71:でも……全部?
それからしばらく、机を囲む声は少なくなった。
紙をめくる音と、ペン先が走るかすかな音が重なる。それぞれが自分の資料へ向かいながら、必要な時だけ短い質問が飛んだ。
「フローレン、混雑時間って全部同じ人数?」
「ううん。午前の二回目が一番多いよ。午後は少し減る」
「じゃあ、一番多いところを基準にした方がいいかな」
「たぶん。その方が余裕を見られると思う」
ミラが返事を聞きながら計算欄へ数字を書き足していく。その向かいでは、フェンも改修費の資料と部品表を行き来していた。
「フェン、制御を切り替えるための部品代ってこっちに入ってる?」
「入ってる。追加で必要なのは設定用の術式盤だけ」
「分かった」
レオは利用者から寄せられた意見をいくつかの束に分け直している。
「緊急扱いにするの、器具の破損だけじゃなくて医務室関係も入れた方がいい?」
「入れるべきだろうな」
全体の構成を書いていたルシアンが、手元の運用規定へ目を落とした。
「ただ、『緊急』の範囲を広げすぎると通常の運用と変わらなくなる。具体例を挙げて、最終判断は担当職員に委ねる形がいいと思う」
「なるほど。じゃあ、その書き方にする」
五人が分担していた作業が、少しずつ一つの提出案へ集まっていく。
フローレンも利用記録を見比べながら、最も混雑する時間帯へ新しい運行方法を当てはめていた。
一度に乗れる人数と、現在の平均往復時間。人を優先した場合の速度。そこへ緊急搬送が加わった時に、どれだけ時間が延びるのか。
必要な数字を順番に拾い、計算していく。
以前なら、一つ数字を使うたびに、その意味を確かめるため元の資料へ戻っていたかもしれない。今は、何を求めるためにその数字を使っているのかを見失わずに追えている。
「……できた」
最後まで書き終え、もう一度最初から計算を辿る。
「混雑が一番ひどい時間でも、通常なら平均三分くらいまで減らせると思う」
「今の五分以上から?」
資料越しにフェンが顔を上げた。
「うん。ただ、緊急の荷物が入った回は四分くらいになる」
「それでも今より短いな」
「たぶん。でも、これは一番混む時間を基準にしてるから、他の時間ならもう少し短くなると思う」
「数字、見せてくれ」
ルシアンに言われ、フローレンは計算を書いた紙を渡した。
受け取ったルシアンは、利用人数と一度の定員を確かめ、運行時間を順に当てはめていく。途中で一度だけ元の利用記録にも目を移し、しばらくして紙を返した。
「問題ないと思う。緊急搬送が入った場合まで分けてあるのも分かりやすい」
「よかった」
確認してもらうこと自体は、いつものことだった。
三年生の頃も、ルシアンには何度も自分の考えを見てもらった。間違いだけを探すのではなく、どこからどう考えたのかを一緒に辿ってくれる。
だから、その時は特に気に留めなかった。
「こっちも出たよ」
ミラが計算を終えた紙を持ち上げる。
「一日の魔力消費。通常時の無駄な上下が減る分を入れると、今より七パーセントくらい増える計算」
「上限内だな。計算式は?」
「ここ」
差し出された紙を、ルシアンが受け取る。
フローレンは自分の資料へ戻りかけ、ふと手を止めた。
ルシアンはミラの出した数字だけを確認しているのではなかった。使った数値を設備仕様と照らし合わせ、運行回数の想定まで最初から辿っている。
「大丈夫そう?」
「ああ。切り替え時の消費も入っている。これでいい」
「じゃあ、費用も出た」
ほとんど間を置かず、今度はフェンの紙が机の中央へ滑ってくる。
「術式盤を追加しても上限の八割くらい。保守費も今と大きく変わらない」
「作業時間は?」
「五時間半。余裕を見ても六時間」
「休業日の半日で収まるな」
そこで終わるのかと思った。
けれどルシアンは、その紙も手元へ寄せた。
改修費の内訳から部品ごとの価格、必要な作業人数、停止時間まで、元の資料と一つずつ照らしていく。
フローレンは小さく首を傾げた。
自分の計算も見ていた。
ミラの計算も、今はフェンの費用も。
「レオ、そっちは?」
「だいたいできた」
レオがまとめた紙を中央へ差し出した。
「通常の荷物は授業間を避けてもらう。緊急の器具と医務室関係は例外。あと、授業中に急に交換が必要になった教材も」
「例外の判断は?」
「昇降台の担当職員。毎回申請書を出してたら遅いから、その場で判断してもらう。ただし、記録はあとで残す」
「曖昧になりそうなものは?」
「『急いでるから』だけじゃ駄目。授業や安全に直接支障が出るもの、って書いてる」
「それなら運用しやすそうだな」
レオから紙を受け取ったルシアンは、今度は文章を最初から読み始めた。
そこでようやく、フローレンの意識が自分の資料から完全に離れた。
最初に資料を分けた時、ルシアンは全部を自分で読もうとはしなかった。
利用記録はフローレン、費用はフェン、設備仕様はミラ、利用者の意見はレオへそれぞれ任せていた。
今だって、途中から誰かの仕事へ口を出しているわけではない。
それなのに、仕上がったものは最後にすべて、ルシアンの手元を通っていた。
「……よし」
やがて、ルシアンが顔を上げる。
「これで必要な材料は揃った」
机の中央にある提出用の紙には、すでに案の骨組みができている。改善の目的から現在の問題、通常時と混雑時の運行、緊急搬送の例外。その下へ費用や魔力消費、停止時間、待ち時間の改善見込みが順に入っていった。
五人がそれぞれ出したものが、一つの案として形になっていく。
「かなりいいんじゃない?」
ミラが少し身を乗り出した。
「条件も全部入ってる」
「予算も余裕あるしな」
フェンも満足そうに提出案を眺める。
レオは提出案を上から下まで、もう一度ゆっくり目で追った。
「これなら、出せると思う」
「もう迷わない?」
「……迷いはするけど。誰かには譲ってもらってるし」
「でも今度は、そうする理由がある」
「うん」
レオは三枚目の案へ視線を戻し、小さく頷いた。
「だから、これなら決められる」
教室では、他の班もそろそろ提出案をまとめ始めていた。教師が机の間をゆっくり歩き、それぞれの途中経過を確かめている。
やがて五人のところまで来ると、机の中央に置かれた紙へ目を落とした。
「まとまったか?」
「はい」
ルシアンが答える。
「見せてみろ」
教師は提出案を手に取り、上から順に目を通していった。
「通常時は行き先をまとめ、授業間だけ人を優先する。緊急搬送は例外……」
視線が待ち時間の欄で止まる。
「三分程度まで短縮できる見込みか。この数字は?」
「アストリアが計算しました」
ルシアンが答えると、教師はそのままフローレンへ顔を向けた。
「アストリア、説明して」
「はい」
フローレンは自分の計算用紙を手元へ引き寄せる。
「一番利用者が多い時間帯を基準にしました。通常なら平均三分くらいまで減らせると思います。ただ、緊急搬送が入った場合は通常速度へ戻すので、その回は四分くらいになる想定です」
「他の時間帯は?」
「利用者が少ないので、これより短くなると思います」
「なるほど」
教師は頷き、次の欄へ進んだ。
「魔力消費は七パーセント増。これは?」
「ミラです」
今度はミラを見る。
「通常時に行き先をまとめることで、無駄な上下を減らします。その分を含めて計算すると、混雑時間に速度を上げても、一日の総量では七パーセント程度の増加に収まります」
「切り替え時の消費も入っているか?」
「はい。そこも含めています」
「費用は上限の八割。停止時間六時間」
「それはぼくです」
フェンが自分から答え、改修資料の該当箇所を示した。
「制御部の調整と術式盤の追加が中心なので、設備そのものを交換する必要はありません。作業時間は五時間半ほどですが、余裕を見て六時間としています」
「分かった」
教師の視線が最後に運用欄へ移る。
「緊急搬送の基準は?」
「俺です」
レオが紙の一部を指した。
「授業や安全に直接支障が出るものを例外にしてます。毎回申請するより、その場にいる担当職員に判断してもらって、あとから記録を残す形です」
「『急いでいる』だけでは通さない?」
「はい。それだけだと、何でも緊急になっちゃうので」
教師が小さく頷いた。
それぞれの説明を聞き終えてから、提出案へもう一度目を落とす。
「よくまとまっている。誰か一人の案をそのまま採ったわけでもないし、それぞれの資料もきちんと使えている」
教師はそこで一度、五人を見渡した。けれど、提出案はまだ手元に置いたままだった。
「ノクティス」
「はい」
「お前の担当は?」
「全体の構成と、安全基準、運用規定との照合です」
「そうか」
教師は提出案へ目を落とした。
「提出前の確認は、どこまでした?」
ルシアンは少し考えた。
「各担当が出した結論と、その根拠まで一通り確認しました。計算については、元の資料から辿り直しています」
「全員分か?」
「はい」
教師はすぐには何も言わず、机上に広がる資料へ一度視線を落とした。
「全体をまとめるなら、各担当が出した結論と、それらが互いに矛盾していないかを把握するのは当然だ」
ルシアンが静かに頷く。
「だが――アストリアが三分という数字をどう出したか。ミラが魔力消費をどう計算したか。フェンが費用と作業時間をどう積み上げたか。ルベライトが例外条件をどう線引きしたか」
教師の指先が、提出案の四つの欄を順に辿った。
「そこまで、任せた相手と同じように一から辿り直す必要があるかは別だ。アストリアが自分の計算を説明できるなら、その細部までお前が把握していなくても班としては困らない」
ルシアンの表情が、わずかに止まった。
「任せた仕事を、自分でも同じだけ確認する必要があるのか。そこは一度考えてみてもいい」
ルシアンはすぐには答えなかった。
「……はい」
少し遅れて返事をすると、教師はそれ以上続けず、次の班へ向かった。
机の周りに、しばらく沈黙が残る。
フェンは提出案へ視線を落とし、ミラも何か考えるように口を閉じていた。レオは何も言わず、ルシアンの横顔を見ている。
フローレンは、自分の計算用紙へ目を落とした。
さっきルシアンが、一つずつ数字を辿っていた紙。
ミラの計算も、フェンの費用も、レオの条件も。
途中では任せていたのに、最後には全部、自分でも確かめていた。
「……ルシアン」
「ん?」
呼ぶと、いつもと変わらない紫の瞳がこちらを向く。
「最後に、全部見てたよね」
「ああ」
返事はすぐだった。
「提出するものだから、確認は必要だろう」
「うん」
それ自体は、フローレンにも分かる。
少し迷ってから、もう一度口を開いた。
「でも……全部?」




