82:気になる
大きな箱を抱えたレオと、地図筒を片腕にまとめたルシアンは、そのまま教卓の前まで進んだ。
「先生、これで全部?」
「ああ。助かった。そこへ置いてくれ」
箱を教卓の脇へ下ろし、地図筒も指定された場所へ収める。ようやく両手が空いたレオは肩を軽く回しながら、教室の奥へ目を向けた。
フローレンの机の周りには、先ほどよりさらに人が増えていた。一人の女子生徒が髪に留めた飾りを見せ、それを覗き込んだ別の女子が何かを尋ねる。フローレンが答えると、すぐに周囲から明るい笑い声が上がった。
「なんかまたフローレン先生してるね」
「そうだな。楽しそうで何よりだ」
ルシアンも自然に答えた。
編入したばかりの頃には、授業の進み方や特進独特の会話を確かめるように、フローレンが周囲をよく見ていることがあった。
けれど今では、輪の中央で笑う姿も、ずっと前からそこにいたかのように馴染んで見える。
そのことが、素直に嬉しい。
そんなことを考えながら眺めていると、レオがふと口を開いた。
「楽しそうに喋ってる女の子たちって可愛いね」
「…………」
返事が止まった。
そこで「そうだな」と頷くと、自分まであの輪の女子生徒たち全員を可愛いと思っていたように聞こえる。それは少し違う気がした。
かといって、「そんなことはない」と返すのも違う。あの中にはフローレンもいる。
それに、レオがそう思っているものを、わざわざ否定する必要もない。
ならば、自分が実際に思ったことを答えればいい。
楽しそうに笑っているフローレンは随分――。
そこまで考えて、ルシアンはまた止まった。
レオはフローレンだけの話をしているわけではない。
考えているうちに、妙な間が空いた。
「…………」
「え、ここそんなに長考するところ?」
レオが横から顔を覗き込む。
「……まあ」
「ん?」
「楽しそうな姿は、悪くない」
「ふうん」
逡巡の末ようやく出した答えに、レオはそれ以上何も言わなかった。ただ、琥珀色の目が一度だけフローレンへ向き、それからルシアンへ戻ってくる。
「……何だ」
「何でもないよ」
いつも通りの笑顔で返され、ルシアンはわずかに眉を寄せたものの、それ以上追及せず自分の席へ戻った。
休み時間は、まだ続いていた。
ルシアンが読みかけの本を開くと、すぐ後ろから椅子を引く音が聞こえた。レオも席へ戻ったらしい。
フローレンは斜め前にいる。何人もの声が重なる雑談は自然と耳へ届いていたが、その一つひとつを追っているわけではない。店の名前や笑い声が、時折ほかの教室のざわめきから浮かび上がる程度だった。
「じゃあ今度、みんなで見に行かない?」
「行きたい。髪飾りも見たいな」
「アストリアさんが言ってたお菓子のお店も寄ろうよ」
「全部行ったら時間足りなくない?」
「じゃあ二回に分ける?」
どうやら買い物の予定まで立ち始めているらしい。
ルシアンは本へ視線を落としたまま、わずかに口元を緩めた。
楽しそうなら、それでいい。
ページの上では、古い街道の整備についての記述が続いていた。しばらく読み進めていると、女子生徒たちとは少し違う声が会話へ混ざる。
「何の話してんの?」
「春物を見に行こうって話。アストリアさんがいろいろ詳しくて」
「へえ」
「店だけじゃないよ。布の長さあたりの単価まで分かる」
「それはもう買い物っていうより仕入れじゃない?」
「そこまでじゃないよ」
フローレンの笑い声が聞こえた。
「でも、お菓子のお店ならいくつか知ってる」
「あ、それは気になる」
さらに別の男子生徒も加わったらしい。
「甘いもの好きなの?」
「俺じゃなくて妹。今度帰る時に何か買っていこうと思ってて」
「妹さん、いくつ?」
「十二」
「それなら、焼き菓子より小さい砂糖菓子の方が喜ぶかも。箱も可愛いお店があるよ」
「どの辺?」
「中央広場から――」
フローレンはすぐに道順を説明し始めた。少し前まで布や髪飾りの話をしていたのに、今度は贈り物の相談へ自然に切り替わっている。
「助かる。そこ行ってみる」
「うん。たぶん喜ぶと思う」
「じゃあ俺も聞いていい?」
「なに?」
もう一人の男子生徒が続く。
「今度、母の誕生日なんだけど。こういうの全然分かんなくて」
「何か欲しいって言ってなかった?」
「言ってない」
「普段使ってるものは?」
「……それも分からない」
「それだと、先に家で少し見てきた方がいいかも」
くすりと笑う声が聞こえる。
「何も分からないまま私が選んだら、お母さまじゃなくて私の好みになっちゃうから」
「そっか」
「でも、好きな色とか、いつも使ってる香りくらいなら分かるでしょ?」
「色なら、たぶん」
「じゃあそこから考えよう」
「優しいなあ、アストリアさん」
「え?」
「いや、もっと『これ買えばいいよ』って言われるかと思った」
「だって、お母さまへの贈り物なら、あなたが選んだ方が嬉しいと思うよ。私はお店を探すくらいなら手伝えるけど」
さらりと答えたフローレンに、周囲から「確かに」と同意する声が重なる。
「じゃあ明日までに調べてくる」
「うん。分かったら教えて」
話しかけているのは、同じクラスの生徒だ。
特進へ移ると決めた時には、それまでいた第二クラスとは環境が大きく変わることも少し気にしている様子だった。けれど今の様子を見れば、その心配はもうほとんど必要ないのだろう。
友人が増え、誰とでも気軽に話せるようになるのは良いことだ。
そう結論づけて、ルシアンは改めて本へ目を落とした。
街道の幅員。
荷車の通行量。
沿道の集落――。
数行を追ったところで、斜め前からひときわ楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「それ、本当?」
「ほんと。兄が母の誕生日を当日に思い出して、お店の人に全部選んでもらったことがあって」
「どうなったの?」
「渡した瞬間に『これ、あなたが選んだんじゃないでしょう』ってバレてた」
周囲の笑い声に混じって、フローレンも頬を緩めている。
ルシアンの視線が、ほんの一瞬だけそちらへ逸れた。
机の周りには女子生徒だけでなく、男子生徒も二人ほど加わっている。一人が何かを言えばフローレンが答え、その返事からまた別の話が始まる。
随分と打ち解けている。いいことだ。
もう一度そう思って、本へ視線を戻した。
街道の幅員。
荷車の通行量。
沿道の集落――。
そこまで追ったところで、ルシアンはわずかに眉を寄せた。
さっきも、ここを読まなかったか。
「……」
どうやら思っていたより、集中できていないらしい。
その時、すぐ後ろから小さな気配を感じた。振り返らなくても、レオがこちらを見ているような気がする。
「何だ?」
本から顔を上げないまま尋ねる。
「別に」
「なら、こっちを見るな」
「見てないよ」
「視線を感じる」
「気のせいじゃない?」
後ろから返ってくる声には、隠しきれない笑いが滲んでいた。
ルシアンは振り返ろうとして、やめた。相手にすれば余計に喜ぶだけだろう。
今度こそ本へ意識を戻そうと、ページへ視線を落とす。その間にも、斜め前の会話は続いていた。
「そういえば、アストリアさんって市場実習でもそんな感じだったの?」
女子生徒の声が聞こえる。
「そんな感じ?」
「お店の人と話したり、色々調べたり。すごく慣れてそう」
「私は記録を見てることが多かったかな。お店の人に話を聞くのは――」
教室のあちこちで椅子を動かす音が重なり、別の席からも笑い声が上がる。
市場実習の話へ移ったらしい、ということだけは分かった。けれど、自分に向けられた会話でもない。ルシアンはそのまま本の続きを追った。
しばらくして、
「ルシアン、レオ」
今度ははっきりと名前を呼ばれた。
ルシアンが顔を上げる。
フローレンがこちらを見ていた。先ほどまで周囲の生徒へ向けていた笑顔のまま、二人へ向かって小さく手を振った。
すぐ後ろからレオが身を乗り出した。
「え、なーに?」
「今いい? ちょっと来てほしいの」
フローレンが手招きした。
レオはためらいなく席を立った。
「呼ばれてるよ、ルシアン」
「聞こえている」
ルシアンも本へ栞を挟み、椅子を引く。
さっきまで同じ一節を二度読んでいたことは、その時にはもう頭から抜けていた。




