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77:動かせる余地


 昼を告げる鐘が市場街の向こうから聞こえてくる頃には、朝から続いていた実習もいったん休憩になった。


 荷受け通りを離れて表通りへ出ると、空気が少し違う。車輪の軋む音は遠ざかり、代わりに客を呼ぶ声や食器の触れ合う音が耳に入ってくる。軒先から漂う焼いた肉や香辛料の匂いに、レオが大きく息を吸った。


「……やっと市場街らしい匂いがする」

「さっきまでだって市場街だっただろう」

「俺の中で荷車と木箱の街になりかけてた」


 真顔でそう言うレオにフローレンは思わず笑いながら、通りの先へ目を向ける。


「この辺なら、すぐ食べられるものも多いよ。あっちの角にパンのお店があって、その隣で焼いたお肉も売ってる」

「詳しいね」

「家族で来たことあるから。あと、あの店の焼き菓子もおいしいよ」

「いい情報を得た」


 レオがぱっと顔を上げたので、ルシアンが呆れたように目を細める。


「まだ昼食の話だぞ」

「大事な情報じゃん」

「さっきまでの聞き取りより真剣そうだね」

「そんなことないよ。どっちも真剣」


 言いながらも視線はすでに店先へ向いている。


 三人はそれぞれ食べるものを選び、表通りから少し外れた小さな広場へ移った。噴水の縁や石造りの腰掛けには、同じように休憩へ入った学院生や市場の働き手が座っている。


 フローレンが選んだのは、薄いパンに鶏肉と葉野菜を挟んだものだった。レオはそれより一回り大きな肉入りのパンを二つ。ルシアンは香草を練り込んだパンと温かいスープを持っている。


「二つも食べられるの?」

「こんなの朝飯前だよ。これは昼食だけど」


 通りの向こうでは、荷物を載せた荷車がゆっくりと交差点を曲がっていく。朝に見ていた裏通りほどではないが、市場街全体には絶えず人と物が動いていた。


「それで」


 早くも一つ目を食べ終えたレオが、二つ目の包みを開きながら言った。


「午後、どうする?」

「休憩中くらい課題を忘れてもいいんじゃないか?」

「それ、ルシアンが言う?」

「僕を何だと思ってるんだ」

「資料広げながら休憩してそうな人」

「……否定しづらいな」


 少し間を置いた返事がおかしくて、フローレンはまた笑った。


 とはいえ、頭の片隅には自分も同じことが残っていた。


 原因は見えた。荷物の総量ではなく、近い店へ似た時間に荷車が集中していること。さらに荷下ろし場所の位置が近いため、一台が止まれば奥へ進む車まで待つことになる。


 けれど、分かったからといって全部の店へ「時間をずらしてください」と言えば済むわけではない。


「先生が言ってたこと、ちょっと考えてた」


 そう言うと、レオが二つ目のパンから顔を上げる。


「動かせるところと、動かせないところ?」

「うん」


 フローレンは膝の上に置いていた紙袋を小さく畳んだ。


「朝じゃないと困る店もあったでしょ。でも、別に朝じゃなくてもいい店もあった」

「開店前の方が楽だから朝にしてるだけ、ってところもあったね」

「だったら、全部の時間を変えるんじゃなくて……朝の中で少しずつずらすこともできるのかな」

「近い店が、同じ頃に来ないように?」


 ルシアンに聞かれ、フローレンは頷いた。


「うん。朝じゃないと困る店は朝のままでも、重ならないようにできるかもしれない」


 レオが二つ目のパンを食べる手を止めた。


「でも、何時何分って細かく決めたら御者さんが大変そうじゃない?」

「あ……確かに」

「一台で一軒だけ回ってるとは限らないし。前の道が混んだら、細かい指定は守れないかも」

「それもそうだね」


 せっかく一つ形が見えたと思ったのに、すぐ別の条件が現れる。


 けれど、そこで考えが終わるわけではなかった。


「じゃあ、どのくらいなら動かせるのかも聞かないと分からないね」

「まずは実際の記録に当ててみよう」


 ルシアンがそう締めたところで、休憩終了を知らせる声が広場の向こうから聞こえた。

 


 午後の実習が始まると、三人は再び荷受け通りの端に場所を借りた。


 午前中に使っていた地図と記録を広げる。ただし今度は、原因を探すためではない。


「まず、絶対に朝じゃないと困る店は、朝のまま残そう」


 ルシアンの言葉に、フローレンは聞き取りの紙を引き寄せた。


「この店。開店前の仕込みに使うものが来る」

「こっちも。その日の売り場に出す商品だから、遅いと困るって」


 レオが別の印を指す。


 フローレンは該当する店の横へ小さな丸をつけた。もう一軒、さらに一軒と確認していくうちに、同じように「朝」を希望していた店の事情が少しずつ分かれていった。


 開店前までに受け取りたい店もあれば、開店前の方が都合はいいものの、多少なら時間を動かせそうな店もある。その一方で、午前中であれば問題のないところもあった。


「こうして並べると、思ったより動かせそうなところあるね」

「全部は無理だけどな」

「全部じゃなくていいんだよね」


 動かせないものは残したまま、その周りにあるものを動かせばいい。


「次は場所だな」


 ルシアンが地図を引き寄せる。


「同じ時間帯でも、少なくとも荷下ろし場所が離れている店同士なら、近い店ほどは影響しにくい。問題は、荷下ろし場所が近い店が同じ時間に重なることだ」

「じゃあ、この三軒は分けたい」


 フローレンが入口側の印を指した。


「朝の記録で、八時二十分、二十五分、三十五分に来てたところ」

「ここ、三つとも絶対にその時間じゃないと駄目?」


 レオが聞き取りの紙を探す。


「一軒は朝必須。もう一軒は開店前の方が便利。最後は午前中ならいいって」

「なら、一つは動かせそうだね」


 フローレンは三つの印を見つめた。


「朝じゃないと困るところは残す。午前中ならいいところを後ろへずらす。それだけでも、三台が十五分の間に来るのは避けられる」

「もう一軒は?」

「開店前の方がいいけど、絶対ではない……」


 少し迷う。単純に後ろへ動かせば、今度は開店後の仕事が増えるかもしれない。


「そこは店に聞いた方がいいかも」

「そうだな。こちらで勝手に『動かせる』と判断するのは違う」


 ルシアンの言葉に、フローレンは印の横へ小さく疑問符をつけた。


「確認が必要なところ、ってこと?」


 レオが紙を覗き込む。


「うん。今ある記録だけじゃ分からないから」

「それでいいと思う」


 ルシアンも頷いた。


「分からないところを無理に埋めずに、確認することとして残しておけばいい」


 フローレンはもう一度、紙の上の疑問符を見る。


 今ある材料だけで決められないなら、勝手に答えを作らず、聞きに行けばいい。


「じゃあ、これも確認しよう」


 フローレンは別の店の横にも疑問符をつけた。


「ここは『できれば朝のうちに』とは聞いたけど、どこまでなら遅くしても大丈夫なのかは聞いてない」

「いいね。確認する店が見えてきた」


 レオが自分の紙へ店名を書き出していく。


「こっちは御者側にも聞きたいな。時間をずらすなら、どのくらいの幅があれば困らないか」

「それと、この市場へ来る前やあとにも、ほかの配達があるのかも」


 フローレンも続けた。


「店だけ見て順番を決めても、御者さんがその通りに回れないなら意味ないよね」

「そうそう」


 話しながら、地図の上に新しい印が増えていった。


 ただ時間をずらす。


 そんな一言だった案が、少しずつ現実の事情を持ち始める。


「でもさ」


 しばらく地図を眺めていたレオが、中央に置かれた紙へ指を向けた。


「仮に動かせる店が分かっても、一軒ずつ『八時十分』『八時四十分』って細かく決めるの、大変じゃない?」

「取りまとめる人が?」

「それもあるし、店も御者も。毎日その時刻にぴったり合わせなきゃいけないなら、たぶん大変だよ」

「それはたしかに」


 決まりが細かすぎれば、守るための手間が増える。混雑を減らすために、今度は別の面倒を作ってしまう。


 しばらく紙を見つめているうちに、フローレンは空いている余白へ指先を滑らせた。


「じゃあ、一軒ずつ時間を決めるんじゃなくて……時間に幅を作るのはどうかな」

「時間枠にするのか」


 ルシアンが顔を上げる。


「うん。何時ちょうどじゃなくて、この辺りの時間に来てもらう、くらいにするの」

「それなら御者側にも多少の余裕を残せるな」


 レオも紙を覗き込んだ。


「今の『朝』よりは狭いけど、ぴったり何時ってほどでもない感じ?」

「そう」


 フローレンは新しい紙を一枚出し、試しに線を引いた。


「じゃあ仮に、八時から八時半、八時半から九時、九時から九時半……?」

「三十分が現実的かはまだ分からないけど、考え方としてはそんな感じだね」

「朝じゃなくてもいいところは、その後ろにも回せるし」


 仮の枠へ、店の名前を一つずつ置いてみる。


 最初に朝でないと困る店を入れ、そのあとで荷下ろし場所が近い店が同じ枠へ重ならないように分ける。時間を動かしやすい店は、空いているところへ移した。


「……あ」


 数軒入れただけで、朝の記録とは違う並びになった。


 十五分ほどの間に三台集まっていた入口側の店が、それぞれ別の枠へ散っている。


「これなら、少なくとも同じ時間帯には集まりにくいね」

「紙の上ではね」

「紙の上では」


 フローレンも繰り返した。


 そこが大事だった。


 記録だけならきれいに並べられる。けれど、実際にその時間へ動かせるのかは、店や御者に聞かなければ分からない。


「一度、いくつかの店に見せてみるか」


 ルシアンは仮に作った表を見ながら言った。


「この分け方なら対応できそうか。難しいならどこが問題になるのか。その方が次に考える条件も分かる」

「御者さんにもだね」

「ああ」


 レオが候補の店を数え始める。


「全部回ると時間足りないし、種類を分けようか。朝必須の店、動かせそうな店、午前中ならいつでもいい店。それぞれ一軒か二軒」

「荷下ろし場所が近い店も入れたい」


 フローレンが地図上の入口側を指す。


「実際にそこが動かせたら、一番変わりそうだから」

「なら、この辺りだな」


 ルシアンが一軒を示した。


 朝から何度も見ていた、入口に近い店だった。荷下ろし場所は混雑している一角の中にあり、店員への聞き取りでは「開店前の方が受け取りやすい」という理由で朝を希望している。


「できれば朝、のところだ」

「うん。ここが少し動かせるなら大きいかも」


 その隣の店も候補に入れる。


 紙の上で考えていたものを、今度は実際に使う人へ持っていく。そう思うと、フローレンの胸の奥に小さな高揚が生まれた。


 学院の机の上で解く問題なら、答えが合っているかどうかは最後の頁を見れば分かる。


 けれど、ここには答えの載った頁がない。店の人が困るかもしれないし、御者には別の都合があるかもしれない。考えていなかった条件が、また出てくるかもしれない。


 それでも、今朝よりはずっと先が見えている。


「なんか楽しくなってきた」


 思わず口にすると、レオが顔を上げた。


「今?」

「うん」

「朝から割と楽しそうだったけど」

「そういう意味じゃなくて」


 フローレンは地図を指で押さえる。


「さっきまでは原因を探してたでしょ。今度は、見つけたものを使って考えるんだなって」

「ああ」


 ルシアンが、ほんの少し笑った。


「フローレンはそっちの方が好きそうだな」

「そうかな」

「条件が増えるほど楽しそうに見える時がある」

 

「それ、普通は嫌がるところじゃない?」


 レオが呆れ半分、面白がるように二人を見比べる。

 

「僕は嫌いじゃないが」

「なんだ、ルシアンも同類じゃん」


 そうまとめられ、二人で顔を見合わせる。


「同類らしい」

「……否定できないかも」


 そんな話をしているうちに、仮案の紙はだいぶ埋まっていた。


 まだ正式な提案と呼べるものではない。時間枠の幅も決まっていないし、店側が受け入れられるかも分からない。御者が実際に回れる順番かどうかも確認していない。


 けれど、何を聞けばいいのかは分かる。


 ルシアンが紙を一度揃え、三人の間へ置いた。


「まず、この三軒から聞こう。僕は時間枠の考え方を説明する」

「じゃあ俺、店側の都合を聞く。何が嫌かとか、困りそうなところ」

「私は今の到着記録を見せる。それで、どこを動かしたら重なりが減るか説明するね」


 話すことを決めると、三人は紙と地図をまとめて立ち上がった。


 

 午後の市場街は、朝とはまた違う忙しさを見せていた。表通りでは客足が増え、店先から声が飛び交う。その一方で、荷受け通りの列は朝より短くなっている。


 フローレンは地図と仮案を胸元へ抱えた。さっきまで紙の上だけにあったものを、これから実際の人へ見せに行く。


「最初はどこ?」


 レオに聞かれ、ルシアンが入口側の一軒へ視線を向けた。


「まずは、ここだな」


 三人が向かった先では、朝にも見かけた若い店員が、荷物の入っていた木箱を片付けているところだった。

 

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