78:初めて見る顔
朝にも見かけた若い店員は、三人が近づいてくるのに気づくと、抱えていた木箱を店先の壁際へ置いた。
「あれ、さっきの学院生だよね。まだ調べてるの?」
年は二十歳前後だろうか。袖を肘まで捲り上げた姿は市場街の店員らしく動きやすそうで、声をかける調子にも気負いがない。
「はい。午前中に聞いたことから、少し考えてみたことがあって」
フローレンが答えると、店員は少し意外そうに眉を上げた。
「へえ。俺で分かることなら聞いてよ」
「ありがとうございます」
店先には何人か客がいたが、奥にはほかの店員もいる。仕事の邪魔にならないことを確かめてから、ルシアンが三人で作った仮案を開いた。
「午前中に、荷車が近い時間へ集中していることと、この辺りでは荷下ろし場所が近いために後続の車が進みにくくなることを確認しました」
「ああ。朝のあれか。今日は特に詰まってたな」
「そこで、すべての店の荷受け時間を同じように変えるのではなく、それぞれの事情を残しながら、ある程度分散させられないかと考えています」
紙には、仮にいくつかの時間帯へ分けた表が書かれている。店員はそれを覗き込み、ルシアンの説明を聞きながら何度か頷いた。
「つまり、朝に来てもらうのは変えなくてもいいけど、近い店に同じ頃来るのは避けようってこと?」
「大まかには、そうです。ただ、時間帯の幅がどのくらいなら実際に使えるのかは、まだ確認しているところです」
「なるほどね」
思ったよりあっさり理解してもらえたことに、フローレンは少し肩の力が抜けた。
「こちらのお店は、開店前の方が荷物を受け取りやすいと聞きました」
フローレンが午前中の記録を開く。
「今は八時台の前半に届くことが多いですよね」
「そうだね。だいたいそのくらい」
「例えば、今より三十分くらい後ろになっても大丈夫ですか?」
「三十分?」
店員は少し考え、店の奥を振り返った。
「そのくらいなら全然平気かな。九時半を過ぎると客が増えてくるから、そこまで遅いとちょっと困るけど」
「じゃあ、絶対に今の時間でないといけないわけではないですか?」
「ないない。早い方が楽だからそうしてただけ」
フローレンは紙へ新しい印を書き込んだ。
午前中に三人が「動かせるかもしれない」と考えていた店が、本当に少しなら時間を変えられる。紙の上でしかなかった仮案が、初めて現場の事情と噛み合った。
「仕入れ先へ伝える時は、何時何分まで細かく決めると大変ですか?」
レオが尋ねる。
「毎日変わるなら面倒だろうね。でも、『八時半から九時くらい』とか、その程度なら分かりやすいと思うよ。向こうの都合もあるから、本当にその通り来られるかは運ぶ人にも聞いた方がいいだろうけど」
「やっぱり、そこは御者さん側にも確認した方がよさそうだね」
「うん」
話を聞きながら、レオも紙へ何かを書き加える。
ルシアンは必要な説明を終えると、レオとともに店頭へ並ぶ商品の方へ少し場所を移した。荷受け後、どの程度の時間で商品が売り場へ出されているのかも見ておきたいらしい。
フローレンはそのまま店員と、午前中の記録について確認を続けた。
「この荷物は、届いたらすぐ売り場に出すものですか?」
「それは倉庫行き。こっちの印がついてる方はその日に出すやつ」
「じゃあ、この二つなら時間を動かしやすいのは……」
「倉庫の方だね。昼までに来れば別に困らないよ」
店員は話し慣れているのか、説明が分かりやすかった。質問を一つすると、必要な答えだけではなく、その理由まで自然に返ってくる。
四つ上の兄とそう変わらない年頃だからだろうか。それに、フローレン自身も幼い頃から家の店で大人たちが話す姿を見慣れている。初対面の年上の相手でも、こうして商いの話をすることにはそれほど緊張しなかった。
「へえ、これ君が考えたの?」
店員が、フローレンの持つ時間枠の紙を指した。
「いえ、三人で協力して考えたんです」
「すごいね。学院生ってこんなことまでするんだ」
「私たちも、こういう実習は今年が初めてで」
「へえ、初回で帳簿まで見るの? 学院って大変だなあ」
「でも、面白いです」
「お、偉い」
驚いたように目を丸くしたかと思えば、今度は大変そうだと眉を下げる。話している間にもくるくると表情の変わる青年につられ、フローレンも笑った。青年も声を立てて笑い、そのまま気安く肩を軽く叩く。
「頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
フローレンは気に留めることもなく、次に聞きたいことを記録から探した。
少し離れた店頭で、ルシアンは木箱の側面に貼られた札へ目を落としていた。
「これは朝届いたものみたいだね」
隣にいたレオが、記された時刻を指す。
「ああ。だが、さっきの話では倉庫へ入れる品も混ざっているらしい。荷受けの時間と、実際に必要になる時間は分けて考えた方がよさそうだな」
そう答えながら何となく目を向けると、若い店員がフローレンの肩へ手を触れるところだった。
ほんの一瞬、ルシアンの視線が止まった。
ノクティス家で育った感覚では、未婚の女性へあれほど気安く触れることはまずない。
とはいえ、青年は先ほどから誰に対しても人懐こく、フローレン自身も気にしていない。この市場街では、それが普通なのかもしれない。
そう結論づけ、ルシアンは札へ視線を戻した。
「ルシアン?」
「……何でもない」
「そう?」
レオは一度フローレンたちへ目をやり、それからルシアンの横顔へ視線を戻した。少し肩をすくめ、何も言わずにそのまま別の木箱へ目を移す。
ルシアンも次の札を確認した。そこに書かれた時刻を記憶すると、さらに隣の箱へ目を通す。確認できるものは一通り見終えた。
「こっちはこのくらいかな」
レオの言葉に頷き、二人はフローレンたちの方へ戻る。
歩いている間にも、青年が何か言い、フローレンが笑う声が聞こえた。
特に珍しいことではない。フローレンはもともと人と話すのが苦手なわけではないし、親しみやすい相手なら自然に笑う。
分かっている。
それなのに、さっきから妙に意識へ入ってくる。
フローレンの斜め後ろまで戻ったところで、ルシアンは小さく息を吐いた。
すぐそばでは、青年とフローレンの会話がまだ続いている。ルシアンも手元の記録へ目を落としたものの、先ほどからどうにも二人のやり取りが耳に残った。
その時だった。
「あ、なんか付いて――」
青年が何気ない調子でそう言い、フローレンへ手を伸ばした。
顔を上げたときには、その指先はもう彼女の髪へ届きかけていた。そう認識した瞬間、考えるより先に身体が動く。
――ぱし、と小さな音がした。
「ん?」
「え?」
青年が目を瞬き、フローレンも驚いたようにこちらを見上げる。
そこで初めて、自分の手へ目を落とした。
青年の手首を掴んでいる。フローレンの髪へ触れる寸前のところで、その手を止めていた。
「……?」
自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。
危険があったわけではない。青年に害意があるようにも見えなかった。ただ、フローレンの髪へ他人の手が伸びていくのが見えた。
それだけだったはずなのに、次の瞬間にはもう動いていた。
短い沈黙の中で、自分の手が青年の手首を掴んでいるという事実だけが、妙にはっきりしてくる。
ルシアンは静かに手を離した。
「……失礼した」
「え、全然いいよ。どうした?」
青年は怒るどころか、ルシアンとフローレンを交互に見て、少しだけ面白そうに眉を上げた。
何か言わなければならない。けれど、自分でも今の行動に説明がつかない。適当な言葉を探そうとしても、何も浮かばなかった。
ふと視界の端に、少し離れた場所で別の班と話している教師の姿が映った。
「アストリア」
「……え?」
フローレンが、今度は別の意味で目を丸くする。
「先生が呼んでいる」
言ってから、ルシアンは自分でも色々おかしいと思った。だが、もう取り消せない。
「あ、そうなの? じゃあ行ってきなよ。こっちはもう聞きたいことない?」
「はい。とりあえず大丈夫です。ありがとうございました」
フローレンが律儀に頭を下げる。
「また何かあったらいつでも。俺、だいたい店にいるから」
「ありがとうございます」
その横で、レオが教師の方を見ていた。
教師は、こちらなど見ていない。別の生徒が広げる紙へ普通に目を通している。
「……いや、下手……」
思わずぽそりと漏れた声に、ルシアンがレオを一瞥する。
レオは口元を押さえたまま、何も見てない聞いてないとでも言いたげにスッと視線を逸らした。
「……行こう」
それ以上ここにいる理由も思いつかず、ルシアンは歩き出した。
「う、うん……?」
「ほら、行こ行こ」
まだ納得していない様子のフローレンをレオが促し、三人は店先を離れた。
通りを一つ曲がり、さらに細い道へ入ってからも、ルシアンの歩調はいつもよりわずかに速かった。
フローレンは地図を抱えたまま、その背中についていく。先生に呼ばれているのなら、教師のいた場所へ戻るのだと思っていた。けれど、さっきから明らかに遠ざかっている。
もう一つ角を曲がったところで、とうとう足を止めた。
「ねえ、ルシアン」
「何だ?」
「先生は……?」
ルシアンの足も止まる。
「あ」
その一言に、フローレンはまた首を傾げた。
「あ、いや……」
「?」
ルシアンは一度、来た道の方を見た。
「先生がこちらを見ていたから、呼ばれたのかと思ったんだが……」
ほんの少し間が空く。
「その……気のせいだったようだ」
「そうなの?」
「ああ」
「珍しいね、ルシアンが勘違いするなんて」
「……稀にそういうこともある」
隣にいたレオが、手で顔を覆った。
「レオ?」
「……いま俺に話振らないで」
「なんか笑ってない?」
「笑ってない。全然」
声が少し震えている。
「……レオ」
ルシアンの低い声に、レオは咳払いを一つした。
「……っ、はいはい。ほら、次のお店行くんでしょ」
レオに促され、三人は再び歩き出した。ルシアンは何事もなかったように地図へ視線を落とし、フローレンも手元の記録を開きかける。
そこでフローレンは、店を離れる直前のことを思い出した。
「あ、そういえば」
片手で髪に触れる。
「お店の人、何か付いてるって言いかけてたよね」
髪の表面を撫でてみるが、何もない。
「どこだったんだろう」
「もうなさそうだよ」
レオも少し離れたところから見てくれる。
「落ちたのかな」
「たぶんね」
ここまで歩いてくる間に、春の風が何度も細い路地を抜けていた。髪についていたものも、どこかで風に攫われたのかもしれない。
「ならいいか」
フローレンはあっさり手を下ろした。
細い路地を抜ける風が、下ろしたばかりの髪をさらりと揺らす。少し離れた大通りからは、客を呼ぶ声や荷車の音が絶えず流れ込んでいた。
そんな賑やかさの中で、ふと、先ほど聞いた小さな音が思い出される。
ぱし、と青年の手首を掴んだルシアンの手。その向こうに見えた横顔。見慣れているはずの横顔なのに、その瞬間だけはどこか違って見えた。
怒っていたのだろうか。けれど、青年を睨みつけていたわけではない。声を荒らげてもいない。
ただ、紫の瞳がいつもよりわずかに鋭かった。
普段の穏やかな表情とは違う、どこか張りつめた横顔。その眼差しには、いつもより静かな強さがあった。
――初めて見る顔だった。
ほんの一瞬だったはずなのに、その横顔だけが妙に鮮明だった。
途端、胸の奥が急に騒がしくなったような気がした。落ち着こうとするほど、そのざわめきばかりが意識に残る。
フローレンは小さく瞬きをした。
きっと、突然のことが重なり驚いたのだろう。
ルシアンがいきなり人の手首を掴むなんて、想像もできなかったから。急に昔みたいに「アストリア」なんて呼ばれたから。――あんな顔をすることがあるなんて、今まで知らなかったから。
「フローレン?」
レオに呼ばれ、顔を上げる。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
答えてから、もう一度ルシアンを見る。
今はもう、いつもの顔をしていた。地図を見ながら、次に確認すべき店を考えている。
それなのに、さっきの横顔だけが、そこから切り取られたようにふと浮かんだ。
「次は、朝じゃないと困る店にも聞くんだったよね」
フローレンが言うと、ルシアンもこちらを見る。
「ああ。それと、御者側にも時間枠の幅を確認したい」
「じゃあ行こうか」
レオがいつも通りの調子で先へ進み、二人もそのあとに続いた。
細い路地の向こうには、午後の市場街の賑やかさが広がっている。
髪についていたはずのものは、もうどこにも残っていない。それなのに、あの一瞬だけは、なぜかフローレンの中から消えずに残っていた。




