81:市場実習の成果
市場街での実習から、数日が経った。
朝の授業が一つ終わり、教室の空気が休み時間へ緩み始めた頃だった。
「市場街から報告が来ている」
教卓の上で資料を揃えていた教師の一言に、教室のあちこちから顔が上がる。フローレンも、閉じかけていたノートから視線を上げた。
「先日の実習で各班が集めた情報をもとに、市場側でいくつか改善を試しているそうだ」
ざわつきが少しだけ大きくなった。
市場街で調べていたのは、フローレンたちの班だけではない。店側の困りごとを中心に聞いた班もあれば、荷下ろし場の使われ方や人の通り方を調べていた班もあった。それぞれが持ち帰った記録や提案は、実習の終わりに市場側へ渡されている。
「その中で、特に混雑の大きかった一角については、周辺の数店舗と配送側の協力を得て、荷受け時間の調整を始めたらしい」
フローレンの指先が、机の上でわずかに止まった。あの日、三人で何度も線を引き直した地図が頭に浮かぶ。
「店ごとに動かせる時間を確認した上で、近い場所へ荷車が集中しないようにした。ほかの班が拾ってきた店側の要望も一緒に反映しているそうだ」
「それで、どうなったんですか?」
教室のどこかから声が上がる。
「まだ始めたばかりだが、朝の列は以前より短くなっている。荷下ろしの待ち時間も、試した範囲では減ったそうだ」
教室の空気が、ふっと明るくなった。後ろの方から、レオの小さな「お」という声も聞こえてくる。
フローレンが振り返ると、ちょうどレオと目が合った。目が合った瞬間、二人とも自然と笑った。ルシアンもこちらへ目を向けていて、いつもの穏やかな表情に、ほんの少し明るさが滲んでいた。
「正式にどう運用するかは、これから市場側で決める。ただ、少なくとも現時点では悪くない結果が出ているらしい」
教師はそこで少し表情を緩めた。
「それから、実習に参加した生徒たちへ礼も届いている。『朝の荷受けが少し楽になった』『今まで当たり前だと思っていたことを見直すきっかけになった』とのことだ」
その言葉を聞いた途端、胸の奥へ小さな熱が広がった。
実習の帰り道には、まだ分からなかった。自分たちが考えたものが、本当に誰かの役に立つのか。紙の上では良さそうに見えても、現実に動かせば別の問題が出てくるかもしれない。そう思っていた。
けれど今、その先にいた誰かが「少し楽になった」と言っている。
市場街全体を変えたわけではない。ほんの一角で、朝の混雑が少し和らいだだけだ。
それでも、あの日三人で考えたことが、誰かの朝をわずかに変えた。
「よかったな」
ルシアンが声を落として言う。
「うん」
返した声は、自分で思っていたより弾んでいた。
「報告は以上だ」
教師が手元の紙を教卓へ置くと、教室は再び休み時間のざわめきへ戻っていった。
次の授業までには、まだ少し時間があった。
フローレンが机の上を片づけていると、教卓の向こうから教師の声が飛んだ。
「ノクティス、ルベライト。少し手を貸してくれ」
「はい」
「はーい」
二人が席を立つ。
「資料室の最上段に、次の授業で使う地図筒と参考書の箱がある。持ってきてほしい」
レオは一瞬考えたあと、隣に立ったルシアンへ目をやった。
「なるほど。人選の理由が分かった」
「何の話だ?」
「身長」
「……ああ」
ルシアンまで真面目に納得する。
フローレンもつられて二人を見上げる。こうして並んで立つと、やはり二人とも随分と背が高い。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
レオがひらひらと手を振り、ルシアンも軽く頷く。二人は連れ立って教室を出ていった。
フローレンが続きを読もうとノートへ視線を戻しかけた時、斜め前の席から声をかけられた。
「ねえ、アストリアさん」
「うん?」
顔を上げると、女子生徒の一人がこちらへ身体を向けていた。その手には、小さな髪飾りがある。
細い金属の軸に、淡い青の石と白い小花を組み合わせたものだった。
「これ、昨日買ったんだけど。変じゃない?」
「髪飾り?」
「そう。春らしいかなと思って買ったんだけど、家に帰ってから、ちょっと子どもっぽかったかもって思って」
「見てもいい?」
「もちろん」
差し出された髪飾りを受け取り、フローレンは手のひらの上でそっと向きを変えた。
青い石は透明度こそ高くないが、光を受けるとやわらかく色が透ける。小花も真っ白ではなく、ごく薄く青みがかっていた。
「あ、これ、たぶんミレア通りのお店のだよね」
「えっ」
女子生徒が目を丸くする。
「なんで分かるの?」
「この花の留め方、あのお店でよく見るから。あと、この青い石も最近よく使ってる」
「正解。昨日そこで買った」
近くで話を聞いていた別の女子生徒まで顔を上げた。
「そんなのでお店まで分かるの?」
「全部じゃないよ。でも、家の用事で街のお店を見ることが多いから」
もう一度、手のひらの髪飾りへ目を落とす。
「子どもっぽくないと思う。白い花だけだったら少し可愛らしい感じが強いかもしれないけど、青が入ってるから落ち着いて見えるし」
「ほんと?」
「うん。髪を全部上げるより、半分だけまとめた時につけた方が似合いそう」
相手の髪を見ながら少し考え、自分の耳の少し上を指してみせる。
「たぶん、このくらいの位置。横から見た時に石が見えるくらい。髪の色が濃いから、青もちゃんと目立つと思う」
「え、やってみたい」
「今つける?」
「いいの?」
「うん」
椅子を少し寄せると、相手が背中を向けた。
フローレンは髪を傷めないよう指先で軽く束ね、預かった飾りを差し込む。自分でつける時とは角度が違うので、少し離れて全体を見てから位置を直した。
「……うん。こっちの方が可愛い」
「見たい」
手鏡がないかと辺りを見回すより早く、近くにいた女子生徒が小さな鏡を差し出した。
「はい」
「ありがとう!」
鏡を覗き込んだ途端、女子生徒の顔がぱっと綻んだ。
「ほんとだ。買った時よりいいかも」
「買った時よりって、お店の人が泣くよ」
「だって自分でつけたら変だったんだもん」
周りから笑い声が上がった。
「ねえ、アストリアさんって髪飾りも詳しいの?」
今度は別の席からも質問が飛んできた。
「詳しいっていうほどじゃないけど……見るのは好きだよ」
「じゃあ今年の春、何が多い?」
「何が?」
「色とか。布とか」
「ああ」
それなら、と思う。
「今年は明るい色が多いかな。淡い青とか、若草色とか。薄い桃色もよく見るけど、去年より少し灰色がかった色も増えてる気がする」
「灰色がかった桃色?」
「うん。明るすぎないから、服に使いやすいんだと思う」
「それ、どこで売ってる?」
すぐに質問が飛んできて、フローレンは笑った。
「布なら市場街の南側に何軒かあるよ。値段で選ぶなら大通りから一本入ったところの方が少し安いけど、色の種類は表通りのお店の方が多いかな」
一瞬、周囲が静かになった。
「……値段まで分かるの?」
「だいたいなら」
「だいたいって?」
「同じくらいの厚さなら、表通りの方が一割くらい高いことが多いよ。でも、染めの揃い方とか入荷の早さも違うから。仕入れ先まで見ると――」
そこで、フローレンは口を止めた。
女子生徒たちが、妙に真剣な顔でこちらを見ている。
「……あ」
少し詳しく話しすぎたかもしれない。
家では、ごく普通の話だった。どの地方から何が入ったとか、今年は染料の値が上がったとか、同じ布でも仕入れ先によって相場がどのくらい違うとか。本気で話し始めれば、まだいくらでも続けられる。
けれど、今聞かれているのは春物の買い物の話だ。
フローレンは一度考え直して、笑った。
「……でも、普通に見に行くなら表通りの方が楽しいと思う。新しい色がたくさん並んでるから」
「一瞬やり手の商人みたいになったね」
「商家の娘なので……」
少し照れて答えると、今度こそ周りが一斉に笑った。
「でもすごい」
「私、布なんて見ても可愛いか可愛くないかしか分からない」
「それでいいと思うよ」
フローレンも笑う。
「買う時に可愛いって思えるのが一番大事だし」
「じゃあ、この髪飾りも?」
先ほどの女子生徒が、自分の髪に留められた飾りへそっと触れる。
「それは可愛い」
「やった」
嬉しそうに両手を合わせる姿に、また笑いが広がった。
そこから話は、次々と別のものへ移っていった。
「香油ならどこがいい?」
「匂いが強すぎないのがいいんだけど」
「それなら、花の香りより柑橘系の方が軽いかも。でも香油は肌との相性もあるから、買う前に少し試した方がいいよ」
「お菓子は?」
「急に食べ物になった」
「大事でしょ」
「焼き菓子なら、北側の小さいお店がおいしいよ。前に家族で買ったんだけど――」
「あ、そこ知ってる!」
「本当?」
「丸い砂糖菓子が乗ってるやつでしょ?」
「そう、それ」
一つの話が終わる前に、また別の話題が飛んでくる。髪飾りから布へ。布から香油へ。香油から菓子へ。
フローレンは尋ねられるたびに、自分の知っている範囲で答えた。細かく話せば長くなることは短く、相手が知りたそうなところは少し詳しく。分からないものは、無理に答えない。
「肌の手入れは?」
「それは私より詳しいお店の人に聞いた方がいいかも。使ってるものはあるけど、人によって合うものが違うから」
「じゃあ髪は?」
「髪なら少し分かるよ」
「ほら、また出た」
「何が?」
「少し分かる、で始まって結構詳しいやつ」
言われて、フローレンは目を瞬いた。
「そうかな」
「そうだよ」
「ねえ、じゃあ私の髪だと――」
「あ、待って。私も聞きたい」
いつの間にか、フローレンの机の周りには女子生徒が何人も集まっていた。
先ほどの髪飾りを鏡で眺めている子。春に買いたい服の話をする子。おすすめの菓子屋を忘れないよう紙へ書き留めている子までいる。フローレン自身も、それがおかしくてたまらなかった。
特進へ来たばかりの頃なら、こんなふうに自分の机の周りへ人が集まるとは思わなかったかもしれない。
けれど今は、誰かに声をかけられることも、そこから話が広がることも、もうそれほど珍しくなくなっていた。
「じゃあ、春物の布を見に行くなら、南側から回った方がいい?」
「うーん。買うものが決まってるなら南側でもいいけど、まだ何となく見たいだけなら表通りからの方が楽しいと思うよ」
「なるほど」
「あと、もし髪飾りも見るなら――」
そこまで話したところで、教室の扉が開いた。
資料室から戻ってきたレオが、大きな箱を抱えて教室へ入ってくる。その後ろには、長い地図筒を何本も片腕に抱えたルシアンが続いていた。
二人の視線の先には、いつの間にか小さな人だかりができている。
その真ん中で、フローレンは女子生徒たちに囲まれながら楽しそうに話していた。




