79:紙の上では
次に向かったのは、午前中の聞き取りで「朝のうちでなければ困る」と答えていた店だった。
市場街の入口から少し奥へ入ったところにある食料品店で、店先には野菜や乾燥させた香草が籠いっぱいに並んでいる。午後になって客足も増え、店の奥からは何かを刻む軽い音が絶えず聞こえていた。
「すみません。午前中に聞いた荷受けのことで、もう少し確認してもいいですか?」
フローレンが声をかけると、帳場にいた女性が顔を上げた。
「あら、また来たのね。いいわよ。何か分かった?」
「少しだけ」
三人は客の邪魔にならない店先の端へ移り、先ほどと同じように仮の時間枠を見せた。
この店には、いつも八時十分前後に荷車が来ている。午前中の聞き取りでは「開店前の仕込みに使うものがあるから、朝でないと困る」と聞いていた。
「例えばなんですけど、今より少し早くなったり、逆に二十分くらい遅くなったりするのは難しいですか?」
女性は紙に書かれた時刻を眺めてから、店の奥へ目をやった。
「二十分くらいなら、たぶん大丈夫ね。九時までには欲しいけど」
「九時まで?」
「ええ。九時を過ぎると店を開ける準備が本格的に始まるから。届いたものを片づける人手も減るし、仕込みに使う分はそれより前に欲しいの」
フローレンは記録の余白へ「九時まで」と書き足した。
「じゃあ、八時十分に届くこと自体が必要なわけではないんですね」
「そうね。ずっとそのくらいに来てもらってるから、今もそうなってるだけよ」
その答えを聞いたレオが、隣から紙を覗き込む。
「朝じゃないと困る。でも、今の時間じゃないと困るわけじゃない」
「うん」
同じ「朝に荷受けする店」でも、実際に聞いてみれば、その中には動かせる幅がある。
「もし『八時から九時までの間』みたいに、ある程度幅を持たせて伝えるのはどうですか?」
ルシアンの問いに、女性は少し考えてから頷いた。
「うちはそれで困らないと思う。ただ、九時ぎりぎりに毎回来られると大変だけど」
「なるほど。時間帯だけでなく、その中でも多少余裕を見た方がよさそうですね」
「運ぶ人にも都合があるでしょうからね」
礼を言って店を出る頃には、フローレンの持つ紙へまた一つ条件が増えていた。
朝でなければ困る。けれど、八時十分でなければならないわけではない。動かせる幅が小さいと思っていた店にも、予想していたより余白があった。
続いて向かったのは、そこから数軒離れた生活雑貨の店だった。
店先には籠や布地、石鹸などの日用品が所狭しと並び、奥では二人の店員が届いたばかりらしい荷を棚へ移している。帳場にいた恰幅のいい女性は客の会計を終えると、手元の硬貨を素早くまとめてから三人を振り返った。
「さっきの学院の子たちね。ちょっと待ってちょうだい」
「はい」
フローレンはすぐには話しかけず、女性が帳面へ売上を書きつけるのを待った。
その間にも一人客が入り、棚の場所を尋ねる。女性は店員へ声をかけ、客を案内させると、ようやく三人の方へ身体を向けた。
「お待たせ。何を見たいの?」
「ありがとうございます。午前中に見せていただいた荷受けの記録を、もう一度確認したくて」
「いいわよ。どの日?」
「昨日から三日前までの三日分だけで大丈夫です。それと、もし分かれば、こちらの印が同じ商会から届いた荷物か教えていただけますか?」
フローレンが午前中に控えた印を指すと、女性は「ああ、それね」と帳簿を引き寄せた。
「これはエルバ商会。こっちの丸印も同じところよ」
「荷札も残っていますか?」
「たぶん裏にあるわ。待ってて」
女性が振り返るより早く、フローレンの視線が店先の木箱へ止まった。
「もしかして、あちらの箱ですか? 右下に同じ商会印があります」
「あら、本当。よく分かったわね」
「家で似た荷札をよく見ていたので」
許可をもらって箱の側面を確かめると、フローレンは帳簿と荷札を交互に見た。商会名、到着日、品目。記された場所を探す手にほとんど迷いがない。
「昨日が八時二十五分。その前が八時三十二分で……三日前が八時二十八分」
必要な箇所だけを拾い、手元の記録へ書き移していく。
「毎日、ほとんど同じくらいなんですね」
「そうね。昔から朝一番に近い便でお願いしてるから」
「この品物は、届いたあとすぐに売り場へ出しますか?」
「全部じゃないわよ。石鹸なんかは倉庫に入れて、減ったら出すし。布もその日のうちに全部必要なわけじゃないわね」
「じゃあ、荷受け自体は午前中なら少し遅くなっても大丈夫ですか?」
「ええ。昼を跨がなければ別に構わないわよ」
フローレンは記録へ新しい印をつけた。
「例えば十時頃になっても?」
「平気平気。今の時間なのは、昔からそうだからよ」
「ありがとうございます。では、こちらのお店は時間を動かせる候補にできそうです」
フローレンが顔を上げると、女性はしばらく彼女を見てから、ふっと口元を緩めた。
「あんた、こういうの見慣れてるわねえ」
「家が商家なんです。小さい頃から帳簿や荷札を見る機会が多くて」
「なるほど。学院の子だから、帳面なんてもっと恐る恐る触るのかと思った」
冗談めかした言い方に、フローレンも笑う。
「家でもよく『順番を崩すな』って言われてました」
「そうそう。そこ大事なのよ。あと帳面の上に物を置かない」
「それも言われました」
「あら、ちゃんと商家の娘だわ」
女性が楽しそうに笑った。
「じゃあ話が早いわね。こっちも見てみる? 同じ商会でも、品物によって便が違う日があるから」
「いいんですか?」
「いいわよ。どうせ見るなら、そこまで見た方が分かりやすいでしょう」
「ありがとうございます」
差し出された別の帳簿を受け取る時も、フローレンは自然に両手を添えた。受け取った向きのまま、目的の日付へすぐ指を滑らせる。
その様子を、少し後ろからルシアンは何となく見ていた。
学院で見るフローレンは、分からないことがあれば一つずつ確かめる。考えているうちに首を傾げることもあるし、記録を前に長く黙り込むことも珍しくない。
けれど、ここでは違った。
帳簿を扱う手にも、店の者へ尋ねる順番にも、ほとんど迷いがない。相手の仕事を遮らず、必要なところだけを聞き、答えをもらえば素直に礼を言う。
気づけば相手の方から「これも見てみる?」と情報が出てくる。女性も先ほどよりすっかり表情を和らげていた。
「これだけすぐ分かるなら助かるわ。うちで働いてる子にも帳面の見方を教えてほしいくらい」
「そう言っていただけると嬉しいです。ありがとうございます」
フローレンは穏やかに微笑んで頭を下げた。冗談交じりの褒め言葉を額面どおりに受け取るでもなく、大げさに謙遜するでもない。相手の好意だけを素直に受け取るような返しだった。
それが伝わったのか、女性は笑みを深めた。
「本当にしっかりしてるわね。頑張って」
「ありがとうございます」
ああいうふうに柔らかく笑って礼を言えるから、相手もつられて頬を緩めるのだろう。無理に距離を縮めているわけでもないのに、気づけば向こうの方から、もう少し話を続けようという顔になっている。
あれなら、初対面の相手ともすぐに打ち解けるのも分かる。
「ルシアン?」
名前を呼ばれて顔を上げると、フローレンがこちらを見ていた。
「ここの記録、見てもらってもいい? 昨日だけ便が違うみたい」
「ああ。分かった」
いつも通り答えて、ルシアンは帳簿へ目を落とした。
必要な箇所を確認し終え、三人は女性へ礼を言って店を出た。
「さすが商家の娘って感じだったね」
通りへ出るなり、レオが楽しそうに言う。
「そう?」
「うん。帳簿渡された瞬間、急に動きが迷いなくなった」
「家でも似たものを見てるからかな」
フローレンは特に気にした様子もなく、記録を開いた。
「それより、このお店かなり動かせそう。午前中なら大丈夫だって」
「今の時間に特別な理由があるわけでもなかったね」
レオが地図上の店を指す。
「最初の店は九時まで。今の店は午前中ならかなり動かせる」
「それなら、最初の店を早い方に残して、こっちを後ろへ動かすことはできそうだ」
ルシアンも地図を見る。
「しかも、この二軒は荷下ろし場所が近い」
「じゃあ、この重なりは一つ減らせるかもしれないね」
店側からは、少しずつ使えそうな条件が集まってきた。けれど、店にとって都合がよくても、実際に荷物を運べなければ意味がない。
「次は御者さんだね」
「うん。さっきのお兄さんも、運ぶ側に聞いた方がいいって言ってたし」
三人は午前中にも話を聞いた荷車の待機場所へ向かった。
午後の荷受け通りは、朝よりいくらか落ち着いていた。
それでも荷車が一台入れば、道幅の狭さはよく分かる。片側に荷を下ろす車が止まると、反対から来た荷車は速度を落とし、人も軒先へ避けなければならない。
待機場所には、荷台の縄を締め直している御者がいた。午前中、通りへ入ってから動かなくなることがあると教えてくれた男性だった。
「また何か見つかったか?」
三人の姿を見ると、御者の方からそう声をかけてくれた。
「はい。少し案を考えてみたんですが、運ぶ側から見て実際にできそうか伺いたくて」
レオが答え、ルシアンが紙を広げる。
「今は、近い店へ荷車が同じ時間に集まりすぎないよう、店ごとに到着する時間帯をある程度分けられないかと考えています」
「時間をずらすってことか」
「はい。ただ、どの程度まで決めるとご負担になるのかが分からなくて」
仮案では、三十分ほどの幅でいくつかの時間帯を作っている。御者はそれを見ると、顎へ手をやった。
「三十分かあ」
少し考え込むような声だった。
「難しいですか?」
フローレンが尋ねる。
「絶対無理ってわけじゃない。ただ、毎回きっちりその三十分に入れって言われると厳しいな」
「どうしてですか?」
「この市場だけ回ってるわけじゃないからな。先に寄った店で荷下ろしに時間がかかる日もあるし、道が混んでりゃそれだけ遅れる。八時半から九時って決められて、九時五分に着いたら駄目だって話になると困る」
フローレンは思わず紙へ目を落とした。
店側から聞いた時には、三十分ほどの時間枠は分かりやすそうに思えた。けれど、運ぶ側から見ると、その狭さが別の負担になる。
「では、もっと広い時間帯ならどうですか?」
「そっちの方が助かるな。『九時までに』とか『朝のうちならいつでも』とか、店ごとに多少違ってもいいなら合わせやすい」
「全部を同じ幅にしなくてもいい、ということですね」
ルシアンの言葉に、御者が頷いた。
「必要な店は早め。急がない店は後ろ。それだけでも分かってりゃ、こっちも順番を組みやすいよ」
レオが腕を組み、地図と仮案を見比べる。
「時間枠を作ること自体より、『どこまでなら動かせるか』が分かってる方が大事なのかも」
「そうだな」
ルシアンも紙へ視線を落とした。
「店ごとに許容できる範囲を確認して、その中で重なりを減らす方が現実的かもしれない」
それなら、最初から同じ形の枠へ全店を押し込む必要はない。
フローレンは先ほど書いた「九時まで」と「午前中」という二つの条件を見る。幅は違う。それでも、その違いこそ使える情報だった。
「あともう一つ」
御者が地図の一角を指した。
「時間だけ見て決めるなら、ここは気をつけた方がいいぞ」
「ここ?」
レオが覗き込む。
「この二軒、荷下ろしする場所がほとんど隣だろ。例えば片方を八時半まで、もう片方を八時半からって分けても、前が少し遅れれば結局ぶつかる」
「あ……」
フローレンもすぐ意味に気づいた。
紙の上では別の時間帯でも、境目では二台が近い時刻へ集まる可能性がある。
「八時二十八分と八時三十二分なら、ほとんど同時になる……」
「そういうこと」
御者が笑う。
「荷下ろしもすぐ終わるとは限らないしな。時間の線だけきれいに引いても、道の上じゃそんなにきれいに分かれないよ」
その言葉に、三人はしばらく地図を見つめた。
午前中に見つけたのは、時間と場所が重なることで起きる混雑だった。
なら、動かす時も片方だけを見てはいけない。時間をずらしても、近い荷下ろし場所へ続けて荷車が入れば、また同じことが起こる。
「近い荷下ろし場所は、境目にも余裕を作った方がいいのかな」
「うん。例えば、この店を早い方に残すなら、隣はもう少し間を空けて後ろへ動かすとか」
レオが地図上で指を動かす。
「ただ、遠い場所なら同じ頃でも問題が少ない」
「ああ。全体を一列に並べる必要はないな」
ルシアンが仮案の端へ新しい線を引いた。
「場所が離れている店同士なら、同じ時間帯でも荷車は互いの邪魔になりにくい。逆に近い店は、許容範囲の中でできるだけ重ならないようにする」
「それなら現実的だと思うぞ」
御者が地図を見ながら頷いた。
「何時何分って全部決められるより、ずっとやりやすい」
「ありがとうございます」
フローレンが頭を下げると、御者は「役に立ったならよかった」と笑った。
そこからもう少し、荷下ろしにかかる時間や遅れやすい道について聞いてから、三人は待機場所を離れた。
市場街の端にある小さな広場まで戻り、空いていた長椅子の前で紙を広げる。
昼過ぎには整然としていた仮案も、今はかなり様子が変わっていた。店の名前の横には、新しく聞いた条件が増えている。消した線の上から別の矢印が伸び、三十分刻みだった時間枠にはいくつも修正が入っていた。
「最初よりずいぶん賑やかになったね」
レオが笑う。
「でも、こっちの方が使えそう」
フローレンは紙の端を押さえながら答えた。
最初に作った案は、きっちり整っていた。八時から八時半。八時半から九時。九時から九時半。店をそこへ順番に入れていけば、荷車は分散するように見えた。
けれど実際には、店によって必要な時間は違う。御者には前の配達があり、荷下ろしにも時間がかかる。紙の上で線を引いた境目が、そのまま道の上にも現れるわけではない。
「まず、絶対に守らないと困る条件を残そう」
ルシアンが新しい紙を一枚取り出した。
「九時までに必要な店は、その範囲から出さない。午前中なら動かせる店は、混雑する時間から外す候補にする」
「近い荷下ろし場所同士は、できるだけ続けない」
レオが付け加える。
「御者さんにきっちり三十分を守ってもらうんじゃなくて、少し前後しても重なりにくいようにする」
フローレンも記録から該当する店を拾った。
三人で地図と帳簿を行き来しながら、一つずつ置き直していく。
朝でなければ困る店。
朝の方が便利だが、多少なら動かせる店。
午前中であれば問題のない店。
さらに、その店の荷下ろし場所がどこにあるのか。
条件を重ねるほど、最初のような単純な並びにはならなくなっていく。けれど、それは案が悪くなったということではなかった。
「ここ」
しばらくして、フローレンが地図の一点を指した。
「この三軒、今はほとんど同じ時間に来てるけど、一番奥のお店は午前中なら動かせるって言ってたよね」
「ああ」
ルシアンが記録を確認する。
「九時までに必要な店は早い方に残す。九時半までならいい店はそのあと。午前中ならいい店は、もっと後ろへ動かせる」
「だったら、この三軒はかなり離せそうだね」
レオが地図上の三軒を順に指す。
「それなら、少しくらい遅れても全部が重なる可能性は低くなるね」
三人の視線が同じ場所へ集まった。
午前中には、そこへ三台の荷車が続けて入り、後ろに長い列ができていた。今、紙の上では三つの到着が少しずつ離れている。
もちろん、実際に毎日その通りになるとは限らない。それでも、最初から同じ場所へ集まりやすい頼み方をしておくよりは、ずっと余裕がある。
「これなら、一度まとめて見てもらえそうだね」
レオの声に、フローレンも頷いた。
「うん。まだ全部のお店には聞けてないけど、考え方としては使えそう」
「ああ」
ルシアンは書き直した案をもう一度最初から見直し、それから静かに頷いた。
「最初に考えた形とはかなり変わったが、その方がいい。実際に使うなら、こちらの方が無理が少ない」
フローレンは、横に置かれた最初の仮案へ目をやった。
整った線と、等間隔に区切られた時間。
それに比べ、新しい紙には店ごとに違う条件が書き込まれ、ところどころ矢印まで曲がっている。
けれど、不思議と今の方が分かりやすく感じた。
知らなかったことを聞くたびに、最初の案は少しずつ崩れた。そのたびに直して、また聞いて、別の条件を足した。
そうして出来上がったものは、紙の上だけで考えていた時よりも、ずっと市場街の形に近づいている。
「じゃあ、戻ろうか」
フローレンが顔を上げる。
広場の向こうでは、午後の陽が店先の屋根を斜めに照らしていた。朝には荷車で塞がれていた通りにも人の流れが戻り、呼び込みの声と笑い声が入り混じっている。
三人は書き直した紙を重ね、教師と区画の取りまとめ役がいる場所へ向かった。




