73:市場での実習
春も半ばを過ぎ、朝の空気にも少しずつ柔らかな暖かさが混じるようになった。
その日の四年生特進クラスは、いつもの教室ではなく学院の正門前に集まっていた。
「今日は市場街で実地課題を行う」
教師の声に、並んだ生徒たちの視線が集まる。
学院から歩いて半刻ほどのところにある市場街は、日用品から食料、布、薬草、工芸品まで、さまざまな品が集まる大きな商業区だった。
フローレンも家族と何度か訪れたことがある。けれど、買い物ではなく学院の課題として向かうのは初めてだ。
「対象は、中央通り東側の荷受けだ。ここ数か月、午前中を中心に荷下ろしの遅れが増えている」
教卓代わりの台に広げられた地図と資料が、前から順に手渡されていく。
「商店側からは、届いた荷物を受け取るまでに時間がかかるという声が出ている。運送側からは、荷下ろし場所が空くまで待たされるという声もある」
フローレンは配られた紙へ目を落とした。
中央通りの東側には大小さまざまな商店が並び、その裏手に荷受け用の細い道が通っている。荷車はそこへ入り、それぞれの店の荷下ろし場所で荷を降ろすらしい。
「今回は三人一組。原因を調べ、改善できそうな点があればまとめること。現場の仕事を止めない範囲で、店や運送業者への聞き取りもして構わない」
続いて組み分けが読み上げられる。
「ノクティス、ルベライト、アストリア」
名前が三つ続いた瞬間、隣にいたレオが小さく笑った。
「今度こそ三人だ」
「五つに割れる心配はないね」
フローレンが返すと、ルシアンもわずかに口元を緩める。
「三つには割れるかもしれないがな」
「あ、それはある」
「そこは否定しないんだ」
三人の声が重なったところで、先を歩き始めた教師に合わせて列が動いた。
学院を出てしばらくすると、石造りの建物が続く道の向こうから、少しずつ街の音が近づいてきた。
車輪が石畳を転がる音。店先から客を呼ぶ声。どこかで木箱を積み替える乾いた音。風に乗って、焼き菓子の甘い匂いと香辛料の強い香りが入り混じる。
市場街へ足を踏み入れる頃には、学院の静かな廊下とはまるで違う賑わいに包まれていた。
「久しぶりに来た」
左右の店先へ忙しく視線を動かしながら、レオがどこか楽しそうに呟く。
「俺もだな」
「私は少し前に家族と来たよ」
フローレンが答えながら歩いていると、正面から大きな籠を抱えた店員がやってきた。三人は自然に道の端へ寄り、その人を先に通す。
「今日は買い物じゃないけどね」
「終わったら寄る時間あるかな」
「課題が終わればな」
迷いのない返事に、レオが肩をすくめた。
「真面目だねえ」
「課題で来ているからな」
そんなやり取りをしながら中央通りを進み、やがて教師が一本の細い脇道を示した。
「ここからが今回の対象区域だ」
表通りの賑わいから一歩入っただけで、景色は大きく変わった。
道幅は荷車二台がすれ違えるかどうかというほどで、その両側には商店の裏口と倉庫が並んでいる。店ごとに設けられた荷下ろし場所には木箱や麻袋が積まれ、何人もの店員が慌ただしく荷を運んでいた。
少し先では、二台の荷車が前後に並んで止まっている。そのさらに後ろにも、もう一台。
「……混んでるね」
「ああ」
ルシアンも通りの奥へ目を向ける。
前方の荷車からは、大きな木箱が一つずつ降ろされていた。荷下ろし場所にはすでに別の荷物が積まれていて、店員たちがそれを奥へ運びながら、空いた場所へ次の箱を置いている。
後ろの荷車は動けない。
道幅が狭いため、前の一台が作業を終えるまで待つしかないようだった。
「荷物、多いなあ」
レオの視線の先では、ちょうど別の店の裏口からも、いくつもの麻袋が運び込まれている。少し離れた場所には樽が積まれ、その横にも荷車が止まっていた。
ぱっと見ただけなら、原因は分かりやすい。
「運ぶ量が増えたのかな」
フローレンは配られた資料を開いた。そこには、対象区域で扱われた月ごとの荷物量が載っている。
「でも……」
数字を追っていくうちに、自然と眉が寄った。
「どうした?」
隣から覗き込んできたルシアンへ、該当する欄を見せる。
「去年の同じ時期と比べても、そんなに増えてない」
「本当?」
反対側からレオも資料を覗き込んだ。
「うん。少しは増えてるけど……これだけ混むほどかな」
月ごとの総量は、確かに緩やかに増えている。けれど急に倍になったわけでもない。前年と比べても、大きく違うとは言いづらかった。
「荷物の量だけが原因なら、もう少し分かりやすく増えていそうだな」
資料と目の前の通りを見比べながら、ルシアンが静かに言う。
「じゃあ、何でこんなに詰まってるんだろ」
三人が道の奥を見ている間にも、一台目の荷車から最後の木箱が降ろされた。ようやく前へ進めると思ったところで、店員が空の木箱を荷台へ積み始める。
後ろで待っていた御者が、少し困ったように手綱を持ち直した。
その様子を眺めていたレオが、ふと目を細める。
「ちょっと話、聞いてみようか」
「荷車の人に?」
「うん。実際に列で待ってる人なら、どこで詰まることが多いのか分かってそう」
すぐに御者の方へ向かおうとしたレオへ、ルシアンが一言だけ念を押す。
「作業の邪魔にならないようにしよう」
「もちろん」
その時、近くの店から壮年の男性が出てきた。腰に帳簿入れを下げ、荷下ろしの様子を見ながら店員へ短く指示を出している。
教師が声をかけると、男性はすぐに足を止めた。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。学院の方ですね」
生徒たちを一度見渡したあと、穏やかな表情で頷く。
「私はこの区画の取りまとめをしています。何か確認したいことがあれば、仕事の手が空いている者へ声をかけてもらって構いません」
教師が学院側として礼を返し、その短いやり取りが終わる。するとルシアンが自然に一歩前へ出た。
「ノクティスと申します。早速ですが、この区域全体についていくつか伺ってもよろしいでしょうか。混雑が増え始めた時期と、特に遅れが出やすい時間を確認したいのですが」
「ああ、もちろんです」
男性はすぐに応じた。
「遅れが目立つのは朝ですね。特に開店前から昼前まで。少し前まではここまでではなかったんですが」
「荷物そのものの量が急に増えた、という認識はありますか?」
「いや。繁忙期なら増えますが、今はそこまででもありません」
「では、最近になって荷受けの方法や時間に何か変化は?」
「ううん……」
男性は腕を組み、通りの奥へ目をやった。
「店ごとにはあるかもしれませんが、区域全体で決めた変更はありませんね」
「分かりました。ありがとうございます」
相手が答え終わるまで言葉を挟まず、最後に短く礼をして下がる。
フローレンは、その横顔を何となく見ていた。
いつものルシアンと、別人というわけではない。声を荒らげることもなく、聞きたいことを順番に確かめていくところも変わらない。
それなのに、大人を相手に話している今は、学院で見る時より少しだけ輪郭がはっきりして見えた。立ち姿も、言葉を選ぶ間も、いつもよりどこか大人びて映る。
「――フローレン?」
不意に名前を呼ばれ、はっとした。いつの間にこちらを向いたのか、紫の瞳とまっすぐ目が合う。
「……え?」
「どうした?」
何を聞かれているのか分からず瞬きをすると、ルシアンが少しだけ首を傾げた。
「こちらを見ていたから」
「あ……えっ、と」
言われて初めて、自分が思ったより長く視線を留めていたことに気づく。何でもない、と答えればいいはずなのに、一瞬だけ言葉が遅れた。
「……ルシアン、大人の人と話すの慣れてるんだなって」
ようやく口にすると、ルシアンがわずかに目を瞬いた。
「そうか?」
「うん。なんか、いつもとちょっと違って見えた」
言い終えてから、自分でも少し妙な言い方をした気がした。
「公爵家なら、ああいうの多そうだもんね」
横から何気なく入ったレオの言葉に、ルシアンもすぐ頷いた。
「まあ、そうだな。領地でも商会の人間と話すことはある」
それ以上追及する様子もなく、手元の地図へ視線を戻していく。
フローレンも資料へ目を落とした。けれど、さっきまで見ていた数字へ意識を戻すまでに、なぜかほんの少しだけ時間がかかった。
やがてレオが、先ほどから列の中で待っている御者へ目を向ける。
「じゃあ俺、待ってる御者さんに話聞いてくる」
「僕は取りまとめの方から、荷受け場所の使い方をもう少し聞いてみる」
二人がそれぞれ調べる先を決めるのを聞きながら、フローレンは手元の記録と通りに並ぶ店を見比べた。
「私は……店ごとの記録、見てみたい」
「店ごと?」
「うん。全部合わせた量じゃなくて、どの店に、いつ届いてるのか」
その言葉を受け、ルシアンが少し考えるように地図と記録を見比べる。
「確かに、総量だけでは見えない偏りがあるかもしれないな」
「俺も、何時くらいから待つことが多いか聞いてみるよ」
レオの視線は、すでに待機している御者の方へ向いていた。
三人は一度顔を見合わせ、それぞれ別の方向へ動き出す。
フローレンは取りまとめの男性へ声をかけ、店ごとの荷受け記録を見せてもらえないか尋ねた。差し出された資料を受け取りながら、もう一度道の奥へ目を向ける。
通りにはまだ、荷車の車輪が石畳を軋ませる音が響いている。荷物が多いから混んでいる。一見すれば、それだけにも見えた。
けれどフローレンは、店ごとに分けられた記録へ目を落としてから、もう一度道の奥へ目を向けた。
同じ量でも、集まる場所と時間が以前と変わっていれば、見えてくるものも変わるかもしれない。




