100:友達だから
放課後になる頃には、窓から差し込む光もずいぶん低くなっていた。
西へ傾いた陽射しが廊下の床を斜めに横切り、長く伸びた窓枠の影をいくつも並べている。授業を終えた生徒たちの声はまだあちこちから聞こえていたものの、昼間ほどの賑わいはない。教室を離れるにつれて人影もまばらになり、遠くで閉まった扉の音が、長い廊下の奥から少し遅れて響いてきた。
三人で正面玄関へ向かう途中、レオが「あ」と小さく声を上げて足を止めた。
「あ、そうだ。俺、先生に頼まれてたもの取りに行かなきゃ」
「今から?」
「うん。昼に手伝った荷物の確認、帰る前に一回だけ来てって言われてたんだった」
思い出したように額へ手を当てたレオは、来た道をちらりと見やったあと、軽く肩をすくめて二人へ向き直った。
「先に帰ってていいよ。そんなにかからないと思うけど」
「ああ」
「分かった。また明日ね」
「うん。また明日」
軽く手を振り、レオは来た道を引き返していった。歩くたびに背中の三つ編みが小さく揺れ、やがて赤い髪も廊下の角へ消えていく。
そこまで見送ってから、ルシアンとフローレンは再び歩き出した。
二人きりになること自体は、別に珍しいことではない。図書館から寮へ戻る時も、授業の移動中も、レオが教師に呼ばれたり別の用事を済ませたりして、どちらか二人だけになることはこれまでにも何度もあった。
だから本来なら、わざわざ意識するほどのことではなかった。
けれど今日は、一日のあいだに起きた細かな出来事が、まだどこかに残っている。
開けられた窓の前を通り過ぎると、外から入り込んだ風がフローレンの髪を背中でふわりと持ち上げた。高く結われた髪は朝よりわずかに緩んでいるものの、形はまだ綺麗に保たれている。簪から垂れた小さな硝子石も、揺れるたびに夕方の光を拾って淡く瞬いた。
朝から何度も目に入ったそれも、もうすぐ見納めになる。
「……今日、なんか変だったね」
不意に、フローレンが言った。
ルシアンは隣へ目を向ける。
フローレンは前を向いたまま歩いていた。深刻そうな様子はなく、ただ一日を振り返って、ふと口から零れたらしい。けれど、その言葉を聞いた途端、朝からの出来事が順番に思い起こされた。
「……そうだな」
否定できる材料はなかった。
朝から何度も同じ髪型へ目が向いたこと。図書館では、一冊の本を読むだけなのに互いの距離を妙に意識したこと。午後の実習では、普段なら考えずにできる動作が何度も噛み合わなかった。
そしてつい先ほどは、許可を取るより先に手が伸びた。
どれも一つひとつなら、たいしたことではないはずだった。けれど今日という一日の中へ並べてみると、偶然だけで片づけるには少し数が多いようにも思える。
「なんで変だったんだろう」
フローレンが首を傾げる。
束ねられた髪が肩の後ろで揺れ、少し遅れて簪の飾りがしゃらりと鳴った。その涼やかな音が、二人の足音のあいだへ小さく落ちる。
ルシアンも考えてみる。
昼休みには、寒さのせいだと思った。実習のあとには、体調が悪いのではないかとも考えた。
けれど今のフローレンの顔色は悪くないし、声にも歩き方にも普段と変わったところはない。隣を歩く足取りも軽く、少なくとも見る限りでは具合が悪いようには思えなかった。
ルシアンは口元を緩め、少し茶化すような響きを声に乗せた。
「やっぱり、熱があるんじゃないのか」
「ええ?」
フローレンがぱっとこちらを向いた。
「絶対ないよ。朝から元気だったし」
少し抗議するように眉を寄せたものの、その表情はすぐに崩れた。口元には呆れたような笑みまで浮かんでいる。
ルシアンも、さすがに半分ほどは冗談のつもりだった。軽めの響きを声に残したまま、言葉を続ける。
「君が言う、体調面での『大丈夫』は信用できないからな」
「……あのときのことは、そろそろ忘れてくれてもいいのに」
「君ほどではないが、僕も覚えておくのは得意な方だ」
ルシアンが小さく笑うと、フローレンもふっと笑った。声も表情もいつもの調子で、どうやら本当に体調が悪いわけではなさそうだ。
それだけは確かめられた気がして、ルシアンもようやく少し肩の力を抜いた。
そのまま数歩歩いたところで、今度は何か思いついたようにフローレンがこちらを見上げた。
「――むしろ、ルシアンのほうが熱ある……とか?」
「僕が?」
「うん。今日ちょっと変だったの、ルシアンもだよ」
思いがけず返されて、ルシアンは一度瞬いた。
そんなふうに考えたことはなかった。
自分では体調が悪い感覚などまるでない。身体が重いわけでもなければ、頭痛や寒気があるわけでもない。授業中も普段通りだったし、魔力を扱った際にも違和感はなかった。
それでも念のため、片手を上げて自分の額へ触れてみる。
熱いとは感じない。
その様子を見ていたフローレンは、ルシアンの額へ添えられた手をしばらく眺めていた。やがて何か思いついたように、小さく首を傾げる。
「でも、自分の手じゃ分からないんじゃない? 前にルシアンが言ってたよ。自分の手も同じくらい温かいからって」
言われた途端、以前のやり取りがすぐに蘇った。
フローレンが熱を出して、三人で医務室へ行ったとき。自分で触っても分からないと言う彼女へ、確かにそんな説明をした覚えがある。
「……それもそうか」
言われてみればもっともだった。
ルシアンは額へ当てていた手をゆっくりと下ろし、自分の指先へ一度目を落とす。
そうなると、熱があるかどうかを知るには、別の誰かに確認してもらうのが一番早い。
そこまで考えたところで、自然と隣へ意識が向いた。どうやらフローレンも、同じところまで思い至ったらしい。
「それなら――」
「じゃあ――」
声が重なった。
けれど、二人ともその先を続けられない。
足まで同時に止まったせいで、それまで一定に重なっていた靴音がふっと途切れた。夕方の廊下には、少し離れたところから別の生徒たちの話し声が流れてくる。
開け放たれた窓から風が入り、窓辺に落ちていた淡い光がゆらりと揺れた。
ルシアンはフローレンを見る。
フローレンも、こちらを見上げていた。
何を言おうとしていたのかは、尋ねるまでもなかった。
自分の手では分かりづらいのなら、今ここで確かめるには、誰かに触れてもらうのが一番早い。そこまでは、考えるほどのことでもないほど単純だった。
なのに、その続きを口にするだけのことが、なぜか少し難しい。
フローレンの視線がわずかに揺れた。少し下へ落ちたかと思えば、またすぐにルシアンの顔へ戻ってくる。
「……ほら、友達だから、その」
小さく言ったあと、フローレンは一度だけ唇を結んだ。それから、少し言い足すように続ける。
「だから、えっと……その、心配だし」
「……ああ」
それだけ答える。
親しい友人の体調を心配して、熱があるか確かめる。何もおかしなことはない。
先ほど、自分がしようとしたことと同じだ。
それなのに、ルシアンはなぜかすぐには動けなかった。フローレンも手を上げず、ほんの一歩ほど離れた場所でこちらを見上げている。
短い沈黙の中で、先に動いたのはルシアンだった。
ほんの少しだけ上体を屈める。
二十センチ以上の身長差があるぶん、そのままではフローレンの手が届きにくい。ただそれだけの理由で、少し顔を近づけた。
思いのほか、距離が縮まる。
目の前にあるフローライトのような瞳が、ほんのわずかに大きくなった。そこへ浮かんだ驚きはすぐには消えず、揺れた視線が一度だけルシアンの目元を辿る。
やがて長い睫毛がわずかに伏せられた。またこちらを見上げた瞳の奥で何かが揺らめいたようだったが、そこに何があったのかまでは、ルシアンには分からなかった。
フローレンは何も言わず、そっと右手を上げる。
その手が視界の端からゆっくりと近づいてくるのが見えた。
今日一日、何度も目にした手だった。机の下へ落ちたペンを拾おうとして伸びた手。記録用紙へ伸びた手。硝子管を受け取ろうとした手。
そのたび、触れそうになっては離れた。
けれど今度は違う。
その指先は、まっすぐ自分へ向かってくる。
ルシアンは動かなかった。
フローレンの指先が、額へ近づく。
あと少し。
窓の外で、風に揺れた葉がさらりと擦れた。どこか遠くで生徒の笑い声が上がり、その余韻が高い天井へ薄く広がっていく。
それらの音が、一瞬だけ遠くなる。
目の前にあるフローレンの顔と、額へ近づいてくる指先だけが妙にはっきりと見えた。
「……」
――触れた。
ほんの一瞬だった。
前髪の隙間から覗く額へ、フローレンの指先がそっと触れる。冷たいわけでも、熱いわけでもない。ただ、自分のものではない温度だけが、そこへ小さく置かれた。触れた場所だけが、周りよりわずかに鮮明になったように感じる。
本当に熱を確かめるつもりなら、もう少し長く触れている必要があったはずだ。けれど、そう思うより早く指先は離れた。意識が追いついた頃には、もうその温度だけが額に残っていた。
「……ないです、熱」
思いがけず丁寧な言葉が返ってきた。
ルシアンは一度瞬く。
「……そうか」
少し間を置いてから、
「その、……確認ありがとう」
と答えた。
どう考えても、今の一瞬だけで正確に熱を確かめられたとは思えない。気づいたときには、もう離れていた。
けれどフローレンはもう一度触れようとはしなかったし、ルシアンもそれを指摘する気にはならなかった。むしろ、もう一度やり直そうと言う方が、なぜか今より難しいように思えた。
二人はそのまま、どちらからともなく前を向く。
再び並んで歩き始めたものの、すぐには言葉が出なかった。
普段なら、二人きりになったところで話題に困ることはほとんどない。授業のことでも、本のことでも、今日あった些細な出来事でも、どちらかが何かを口にすれば自然と会話は続いていく。
けれど今は、二人分の足音だけがしばらく廊下へ重なった。
窓の外から差す夕方の光が、一歩進むたびに二人の影を長く伸ばしていく。すぐ隣では簪から垂れた硝子石も歩く振動に合わせて揺れ、時折、小さな光を床へ落としていた。
額にはもう、何かが触れているわけではない。
それでも先ほどの指先の温度だけが、妙にはっきりと残っていた。
「……あ、そういえば」
しばらくして、フローレンが唐突に声を上げた。
ルシアンが隣を見ると、彼女は少し早口になって続ける。
「今日の課題なんだけど、最後のところって明日までで合ってたよね?」
「ああ。三問目までだったはずだ」
「よかった。四問目もやるのかと思ってた」
「そこは次の授業で扱うと言っていた」
「そっか。そこ、聞き逃してた」
そこで一度、会話が途切れる。
けれど今度の沈黙は、先ほどまでのものとは少し違った。ひとつ声を交わしただけで、それまで二人の間に張っていたものが、ほんの少しだけ緩んだように感じる。
「じゃあ、今日帰ったら先に魔法史やろうかな」
「その方がいいかもしれないな。明日の提出はそちらが先だ」
「うん。ルシアンは?」
「僕も同じ順番にするつもりだ」
ひとつ言葉を交わせば、その次はもう自然に続いた。
課題の話から今日の授業へ。そこから、図書館で見つけた本の話へ。
いつものように言葉を重ねていくうちに、さっきまで二人の間へ薄く張っていたものも、少しずつほどけていった。完全に忘れたわけではない。それでも互いの声を聞いているうちに、並んで歩く距離はいつものものへ戻っていく。
やがて寮へ向かう道の分かれ目へ着いた。
学院の建物を出る頃には、空の色も少しずつ夕方へ傾いている。淡い青の下へ薄い橙が混じり、石畳の上には校舎の影が長く伸びていた。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
フローレンが小さく手を振り、女子寮の方へ歩いていく。
高く結ばれた長い髪が、夕暮れの中で何度か揺れた。朝からずっと目に留まっていた簪から垂れた硝子石が最後に一度だけ光を返し、その姿は少しずつ道の向こうへ遠ざかっていった。
ルシアンも自分の寮へ向かって歩き出す。
今日一日、何度も目に留まった髪型も、明日にはいつもの姿へ戻っているのだろう。
そう思ったところで、何気なく額へ手をやる。
指先が触れたのは、当然、自分の体温だけだった。
けれどほんの一瞬、そこへ触れていた別の温度を思い出す。
触れられた時間そのものは、熱を確かめるには短すぎるほどだった。それなのに、その一瞬だけが妙に鮮明に残っている。
ルシアンは少しだけ足を緩めた。
やがて何もせずに手を下ろし、再び歩き出す。
秋の夕暮れは、もうずいぶん近くまで来ていた。




