66:先に決めるもの
「これ、場所を選ぶ前に、先に決めた方がいいことがあるんじゃない?」
三人の視線がフローレンへ集まった。短髪の男子生徒が、第一候補を指していた手を止める。
「先に?」
「うん。何を一番観察したいのか」
フローレンは資料の最初へ目を戻した。
「ここには『生態を観察する』って書いてあるでしょ? でも、生態って一つじゃないよね」
机の中央へ置かれた三枚の資料を、順番に指で辿る。
「細かな行動を見たいなら、近くで観察できる第一候補がいい。群れ全体とか個体数を見たいなら、第二候補の高台の方が向いてる。第三候補なら、その中間くらいまで近づけるけど……」
「午後は風が強い」
女子生徒が続ける。
「うん」
フローレンは頷いた。
「だから、どの場所が一番いいかっていうより、何を見るための場所なのかを先に決めないと比べられないんじゃないかな」
一瞬、誰も口を開かなかった。
教室の周囲では、別の班の話し声が絶えず続いている。黒板へ何かを書き足すチョークの音も響いていた。
やがて短髪の男子生徒が、第一候補の資料を見下ろした。
「……俺、最初から細かい行動を見るつもりで考えてた」
「ぼくは安全性かな」
眼鏡の男子生徒も、自分の前へ置かれた第二候補へ目を落とす。
「それに、広い範囲を一度に見られる方が記録としてまとめやすいと思ってた」
女子生徒は少し考えてから、第三候補を指先で押さえた。
「私は、観察してるせいで行動を変えちゃうのが嫌だったのかも。だから近すぎないところがいいって思ってた」
三人が互いを見る。短髪の男子生徒が、少し間を置いて口元を緩めた。
「……俺たち、同じ三つを比べてるのに、何を大事にするかが違ってたんだな」
「あ」
女子生徒が目を丸くする。
「ほんとだ」
眼鏡の男子生徒も小さく笑った。
さっきまで三つに分かれていた意見が、急に違う形を持ち始める。
第一候補が正しい。
第二候補が正しい。
第三候補が正しい。
そうではない。
それぞれが、別のものを大切にしていたのだ。
「じゃあ」
短髪の男子生徒が椅子へ座り直した。
「何を見る?」
今度は、三人ともすぐには答えなかった。フローレンも考える。
場所を決める前に、まず目的。
けれど、目的を決めれば全部終わるわけではない。
「俺はやっぱり、せっかく校外まで行くなら細かい行動を見たいかな」
短髪の男子生徒が先に口を開く。
「教本とか過去の記録だけじゃ分からないようなものを見たい。餌を取る時とか、仲間同士でどう動くとか」
「でも、一回の実習なら群れ全体を見た方がいいんじゃない?」
眼鏡の男子生徒が返す。
「細かな行動って、一頭か二頭を見て終わる可能性もあるだろうから。広く見た方が、その種類全体の傾向は取りやすいと思う」
「私はやっぱり、こっちが気になる」
女子生徒が第一候補の注意書きを指す。
「観察者が近くにいるせいで普段と違う行動をしたら、それって本当に生態を見たことになるのかな」
三人の意見がまた分かれる。けれど今度は、さっきまでとは違って聞こえた。
どの場所がいいのか、ではない。
何を守りたいのか。
フローレンは机の上を見つめた。
「……それぞれが大事にしたいものを、先に条件にしてみない?」
「条件?」
「うん」
フローレンは手元の紙を一枚、机の中央へ引き寄せた。
「細かな行動が、ある程度見えること」
指を一本折る。
「観察している私たちが、できるだけ行動に影響しないこと」
二本目。
「安全に観察できること」
三本目。
「それから……実習時間をちゃんと使えること?」
「その四つ?」
女子生徒が聞く。
「今出てるのは、かな」
「なるほど」
眼鏡の男子生徒が資料へ目を落とした。
「場所を決めるんじゃなくて、先に満たしたい条件を並べるのか」
「そうしたら比べやすくない?」
「でもさ」
短髪の男子生徒が四つの条件を見ながら眉を寄せる。
「それ、全部満たす場所なくない?」
三人が黙った。フローレンも資料を見る。
第一候補地は、細かな行動を見るには最も向いている。けれど観察者の影響が大きい。
第二候補地は安全で影響も少ないが、遠すぎる。
第三候補地は距離と安全性の釣り合いがいい。けれど午後には風が強くなる。
「……ないね」
フローレンが答えると、短髪の男子生徒が笑った。
「ないのかよ」
「ないみたい」
思わずフローレンも笑う。
「じゃあ結局、どれか諦めないといけないってこと?」
女子生徒が困ったように四つの条件を見る。
その言葉に、フローレンは少し考えた。
「……全部、同じくらい大事にしなくてもいいんじゃないかな」
「どういうこと?」
「先に、どれを一番大事にするか決めるの」
三人がまたこちらを見る。フローレンは、先ほど思い出した過去の調査記録を頭の中へ浮かべた。
高台。
大型の魔法生物。
六人の調査者。
個体数の推移。
「あのね。さっき話した昔の調査で、高台を選んでたのって、たぶん高台そのものが優れてたからじゃないと思う」
「違うの?」
「うん。あの調査は、個体数を数えることが目的だったでしょ? だから細かな動きより、広く見渡せることを優先したんだと思う。それに安全性も高かった」
眼鏡の男子生徒が、ゆっくり頷く。
「目的が先にあって、それに合う場所が高台だったんだ」
「たぶん」
フローレンは頷いた。
「だから今回も、どれを一番守りたいか決めればいいんじゃないかな」
三人が再び四つの条件へ視線を落とす。今度の沈黙は、さっきまでとは違った。
答えに迷っているというより、同じものを見ながら考えている。
「俺は細かい行動」
短髪の男子生徒が言う。
「でも、一番近くじゃなくてもいい。ある程度見えれば」
「ぼくは安全性は外したくないな」
「私も」
女子生徒が頷いた。
「でも安全なら何も見えなくていい、っていうのも違うよね」
「それはそうだな」
短髪の男子生徒が苦笑する。
フローレンは四人の言葉を頭の中で並べる。
細かな行動がある程度見える。
観察者の影響はできるだけ小さくする。
安全性は確保する。
「この三つは、できるだけ残したい?」
「うん」
「異論なし」
「ぼくも」
「じゃあ実習時間は?」
女子生徒が尋ねる。
フローレンは第三候補の資料を取った。
「第三候補だと、風が強くなるのは正午頃からだったよね」
「九時からだから……三時間か。実習は三時までだよね」
眼鏡の男子生徒が資料を見ながら確かめると、短髪の男子生徒が指を折った。
「ってことは、午後の三時間が使えないな」
「でも」
フローレンは第一候補と第二候補を見比べた。
「第一候補の『観察者の影響が大きい』っていう欠点は、一日いても変わらないよね」
「ああ」
「第二候補の距離も変わらない」
眼鏡の男子生徒が頷く。
「第三候補の風だけは、時間を短くすれば避けられるってこと?」
女子生徒の声が少し明るくなる。
「たぶん」
フローレンは資料を見ながら答えた。
「三時間観察して、午後を別のことに使えるなら」
「記録整理とか?」
「そう」
そこでフローレンは口を閉じた。
観察時間を別のことに使っても良いかどうかは、資料には書いていない。
「……先生に確認してみる」
フローレンは手を上げた。教師がこちらを見る。
「アストリア」
「観察を途中で切り上げて、残りの時間を記録の整理に使うことはできますか?」
「理由は?」
「午後になると条件が悪くなる場所を選んだ場合、条件が悪くなる前に観察を終えたいからです」
教師は少しだけ目を細めた。
「班として、その時間配分を選ぶ理由を説明できるなら構わない」
「ありがとうございます」
フローレンが手を下ろす。
待っていた三人へ向き直ると、短髪の男子生徒がにやりと笑った。
「じゃあ、第三候補いけるじゃん」
「まだ決まったわけじゃないよ」
女子生徒が言いながらも、声は少し弾んでいる。
「でも条件には一番近いよね」
眼鏡の男子生徒が三つの資料を並べ直した。
「第一候補は細かな行動が一番見やすい。でも観察者の影響が大きい。第二候補は安全だけど遠い。第三候補なら、近づきすぎずにある程度行動を見られて、安全性も悪くない」
「風だけは、正午までに切り上げれば避けられる」
女子生徒が続ける。
「だったら第三でいいんじゃない?」
短髪の男子生徒が言った。
最初に第一候補を迷いなく選んでいた彼が、今は第三候補を指している。けれど、それは意見を曲げたようには見えなかった。
細かな行動を見たいという彼の希望も、第三候補の中にちゃんと残っている。
「うん」
フローレンも資料を見る。
「私も第三候補がいいと思う」
「決まり?」
「待って」
フローレンが言うと、三人が一斉にこちらを見る。
短髪の男子生徒が笑った。
「まだ何かある?」
「選んだ理由も、ちゃんと順番にしておこう」
「ああ」
眼鏡の男子生徒が納得したように頷く。
「発表があるんだった」
フローレンは新しい紙を一枚取り出した。
「最初に、何を観察したいか」
ペン先を置く。
「次に、何を優先したか」
その下へ続ける。
「それから三つの候補を比べて、どうして第三候補になったのか」
「さっきまで『第一がいい』『第二がいい』って言ってたのに」
短髪の男子生徒が、少しおかしそうに笑う。
「今、全然違う話してるな」
「でも、今の方が決めやすかった」
女子生徒が言った。
「うん」
眼鏡の男子生徒も頷く。
「場所から考えるんじゃなくて、条件から場所を選んだんだね」
フローレンはその言葉を聞いて、机の上へ目を落とした。
自分が第三候補という答えを思いついたわけではない。
第一候補の良さも、第二候補の良さも、第三候補の良さも、最初から三人がそれぞれ見つけていた。ただ、それらを比べられる形に並べ直しただけだ。
けれど、ばらばらだった意見が一つの方向へ動いていく様子は、どこか見覚えがあった。
最初の日、黒板いっぱいに散らばった意見を、ルシアンが順序立てていった時のことを思い出す。
自分が今したこととは、きっと同じではない。
それでも、ばらばらの意見を比べられる形に整えるということが、少しだけ分かった気がした。
「じゃあ、まとめよっか」
フローレンが言うと、三人がそれぞれ資料を引き寄せる。
少し前まで三つに分かれていた意見が、今は同じ一枚の紙の上へ集まり始めていた。




