68:違うからこそ見えるもの
授業を終えてからも、教室にはしばらく今日の課題の話が残っていた。
「第一候補地を選んだ班、思ったより多かったね」
「第二も結構いたよ。目的を個体数にしてたところ」
「第三は時間の使い方が班ごとに違ったな」
机を戻しながら、あちこちで発表の続きをする声が聞こえる。
フローレンも資料を鞄へしまっていると、先ほど同じ班だった女子生徒が隣から覗き込んだ。
「アストリアさん、次も同じ班になったらよろしくね」
「うん。こちらこそ」
「今度は最初から意見が四つに割れたりして」
眼鏡の男子生徒が冗談めかして言うと、短髪の男子生徒が笑った。
「それはそれで面白そうじゃん。今日みたいに一個にできるか試そうぜ」
「できなかったら?」
「その時は先生に『四つともいいです』って言う」
「それ、班として一つに決めろって一蹴されるやつだよ」
女子生徒の突っ込みに、四人で笑う。最初に席を囲んだ時よりも、ずっと気軽に言葉が飛び交っていた。
「じゃ、また明日」
「またね」
三人がそれぞれ自分の席へ戻っていく。
フローレンは鞄の口を閉じながら、少しだけ教室を見回した。一週間前は、授業のたびに周囲から次々と意見が上がる速さに驚いてばかりだった。
今も、その速さは変わらない。知らない考え方も、思いつかなかった意見も、毎日のように出てくる。
けれど今日は、その流れの中に自分の考えも自然に混ざっていた。
「フローレン」
呼ばれて振り返ると、ルシアンが自分の机の横に立っていた。少し遅れて、レオも鞄を肩へ掛けながらやってくる。
「帰るか?」
「うん」
フローレンが鞄を持ち上げると、三人はまだ発表の余韻が残る教室をあとにした。
廊下へ出ると、午後の授業を終えた生徒たちが階段や別の教室へ散っていくところだった。開け放たれた窓から春の風が入り、掲示板に留められた紙の端をかすかに揺らしている。
フローレンは二人の間を歩きながら、しばらく今日の発表を思い返していた。
言いたいことが、たくさんある。
「ねえ」
堪えきれずに声を上げると、二人が同時にこちらを見る。
「今日の二人の班の発表、すごく面白かった!」
思いきり弾んだ声に、レオが楽しそうに眉を上げた。
「お。いきなり褒められた」
「だって本当に面白かったんだもん」
フローレンはそのままルシアンへ顔を向ける。
「ルシアンの班、最初から細かな行動は見ないって決めてたでしょう?」
「ああ」
「あれ、すごいと思った」
「どこが?」
僅かに首を傾げたルシアンへ、フローレンはさっきの発表を思い出しながら手を軽く動かした。
「見られないから仕方なく諦めたんじゃなくて、最初から『今回は見ない』って決めてたところ。私、前だったら条件に書いてあるものは全部使わなきゃって考えてたと思う。でもルシアンたちの班は、群れ全体を見るって決めたから、それに必要ないものは最初から外してたでしょう?」
「全部を残そうとすると、何を優先したいのか分かりにくくなるからな」
「うん。それ。そこが、すごくルシアンっぽかった」
「僕っぽい?」
「うん。いっぱい出てるものを、必要な順番に並べるのが上手だから」
少し前を歩いていたレオが振り返る。
「初日の授業でもやってたね」
「そう、それ! 黒板にいっぱい意見が出た時も、ルシアンが順番にしたら急に分かりやすくなったでしょ?」
ルシアンは少し考え、それから穏やかに笑った。
「君はよく覚えているな」
「もちろん」
「そこは聞くまでもないでしょ」
当然のように答えたフローレンの横で、レオが肩を揺らす。
ルシアンは一瞬きょとんとしてから、自分が何を言ったのか思い返したらしい。やがて、自分でも可笑しくなったようにふっと息を漏らした。
「……そうだったな」
三人の足音が階段へ差しかかる。一段ずつ下りながら、今度はフローレンがレオを見る。
「レオの班も面白かったよ」
「俺のところ?」
「うん。『観察する私たちも環境の一部』っていうの」
「ああ」
レオは何でもないことのように頷いた。
「だって、急に人が何人も近くに来たら、向こうからしたら普通じゃないでしょ」
「そうなんだけど、私はそこまで考えてなかった」
フローレンは階段の踊り場で少しだけ速度を緩めた。
「最初の授業でも、レオは『誰が異常だと思ったのか』を見てたでしょ? 今日も、見る側の人まで条件に入れてた」
「言われてみれば、似てるかも」
「やっぱりレオっぽい」
フローレンが言うと、レオは目を細めた。
「さっきから二人とも『っぽい』でまとめられてるなあ」
「だって本当にそう思ったから」
「褒めてる?」
「すごく褒めてる」
「ならいいか」
あっさり納得して、レオはまた前を向く。その横で、ルシアンが少し笑っていた。
「レオの班は最初から第一候補地で話を進めてたの?」
「うん。細かい行動が見たいっていう子が多かったから」
「観察する人の影響があるって分かってても?」
「そこは班全体でもちょっと悩んだ。じゃあいっそ、その影響も見ればいいかなって」
レオは軽く肩をすくめる。
「なくせないなら、あるものとして扱うしかないでしょ」
フローレンは、その言葉を頭の中でもう一度なぞった。
なくせないなら、あるものとして扱う。
それも、今日の自分たちとは違う考え方だった。
自分たちは、第三候補地の風を時間で避けることを選んだ。ルシアンたちは、必要のないものを最初から外した。レオたちは、消せない影響を条件の中へ入れた。
同じ課題から、考え方まで少しずつ違う。
「……面白いね」
「何が?」
思わず呟くと、レオが聞く。
「今日の課題。三人とも違う場所だったのに、全部ちゃんと理由があるんだなって」
「綺麗に一個ずつだったね」
「うん。私、ルシアンの班の発表を聞いた時は第二候補地が一番いい気がしたし、レオの班を聞いたら第一候補地もいいと思った」
「自分たちの第三は?」
「もちろんいいよ」
フローレンが笑う。
「だから困るの。全部いいから」
「それは困ってない顔だね」
レオに言われて、フローレンは自分の頬へ手を当てた。
「……そうかも」
実際、困ってはいなかった。一週間前なら、答えが一つに決まらないことを難しいと感じていたかもしれない。
今はむしろ、同じ問いから違う答えへ向かう道を見比べることが楽しい。
「フローレンたちの班も面白かったよ」
レオはそう言ってから、少し首を傾けた。
「先生が、最初は意見が三つに分かれてたって言ってたでしょ。あそこから、どうやって一つにしたの?」
フローレンは笑いながら、さっきまで囲んでいた机を思い返した。
「私も途中まで、どう決めるんだろうって思ってた。でも、みんなが言ってることを聞いてたら、そもそも見てるところが違うんだって気づいて。それで、先に大事にしたいことを並べてみたの」
「ああ、そこだ」
ルシアンの声に、フローレンはそちらを見る。
「君たちの班は、条件の分け方が面白かった」
「条件の分け方?」
「ああ」
廊下の窓から差す光が、ルシアンの金髪の端を明るく透かしている。
「最初から三つの候補地を比べ続けるのではなく、一度そこから離れて、『何を守りたいのか』に分けただろう?」
「うん」
「細かな行動が見えること。観察者の影響を抑えること。安全性を確保すること。それから観察時間」
発表を一度聞いただけなのに、順番まで正確に覚えている。フローレンは思わず笑った。
「ルシアンも全部覚えてる……」
「さっき終えたばかりだ。それくらいは覚えている」
「ふふ」
「話を戻すぞ」
少しだけ困ったような顔をして、ルシアンが続ける。
「その条件を共有してから候補地を比べ直したから、誰か一人の案を押し通さずに決められた。教師に理由を聞かれた時も、君ではなく別の班員がすぐに答えていただろう?」
「うん」
そこはフローレン自身も嬉しかったところだった。
「あれは、判断基準が君一人のものではなく、班の中で共有されていたからだと思う」
ルシアンは少し考えるように視線を前へ戻す。
「僕たちの班では、最初に目的を決めて、そこから必要な条件を絞った。君たちは逆に、出ている意見から条件を取り出して、共通の判断基準を作った」
フローレンは目を瞬く。自分ではそこまで言葉にしていなかった。
「……違うんだ」
「少しな」
ルシアンは頷く。
「どちらでも判断はできる。ただ、君たちのやり方は、最初から意見が分かれている時には特に使いやすいと思う」
それから、ごく自然に続けた。
「僕にはなかった考え方だった」
フローレンの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「……ルシアンにも?」
「ああ」
何でもないことのように返される。
「少なくとも、今日の課題で僕はそう考えなかった」
「そっか」
たったそれだけ答えて、また前を向く。けれど、なぜか頬が少し緩む。
ルシアンはずっと、自分よりずっと先で考えている人だった。最初に応用問題を教えてもらった時も、止まったところを見つけてもらった時も、黒板いっぱいの意見を瞬く間に整理していた時も。
そのルシアンから、自分たちの考え方を「僕にはなかった」と言われた。
何かが急に変わったわけではない。それでも胸の奥に、小さな灯りがともったような嬉しさが残った。
「なんか嬉しそう」
横からレオの声が飛んできた。
「え?」
「顔」
フローレンは思わず頬へ手を当てる。
「そんなに出てる?」
「わりとね」
「……だって、嬉しいよ」
素直に言ってから、ルシアンを見る。
「ルシアンにそう言ってもらえたら」
「…………そうか」
ルシアンの返事が、ほんの一拍遅れた。
「うん」
フローレンは何も気づかずに笑う。
レオは二人を見比べ、口元にほんの少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。けれど何か言う代わりに、そのまま廊下の先へ視線を戻す。
「でもさ」
そのまま歩きながら、レオが言う。
「今日みたいなのって、結局どれか捨てなきゃいけないんだね」
「捨てる?」
「全部は取れなかったでしょ。フローレンたちは観察時間を半分にしたし、ルシアンたちは細かい行動を見ない。俺たちも、観察者の影響を完全になくすのは諦めた」
「ああ」
ルシアンが頷く。
「全部を満たすのは難しいことも多い」
「それはそうなんだけど」
レオは少しだけ眉を寄せた。
「全部残せるなら、残したいじゃん」
あまりにレオらしい言葉で、フローレンは笑った。
「レオなら言いそう」
「え、なんで?」
「だって、どれもちゃんと大事にしそうだから」
「大事なら残したいでしょ?」
「うん。でも、今日の課題だと無理だったね」
「そうなんだよねえ」
レオは少し不満そうに息を吐く。その横でルシアンが静かに言った。
「だから優先順位が必要になる」
「それは分かってるけどさあ」
わざとらしく唇を尖らせてごねるレオに、フローレンが吹き出す。軽い笑い声が、午後の廊下へほどけていった。
やがて笑いが収まると、三人の足音がまた静かに重なる。
冗談めかしていたレオの「全部残せるなら、残したい」という言葉と、ルシアンの「だから優先順位が必要になる」という言葉が、フローレンの中に並んで残った。
全部を満たせない時に、何を残すか決める。
今日の課題では、候補地を選ぶだけだった。けれど、きっと学院の外へ出れば、こんなふうに一つだけ正しい答えがないことはもっと増えるのだろう。
どれも大事で、どれにも理由があって。
それでも、一つを選ばなければならない時。
その時に、何を見るのか。何を守るのか。
「難しいね」
ぽつりと言うと、二人が振り返った。
「何が?」
「全部大事なのに、全部は選べないこと」
「難しい」
レオが大きく頷く。
ルシアンも少し考えてから答えた。
「ああ。簡単ではないな」
「でも」
フローレンは、四人で一枚の紙を囲み、それぞれ違う意見を条件として並べていった時のことを思い出した。
「一人で決めなくてもいいこともあるんだよね」
ルシアンがこちらを見る。レオも一度瞬きをした。
「今日みたいに、みんなが大事だと思ってることを出して、それから決めるの」
フローレンは笑った。
「一人だったら、私は第三候補地を選べなかったと思うから」
「そうだな」
ルシアンが頷く。
「判断する人が一人でも、判断材料まで一人で集める必要はない」
フローレンは、その言葉にも小さく頷いた。
やがて三人は階段を下りきり、玄関へ続く廊下へ出た。
窓の外では、春の日がゆっくり傾き始めていた。中庭の木々には淡い若葉が増え、風が通るたび、光を含んだ枝先が細かく揺れている。
「ねえ」
フローレンがふと思いついて言う。
「今度、三人が同じ班になったらどうなるんだろう」
「どうなるって?」
「今日、三人とも違う候補地だったでしょ?」
「ああ」
「同じ班だったら、三つに割れてたかもしれないね」
レオが楽しそうに笑う。
「ありそう。俺、第一」
「僕は第二だな」
「私は……」
フローレンは少し考える。
「最初は、まだ分からないって言ってた」
「じゃあ二対一にもならないね」
「うん。全然まとまらない」
「その時は今日と同じように考えればいい」
ルシアンがさらりと言った。
「何を目的にするか、何を条件にするか、何を優先するか」
「そっか。じゃあ、意見が割れても大丈夫だね」
「というかもう、割れてるんだけどね」
レオが言って、フローレンは一度瞬きをした。
「……あ、そうだった」
三人の足音が、明るい廊下に重なる。
選ぶ場所は違っていた。
考え始めるところも、目を向けるものも違っていた。
それでも、違うからこそ見えるものがある。
新しい知識が増えたわけではない。
けれど、選ぶための道筋が、また一つ増えていた。
窓から差し込む春の光の中を、三人は並んで歩いていった。




