80:現場に合わせて
教師と区画の取りまとめ役は、午前中と同じ建物の前にいた。
ほかの班も少しずつ戻り始めているらしく、軒下には集められた記録や地図が重ねられている。三人が近づくと、取りまとめ役の男性が手元の紙から顔を上げた。
「戻ったか。どうだった?」
「はい。店の方と御者さんにも確認して、案を少し直しました」
フローレンが答えると、教師も三人の持つ紙へ目を向けた。
「見せてみろ」
長机の端を借り、ルシアンが書き直した案を広げる。
昼過ぎに作ったものとは違い、今の紙には店ごとの条件や荷下ろし場所を示す印がいくつも書き込まれている。その隣へ、最初の仮案も並べた。
「最初は、荷受けの時間を三十分ほどの枠に分けて、それぞれの店を振り分けることを考えていました」
ルシアンが説明を始める。
「ですが、実際に店へ確認すると、動かせる範囲がそれぞれ違いました。朝のうちに必要でも、今の時刻でなければ困るわけではない店もあります」
「昔から同じくらいの時刻に受け取っているから、今もそのまま続いているというお店もありました」
フローレンも自分の記録を開いた。
「反対に、ここ数か月で以前より早い時間に受け取るようになったお店もあります。そうした変更が、もともと朝に受け取っていた近くのお店と重なって、時間の偏りが大きくなっていました」
取りまとめ役が紙へ顔を近づける。
「なるほど。一軒ずつでは小さな変更でも、近い店で重なっていたわけか」
「はい」
フローレンが頷く。
「ただ、店側だけで時間を決めても、御者さんには負担になることも分かりました」
今度はレオが仮案の時間枠を指した。
「最初みたいに『八時半から九時』ってきっちり決めると、前の配達が少し遅れただけでも間に合わなくなるそうです。だから、全部の店を同じ幅の枠に入れるんじゃなくて、それぞれがどこまで動かせるかを先に決めた方がいいんじゃないかって」
「それに、時間だけずらしても足りません」
ルシアンが地図へ指を移す。
「荷下ろし場所が近い店は、時間帯の境目でも荷車が重なる可能性があります。ですから、店ごとの許容範囲と荷下ろし場所の位置を両方見ながら、近い場所へ続けて荷車が入らないようにする方が現実的だと考えました」
取りまとめ役はしばらく黙って紙を見ていた。教師も横から書き込みを追っている。
「つまり」
やがて取りまとめ役が口を開く。
「朝に必要な荷物は無理に動かさない。後ろへ回せる荷物だけを動かして、場所が近い店同士はなるべく間を空ける。時間は厳密に固定しすぎない、と」
「はい」
三人の声が重なった。
男性が少し笑う。
「最初に見せてもらった時より、ずいぶん複雑になったな」
「……はい」
フローレンは横にある最初の仮案を見た。
等間隔に並んだ時間枠だけを見れば、あちらの方がずっと分かりやすい。けれど今は、その整い方だけでは足りないことを知っている。
「でも、こっちの方が実際には使えると思います」
そう答えると、取りまとめ役はもう一度紙へ目を落とした。
「ああ。私もそう思う」
あっさり返された言葉に、フローレンは少し目を見開いた。
「区画全体を一度に変えるのは難しい。店ごとに仕入れ先も違うし、配送の都合もあるからな」
男性は、軒下に重ねられたほかの班の記録へも目をやった。
「ほかの班からも、店側の困りごとや荷下ろし場についていくつか話が上がってる。そっちも合わせて見てみるつもりだ」
それから再び、三人の地図へ視線を戻す。
「その中でも、これはこの辺りなら試せるかもしれない」
男性は地図の上へ指を置いた。
指されたのは、午前中に長い列ができていた一角だった。荷下ろし場所の近い店が集まり、三人が何度も記録を見比べた場所でもある。
「ここを使う数軒に話を通して、動かせる荷物だけ時間をずらしてみる。全部をいじらなくても、朝の重なりが減るかは見られるだろう」
「試してもらえるんですか?」
思わずフローレンが聞き返す。
「ああ。実際の調整はこっちで引き取るよ。仕入れ先や運ぶ側との話もあるから、その先は私たちの仕事だ」
「ありがとうございます」
ルシアンが答える。
「僕たちも、まだ確認できていない事情があると思います」
「そういうことだ」
取りまとめ役は笑い、書き直された案の端を軽く指で叩いた。
「店にも運ぶ側にも聞いて、そのたびに直してある。だから、小さく試すところまでは持っていけそうだ」
フローレンは紙へ視線を落とした。
店へ行くたびに増えた書き込みと、消した線。そして引き直した矢印。
きれいだった最初の案が崩れるたび、これでいいのだろうかと思った。けれど、その跡まで含めて評価されたような気がした。
「よかったね」
隣でレオが小さく言う。
「うん」
フローレンも小さく返した。
「今回よかったのは、原因を見つけて終わらなかったことだ」
教師の声に、三人が顔を上げる。
「記録から偏りや以前との変化を見つけるところまでは、資料を比べればできる。だが、そこから現場へ戻って、なぜその時刻なのか、どこまで動かせるのかを聞いた。最初の案と合わない情報が出ても、案の方を直した」
教師は最初の仮案と、書き直された紙を見比べた。
「現場を答えに合わせるのではなく、現場に合わせて答えを変えた。それでいい」
フローレンはその言葉を、少しゆっくり受け取った。
三年生になったばかりの頃なら、最初に考えた筋道が崩れた時、どこへ戻って考え直せばいいのか分からなくなっていたかもしれない。けれど今回は違った。
分からないことが出れば聞いた。知らなかった条件が増えれば、そこからまた考えた。その結果、最初とは違う形になった。
それでも、前より確かなものになっている。
「それと」
取りまとめ役が、フローレンの持つ記録へ目をやった。
「到着時刻を並べてたのは君だったな」
「はい」
「店ごとに見てた記録を、時間と場所で並べ直したんだろう?」
「最初に並べてみたのは私ですが、あとは三人で一緒に確認しました」
「そうか。……君はアストリア、だったか」
名前を聞き直すように男性が言った。
「はい」
「アストリアって、あのアストリア商会の?」
「はい。父が商会を営んでいます」
「ああ、やっぱりか」
男性は納得したように頷いた。
「なるほど。帳簿や荷札に慣れてるわけだ」
「はい。家でもよく目にするので」
「でも、商会のお嬢さんだからってだけじゃないな」
男性はフローレンの記録をもう一度見た。
「同じ帳簿でも、見方を変えるとここまで分かるんだな」
「……はい」
「よく見てるよ」
短い言葉だった。けれど、深く胸へ落ちた。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
アストリア商会の娘だから、帳簿や荷札に慣れている。それは間違っていない。家で見てきたものがあったから、今日も迷わず扱えた。
けれど、それとは別に、自分たちで考えて見つけたものもある。
二つが初めて、学院の外で一つに繋がったような気がした。
「正式にどうするかは、試してからだな」
取りまとめ役が紙をまとめる。
「結果が出たら学院にも伝えるよ」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。朝からよく歩き回ったな」
そう言われて初めて、フローレンは足の裏に残っていた疲れを思い出した。
朝から何度この通りを往復しただろう。隣を見ると、レオも小さく肩を回している。
「では、今日の実習はここまでだ」
教師の言葉に、ほかの班からも安堵したような声が聞こえた。
三人も使った資料を返し、借りていた記録をまとめる。市場街を出る頃には、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
学院へ戻る道は、朝よりずっと賑やかだった。買い物を終えた人たちとすれ違い、通りの向こうからは夕方の呼び込みの声も聞こえてくる。
「疲れたあ」
市場街を抜けてしばらくしたところで、レオが大きく伸びをした。
「朝からずっと歩いてたもんね」
「しかも荷車追いかけたり、店回ったり、帳簿見たり。実習ってもっとこう、先生の後ろについて見学する感じかと思ってた」
「私も」
「ルシアンは?」
「自分たちで動くとは思っていたが」
「さすが特進首位」
「それは関係ないだろう」
間髪入れずに返ってきた答えに、レオの肩が楽しそうに揺れる。フローレンもつられて笑いながら、今日一日を思い返した。
朝には、目の前の混雑の何を見れば原因へ辿り着けるのかも分からなかった。荷車を見て、記録を見て、人に聞いて。気づけば、最後には市場街の人へ自分たちの案を説明していた。
「実習、レオかっこよかったね」
思ったまま口にすると、レオが目を丸くした。
「俺?」
「うん。お店の人とか御者さんに話を聞く時。聞きたいことをどんどん聞いてくれて、私じゃ気づかなかったこともいっぱい出てきたし」
「そう? ありがと」
レオは嬉しそうに笑った。
「フローレンもかっこよかったよ」
「ほんと?」
「帳簿見てる時とか、めちゃくちゃ手慣れてた。あと、店の人にどんどん気に入られてた」
「気に入られてたかな」
「うん。あれは相当気に入られてたね」
フローレンは少し照れながらも、素直に頬を緩めた。
「嬉しい」
「で」
レオがちらりとルシアンへ目をやった。
「ルシアンもかっこよかったでしょ?」
「え」
フローレンの歩調がふいに乱れた。
ついさっき、レオには何の迷いもなく言えた言葉だった。それなのに、ルシアンのことになると、同じ一言がなぜかすぐには出てこない。
レオが少しだけ眉を上げる。その視線に促されるように、フローレンは口を開いた。
「いや、その……」
今日のルシアンが頼もしかったことなら、いくつも思い出せる。
市場の人へ状況を説明していた時。ばらばらに出てきた条件を整理していた時。大人たちを前にしても、いつもと変わらず落ち着いて話していた時。
それから。
ふいに、青年の手首を掴んだ時の横顔まで浮かびかけて、フローレンは慌ててそこから意識を逸らした。
「ほら、大人相手でも堂々としててさ」
レオが助け船を出すように続ける。
「公爵家の貫禄、すでに出てるよね。ああいう姿、学院じゃなかなか見られないし」
「あ……うん」
それなら言える。
そう思ったはずなのに、口から出た声は思ったより小さかった。
「うん、……かっこよかった」
隣を歩くルシアンの歩調が、ほんのわずかに鈍った。けれど何も言わない。
その小さな変化を見逃さなかったらしく、レオがわずかに目を細めた。
「ルーシアン?」
「なんだ」
「フローレンが今日のルシアンすごくかっこよかったって」
「……そこまでは言ってなかっただろう」
一拍。
フローレンが顔を上げる。
レオも黙る。
ルシアン自身も、遅れて気づいたらしい。
「……聞こえてたの?」
フローレンが尋ねる。
「…………」
「聞こえてたんだ……」
答えないことが、そのまま答えになった。
急に顔が熱くなる。
「いや、あの、別に変な意味じゃなく――」
「分かっている」
食い気味に返される。
「大人の人と話してる時が、っていう」
「ああ」
「その……いつもとちょっと違って見えたから」
「……そうか」
レオの視線が、フローレンとルシアンの間を一度往復した。何か言いたげに口元が動いたものの、珍しくそのまま黙っている。
会話が途切れると、頬に残った余熱が妙にはっきりと感じられた。何かおかしなことを言ったわけでもないのに、気持ちの置きどころが見つからない。胸の奥にも、まだ小さな揺れが残っていた。
そのまま数歩進んだところで、ルシアンがふいに口を開いた。
「……フローレンも」
「……ん?」
名前を呼ばれ、フローレンが少し顔を上げる。
ルシアンもこちらへ顔を向けていた。紫の瞳と目が合う。何かを続けようとするように唇がわずかに開いたものの、すぐには言葉が出てこない。
ほんの短い間のあと、ルシアンはわずかに視線を逸らした。
「……良かったんじゃないか」
フローレンは目を瞬く。
最初は何を指しているのか分からなかったが、少し遅れて、それが今日の自分への褒め言葉なのだと気づいた。
胸の奥の落ち着かなさはまだ消えない。それでも、ルシアンにそう言ってもらえたことへの嬉しさは、じわりと胸の内へ広がっていった。自然と口元が緩む。
「……ありがと。えへへ」
声には少し照れが混じった。それでも嬉しさまでは隠れず、最後の音がほんの少し弾んだ。
その声に、ルシアンがもう一度だけフローレンを見る。けれど目が合うより先に、スッと視線を戻した。
「……いや、だから下手だって……」
隣からぽそりと落ちた声に、ルシアンがレオを一瞥した。レオは何も知らないような顔で前を向いた。
午後の陽が、三人の伸びた影を道の先へ落としている。
朝にはただ混み合って見えた市場街にも、見方を変えればいくつもの理由があった。
動かせないものと、動かせるもの。
紙の上では分からなかったことを聞き、見つけた条件を繋ぎ直すことで、少しだけ違う形が見えてきた。
それが本当に誰かの役に立つのかは、まだ分からない。けれど、自分たちの考えたものが、今度は紙の上ではなく、実際の市場街で試される。
そのことが、フローレンには少しだけくすぐったく、嬉しかった。
三人は並んで、学院へ続く道を歩いていった。




