、何見てるの?」
戻ってきた女子生徒が隣から覗き込んだ。
「昔の旅行記みたい」
「好きなの?」
「友達が好きそうだなって」
「さっきの二人?」
「うん」
何の気なしに頷く。
「ルシアンがこういう本、好きそうで。レオもたぶん面白がると思う」
「じゃあ借りてく?」
「そうしようかな」
フローレンは閉じた本を胸元へ抱え直した。最初に探していた布地の本とはまったく違う棚で、思いがけず見つけた一冊だった。
図書館へ誘われなければ、今日はここまで足を延ばしていなかったかもしれない。そう思うと、腕の中の本が少しだけ嬉しい巡り合わせに感じられた。
今日は知らなかった話をたくさん聞いた。一年生の頃のルシアンのことも、二年生の頃のレオのことも。それから、新しい店の話や、新しい本のことも。
窓の外では、夕方の光が木々の梢を淡く染めている。
フローレンは借りる本を腕に抱え、友人たちと一緒に貸出台へ向かった。
翌朝。
特進の教室には、まだ登校している生徒は少なかった。窓から入る朝の光が机の列を白く照らし、ところどころに空席が残っている。
廊下から届く足音もまだ疎らで、教室の中ではページをめくる音の方がよく聞こえた。
ルシアンは自分の席で、昨日の続きを読んでいた。
「ルシアン」
教室の入口から近づいてきた軽い足音とともに、聞き慣れた声が落ちる。
顔を上げると、フローレンが一冊の本を抱えて立っていた。
「おはよう」
「おはよう。どうした?」
「昨日、図書館で見つけたの」
そう言って、彼女は本を机の上へ置いた。
『北部旧街道沿いの旅と記録』
題名を見て、ルシアンが少し目を細める。
「街道の記録?」
「うん。でも資料だけじゃなくて、昔の旅人の日記みたいなのも一緒に載ってるの。道が使えなくなった時にどうしたとか、宿場で何があったとか」
フローレンは楽しそうにページを開き、昨日見つけた箇所を指で示した。
「これ、ルシアンに見せたかったの。好きそうだなって」
その言葉に、ページへ向いていたルシアンの視線が止まる。
「……僕に?」
「うん」
フローレンは当然のように頷いた。
「ルシアン、物語好きでしょ? それに最近、街道とか輸送の資料もよく見てるから。両方一緒になってるみたいで面白いかなって」
昨日の時間のどこかで、この本を見て自分を思い出したらしい。自分のいないところで見つけた本を、こうして持ってきてくれた。
それが、思っていたより嬉しかった。
「……ありがとう。見せてくれ」
自然と声が柔らかくなる。
「ほんと? よかった」
フローレンも嬉しそうに笑った。
「レオにも見せようと思ってるの。旅人の失敗談とか、絶対好きそうだから」
「たしかにそれは好きそうだな」
二人で同じページを覗き込んでいると、後ろから聞き慣れた声が落ちてくる。
「俺が何?」
振り返ると、ちょうど登校してきたレオが鞄を肩に掛けたまま立っていた。
「おはよう、レオ」
「おはよう。で、俺が何好きそうなの?」
「これ」
フローレンは開いていた本を少し持ち上げ、レオからも見えるように向きを変えた。
「昔の旅行記なんだけど、旅人が道を間違えた話とか、その土地の変わった風習とかも載ってるの」
「なにそれ、面白そう」
レオが二人の間から覗き込む。ちょうど開かれていたページには、古い街道図の脇に旅人の手記が細かな文字で記されていた。
「この人、うっかり地図を雨で駄目にしてる」
「それは困るね。どうしたの?」
「太陽と星の向きだけ見て進んだんだって」
「それで?」
「ちゃんと着いてる」
「急に有能」
「でも予定より二十八日遅い」
「全然駄目じゃん」
レオが楽しそうに笑う。
「いいね、読みたい」
予想通りの反応に、フローレンも嬉しそうに笑った。
レオは鞄を自分の席へ置きながらも、本の方へまだ視線を残している。
「ルシアン、それ読み終わったら俺にも貸して」
「ああ」
ルシアンは答えながら、早くも次のページへ指を掛けていた。
「もう普通に読み進めてるし」
「面白いからな」
さらりと返され、レオが小さく笑う。
「昨日、図書館どうだった?」
今度はフローレンへ顔を向けた。
「楽しかったよ。最初は春物の布地の本を見に行ったんだけど、途中から香油の話とか、お店の話とか色々してて」
思い出しただけで楽しくなるのか、フローレンの声が少し弾む。
「それで、今度みんなでミレア通りに行くことになったの」
「いいね。昨日話してた髪飾りのお店?」
「うん。ほかにも何軒か見たいって」
「楽しそうじゃん」
「うん、楽しみ」
フローレンは素直に頷いた。
「あと、その途中でこの本も見つけたし」
そう言って、ルシアンの手元へ目をやる。
ルシアンはそのまま旅行記を読み進めている。時折、街道図へ目を留めては本文へ戻り、また次のページをめくる。その様子を見れば、持ってきた甲斐があったことはフローレンにも十分分かった。
登校してくる生徒たちの声が少しずつ増え、朝の教室がいつもの賑わいを取り戻していく。
その中で、ルシアンの手元では、昨日まで知らなかった一冊の本のページが静かにめくられていた。




