69:選べない
それから数日後。
四年生の授業にも少しずつ慣れ始めた頃、教師はいつもより厚い資料の束を抱えて教室へ入ってきた。
「今日は、すでに使われている設備の改善案を出してもらう」
教卓へ資料が置かれる。
「対象は中央棟の共用昇降台だ」
その名前に、教室のあちこちから小さな声が上がった。
中央棟の昇降台は、生徒なら誰でも一度は利用したことがある。人を乗せた台が魔力によって上下し、地上階から上階までを繋いでいる。教師や職員も使い、教材や実習器具を載せた運搬台が乗り込むことも珍しくない。
故障しているわけではない。ただ、授業の切り替わる時間になると利用者が集中し、何度か待たなければ乗れないことがあった。
「改善してほしいのは、利用が集中した時の待ち時間だ。ただし――」
教師が黒板へ条件を書いていく。
改修費には上限がある。
魔力消費量の増加は、現在の一割以内に収める。
安全基準は下げない。
生徒だけでなく、教師、職員、荷物の運搬にも使える状態を維持する。
設備を停止できるのは、休業日の半日まで。
「設備そのものを新しく作り直す案はなしだ。今あるものを、条件の範囲で改善すること」
最後に、教師は振り返った。
「五人一組。一班につき、提出する改善案は一つだ」
すぐに班分けが読み上げられる。
「ノクティス、ルベライト、アストリア、フェン、ミラ」
フローレンは顔を上げ、思わず後ろを振り返った。斜め後ろのルシアン、そのさらに向こうにいるレオも同じように顔を上げている。レオと目が合うと、すぐに楽しそうな声が飛んできた。
「早速だね」
席を動かしながら、レオが言う。
「この前、三人で同じ班になったらって話したばっかりなのに」
「今回は五人だがな」
ルシアンが資料を受け取りながら答えた。
「二人増えれば、三つに割れずに済むかもしれない」
「五つに割れたりして」
「それは困るね」
フローレンが笑うと、向かいへ椅子を寄せたミラも口元を緩めた。艶のある焦茶色の髪を太いカチューシャでまとめていて、すらりとした背丈はフローレンより少し高い。
「始める前から割れる話をしてる班、たぶんここだけだよ」
黒髪を短く整えたフェンが、切れ長の目を少し細めながら空いた席を引き寄せる。
「とりあえず資料見よう。思ったより多い」
机の中央へ置かれた資料は、五つの束に分かれていた。
昇降台の利用記録。
利用者から寄せられた意見。
改修費と保守に関する資料。
魔力消費量と設備仕様。
現行の運用規定と安全基準。
ルシアンはそれらを一度見渡したあと、全部を自分の方へ寄せることはしなかった。
「分けよう。その方が早い」
「じゃあ私、利用記録見たい」
フローレンが一束を引き寄せると、レオもその隣から利用者の意見を抜き取った。
「俺、利用者の意見」
向かいでは、フェンが改修費と保守の資料へ手を伸ばす。
「ぼくは費用を見る」
「じゃあわたしは設備仕様と魔力消費」
ミラが残りの表題を確かめると、最後に残った運用規定と安全基準へルシアンが手を置いた。
「なら僕はこれを見る。気になるところがあれば、先に印をつけておいてくれ」
それぞれが頷き、五つの資料が机いっぱいに広がった。
フローレンは利用記録を開いた。最初に載っているのは、一日の利用人数だった。
朝、午前、昼、午後。
曜日ごとの違いも、階ごとの利用数も記録されている。数字を順に追っていくうちに、すぐに偏りが見えた。
「……ずっと混んでるわけじゃない」
その呟きに、隣で設備仕様を追っていたミラがペンを止める。
「何か分かった?」
「うん。待ち時間が長いの、ほとんど授業が切り替わる前後だけ」
フローレンは、そこだけ膨らんでいる数字を指先で辿った。
「普通の時間は平均一、二分くらい。でも授業の間だと五分を超えることがあって、一番長いところだと八分近い」
「八分?」
資料越しにフェンの声が上がる。
「授業間の移動時間、ほとんどなくなるな」
「だから『一日中もっと速くする』必要はないと思う。混む時間だけ何か変えられればいいのかも」
そう言いながら、フローレンは紙の端へ条件を書き出す。
待ち時間を減らす。
魔力消費を増やしすぎない。
安全性は落とさない。
生徒以外も利用できる状態を残す。
書いてから、少しだけ手が止まった。
以前なら、与えられた条件を一つずつ確かめることに意識を取られていたかもしれない。今は、何を比べるための条件なのかを先に考えられる。
「フローレン」
向かいからレオに呼ばれ、顔を上げる。
「こっち、ちょっと面白いよ」
レオは利用者から寄せられた意見を何枚か抜き出し、机の中央へ広げた。
「生徒は、ほとんど待ち時間の話なんだけど」
一枚目には、
『授業の移動時間に二回見送ることがある』
『上階の教室へ行く時、階段を使った方が早いこともある』
と書かれている。
「教師とか職員になると、ちょっと違う」
二枚目は、授業用の器具を運ぶ教師からの意見だった。
『大型の教材を載せる際、乗り降りに時間がかかる』
『後ろに生徒が並んでいると急がなければならないように感じる』
さらに職員からは、
『運搬台を載せる場合は速度より安定性を優先したい』
『授業間は生徒が多く、荷物を運びづらい』
という声も寄せられていた。
「同じ昇降台なのに、困ってることが違うんだね」
「うん。生徒は早く乗りたい。荷物を運ぶ人は、急かされたくない」
レオは別の紙もめくる。
「それに、教師の中には授業の直前じゃないと運べない器具があるって書いてる人もいる。単純に『混む時間は荷物禁止』だと困る人が出そう」
「なるほど」
運用規定から顔を上げたルシアンも、中央に並べられた意見へ目を通す。
「人の利用と荷物の運搬を時間で分ければ済みそうに見えるが、そう単純でもないわけだな」
「そういうことみたい」
その時、ミラが読んでいた設備仕様の紙を横へ滑らせた。
「速度は少しなら上げられる」
「どれくらい?」
「人だけなら、今より一割程度。魔力消費も条件内に収まる」
「荷物がある時は?」
レオが聞く。
「無理」
ミラは即答した。
「重さが増えると安定制御に魔力を使うから、速度まで上げると一割を超える。安全基準にも余裕がなくなる」
今度はフェンが、改修費の資料をめくりながら口を挟んだ。
「設備そのものを軽量化すると予算超過。制御部を全部交換する案も、停止時間が半日じゃ足りない」
「じゃあ、大きな改修はできないんだね」
「できても小さい変更だけだな」
机の上に、少しずつ問題の輪郭が浮かび始める。
混雑する時間は限られていて、人だけなら速度を上げられる。けれど荷物を載せれば同じ方法は使えず、その荷物にも、混雑する時間に運ばなければならない事情があった。
「もう一つ」
ミラが設備仕様の下部を指した。
「必要な扉の開放時間も違う。人だけなら今より短くできるけど、運搬台が入る時は今の長さが必要」
フローレンは利用記録を見直した。混雑時間帯の一回あたりの運行時間には、かなりばらつきがある。
「もしかして、荷物が入った時だけ一回の往復が長くなる?」
「たぶん」
「記録ある?」
「ある」
五人の頭が、ほぼ同時に資料へ近づいた。
昇降台の運行記録を確認すると、確かに大きな荷物を載せた回だけ、停止時間が長い。しかも、それが授業間の混雑と重なった日は、待ち人数が急に増えていた。
「これだ」
フェンの指先が、待ち人数の急に増えた欄で止まった。
「混雑してるところに荷物が一回入ると、その後ろが全部詰まる」
「でも、荷物が悪いわけじゃないよね」
レオがすぐに言う。
「使う必要があって使ってるんだから」
「もちろん」
フェンも頷いた。
「問題は、同じ時間に同じ設備を使ってることだろうな」
ルシアンが机上へ散らばった資料を見渡す。
「一度、案を出してみよう」
その言葉をきっかけに、五人の視線が再びそれぞれの資料へ散った。
「混雑時間だけ速度を上げる?」
フローレンが言う。
「人だけなら可能」
ミラが答える。
「じゃあ荷物が来た時だけ通常速度に戻すとか」
「切り替え自体はできる。ただ、荷物が一回入ると扉の開放時間も長いから、結局そこから後ろが詰まる」
「だったら混雑時間は、人を優先する?」
フェンの言葉に、一瞬、机を囲む声が途切れた。
「授業が切り替わる前後だけ、運搬台の利用を控えてもらう」
フェンは利用記録の時刻を確認する。
「一回の混雑はせいぜい十分ちょっとだろ。その間だけ人優先にすれば、速度も上げられるし、扉を開ける時間も短くできる」
「待ち時間はかなり減りそう」
フローレンは混雑する人数と一度に乗れる人数、往復に必要な時間を順に当てはめていく。
「今の記録だと、二回待つ人はほとんどいなくなるかも」
「費用もほぼ制御の調整だけで済む」
フェンが資料から数字を拾う。
「停止も半日いらない」
「魔力も条件内」
ミラも自分の資料と照らし合わせて頷いた。
数字の上では、かなり筋がいい。
けれどレオは、机の中央に置いた利用者の意見へ視線を落としていた。
「急ぎの荷物は?」
「例外にする?」
フローレンが聞くと、ルシアンはすぐには頷かなかった。
「何を急ぎとするか決める必要があるな。毎回その場で判断するなら、結局運行が不安定になる」
「事前申請は?」
「授業中に急に必要になる器具もあるって書いてある」
レオが一枚の紙を持ち上げる。
「これ。実習で破損が出た時の交換品とか」
「じゃあ、完全に人だけにはできないか」
フェンは腕を組み、もう一度案を見直した。
「それでも、原則は人優先にすれば効果は出ると思う」
ルシアンは少し考えてから頷く。
「案としては成立する。例外時だけ通常運行へ戻す形なら、安全基準も変わらない」
フローレンは紙の上へ書いた。
――案一。
授業間のみ、人の利用を優先。
速度を一時的に上げ、扉の開放時間も人向けに短縮。
緊急の荷物は例外。
「もう一つくらい考えたい」
書き上がった案を見て、ミラが言った。
「一案だけだと、本当にこれがいいのか比べられないから」
「そうだね」
フローレンはすぐに頷く。
「利用者を分けない方法はないかな」
今度は、荷物を運ぶ人も今まで通り使えることを前提に考える。
速度は大きく上げられない。扉の開放時間も短くできない。それでも、待ち時間を少しでも減らすにはどうすればいいのか。
「呼び出し方を変えるのは?」
ミラが設備図を指した。
「今は呼ばれた順番に止まってる。でも、近い階をまとめて回れば、無駄な上下は減らせる」
「行き先を先に登録する?」
ルシアンが図を覗き込む。
「そう。上へ行く人をまとめてから下へ戻るとか。今は呼び出されたら途中でも向きを変えることがあるから」
「それ、できるの?」
「制御変更だけなら予算内。魔力もむしろ少し減るかもしれない」
フェンが改修資料と照らし合わせる。
「停止時間も問題なさそう」
「荷物を運ぶ人も今まで通り使える」
レオの言葉を聞きながら、フローレンは利用記録へ新しい運行方法を当てはめてみる。
「でも……人優先の案ほどは減らない」
「どれくらい?」
「一番混む時間だと、平均で一分くらい短くなる程度だと思う。二回待つ人もまだ残る」
「それでも今よりはいい」
ミラは設備図へ視線を戻した。
「荷物を運ぶ側に新しい制限をつけないのも利点だね」
二つ目の案も、紙の上へ書き出される。
――案二。
利用者を分けず、行き先ごとに運行をまとめる。
荷物も従来通り利用可能。
待ち時間の改善幅は小さいが、利用制限は増えない。
二枚の紙が机の中央に並んだ。
フェンが費用を確認する。
「どっちも予算内」
「安全基準も問題なし。魔力消費も条件内」
ミラも設備仕様と照らし合わせる。
フローレンは利用記録を見ながら、二つの案を頭の中でもう一度並べた。
案一なら、多くの生徒の待ち時間を大きく減らせる。ただし、混雑時間に荷物を運びたい教師や職員は不便になる。
案二なら、誰かの利用を制限する必要はない。けれど、最も多く寄せられていた生徒の「待ち時間が長い」という不満は、それほど大きく改善しない。
「どっちも成立するね」
「ああ」
ルシアンも二案へ目を落とす。
「条件には収まっている」
「じゃあ」
フェンがペンを指先で回した。
「どっちを出す?」
そこで、会話が止まった。
フローレンは二枚の紙を見る。
前の課題でも、正しい答えは一つではなかった。その時は、それが面白かった。
目的が変われば、選ぶ場所も変わる。どちらにも理由があることが、むしろ新鮮だった。
けれど今回は、最後に一案を出さなければならない。
案一を選べば、助かる生徒は多い。その代わり、荷物を運ぶ人の自由は減る。
案二を選べば、今まで通り誰でも使える。その代わり、多くの生徒が感じている不便を十分には解消できない。
「生徒の数を考えたら、案一かな」
フェンが先に口を開いた。
「利用者全体で見ると、困ってる人数は圧倒的に多いし」
「でも設備としては、特定の利用者を使いにくくすることになる」
ミラは案二の紙を指す。
「改善するために別の不便を作るのがいいのかは、ちょっと迷う」
「案一でも、完全に荷物禁止にするわけじゃない」
ルシアンの視線が、二枚の案の間を行き来する。
「緊急時の例外は残せる。ただ、誰を優先するかは明確に決めることになるな」
レオはすぐには答えなかった。
さっきまで利用者の意見を次々と拾っていたのに、今は二枚の紙を見つめたまま、珍しく言葉を探している。
「レオ?」
フローレンが呼ぶ。
「ん?」
「どっちがいいと思う?」
一瞬だけ、いつものように何か答えるのかと思った。
けれどレオは、生徒から寄せられた紙と、教師や職員から寄せられた紙を順に見た。
『二回待つことがある』
『次の授業に遅れそうになる』
『大型の教材は、授業直前にしか運べないことがある』
『急いで積み込むと不安がある』
どちらにも、困っている人がいる。
レオはしばらく黙ったまま、それらを見比べていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……俺、どっちを選べばいいか分かんない」




