65:分かれた意見
四年生になって、一週間ほどが過ぎた。
「アストリアさん、おはよう」
「おはよう」
扉を開けると、近くにいた女子生徒がすぐに顔を上げる。その隣からも声が飛んできて、フローレンは自然に笑って返した。
「昨日の課題、最後どうした?」
「ああ、あれね。私は最初に条件を全部書き出してから絞ったよ」
「やっぱり? 私、途中で候補を増やしすぎて収拾つかなくなっちゃった」
「それ、分かるかも」
話しながら席へ向かう。
一週間前なら、教室へ入る前に一度息を整えていた。今では、扉を開けることそのものに緊張することはない。
だからといって、特進の授業が簡単になったわけでもなかった。
意見が出るのは速く、数も多い。それでいて、どれもよく考えられている。
その印象は、最初の日からほとんど変わっていない。ただ、フローレンの受け止め方が少し変わった。
全部をその場で確かめようとしない。まず考えられることを並べて、それから条件で絞る。
放課後の自習室で覚えたやり方を、毎日少しずつ試していた。
午前二つ目の授業で、教師は教本を閉じるよう指示した。
「今日は四人一組で考えてもらう」
その言葉と同時に、教室の空気が少し動く。机を移動させる音が響き、教師が黒板へ三つの図を書き始めた。
フローレンも指定された席へ移る。今回はルシアンともレオとも別の班だった。
一瞬だけ教室の後ろへ視線を向けると、ルシアンはすでに自分の班の生徒と資料を広げていた。レオも別の机で何か話している。
フローレンはすぐに自分の班へ向き直った。
「よろしくね」
「よろしく、アストリアさん」
「四人とも揃ったね」
同じ班になったのは、ここ数日で何度か話したことのある生徒たちだった。前の席の女子生徒と、授業中によく発言する短髪の男子生徒、それから黒縁の眼鏡をかけた男子生徒。
教師が黒板の三つの図を指した。
「来月、魔法生物学の校外観察実習を行う。今日は、その観察拠点を決めてもらう」
課題に示されている目的は、対象となる魔法生物の生態を観察すること。それ以上の指定はなく、続いて三つの候補地について、それぞれ簡単な条件が示された。
第一候補地は、対象となる魔法生物が最も多く現れる場所だった。個体数を確認しやすく、細かな行動も観察できる。ただし生息域に近いため、観察者の存在が行動へ影響する可能性が高い。
第二候補地は、対象から離れた高台だった。安全性が高く、広い範囲を一度に見渡すことができる。一方で距離があるため、細かな動きまでは確認しにくい。
第三候補地は、その中間に位置する林縁部。距離も安全性も悪くないが、午後になると地形の影響で風が強くなり、記録用の魔法具が安定しにくくなることがあるという。
「どれを選んでも構わない」
教師が教卓へ寄りかかる。
「ただし、班として一つに決めること。なぜそこを選んだのか説明できるようにしておけ」
教室のあちこちで、すぐに声が上がり始めた。
フローレンの班でも、資料を机の中央へ置いた途端、短髪の男子生徒が第一候補を指した。
「ここじゃない? 一番たくさん見られるんだから」
「でも近すぎるよ」
前の席の女子生徒がすぐに返す。
「観察してるせいで行動が変わったら、せっかく近くても意味なくない?」
「多少は仕方ないだろ。遠くて見えないよりいいよ」
「ぼくは第二候補かな」
眼鏡の男子生徒が高台を指した。
「広範囲を見られるし、安全性が高い。初めて行く場所なら事故が起きにくい方がいいと思う」
「でも、細かい行動を見たいなら遠すぎるよね。第三候補は?」
女子生徒が林縁部へ目を移す。
「風がなあ」
短髪の男子生徒がすぐに返した。
早い。
やっぱり、意見が出るまでが早い。
けれど最初の日とは違って、フローレンは慌てなかった。第一候補。第二候補。第三候補。それぞれの利点と欠点を、まず頭の中へ並べる。
すぐに一つを選ばなくていい。
その考え方を覚えただけで、周囲の声を聞く余裕が少し増えていた。
「第一候補なら、個体ごとの行動まで見られると思う」
短髪の男子生徒が資料を指す。
「でも刺激する可能性が高いよ」
「第二候補なら、個体数を見るには向いてると思う」
眼鏡の男子生徒が続けると、女子生徒はもう一度第三候補へ目を戻した。
「第三候補も、午前中だけなら使えるんじゃない?」
フローレンも資料へ目を落とす。
「第三候補の風って、何時くらいから強くなるのかな」
三人がこちらを見る。眼鏡の男子生徒が資料の端を確認した。
「正午頃から、って書いてある」
「実習時間は?」
「九時から三時」
「じゃあ、午前中は使えるね」
フローレンが言うと、女子生徒が頷いた。
「そうか。最初から一日中使えないわけじゃないんだ」
「でも最後まで同じ場所で観察できないのは面倒じゃない?」
眼鏡の男子生徒が眉を寄せる。
「移動するなら、その時間も必要だな」
短髪の男子生徒も頷いた。
また新しい条件が加わる。
フローレンはそれも頭の中へ置いた。選択肢が増えても、もうすぐに一つへ絞ろうとはしない。
第一候補は近い。
第二候補は安全。
第三候補は中間。
どれにも、選ぶ理由がある。
だからこそ難しい。
「アストリアさんはどれがいいと思う?」
女子生徒に尋ねられて、フローレンは資料から顔を上げた。
「私?」
「うん。さっきからずっと見てるから」
三人の視線が集まる。フローレンは少し考えた。
「……まだ分からない」
「そっか」
意外そうな顔をされるかと思ったが、誰も気にした様子はない。それも少し嬉しかった。
「でも、似た調査の記録なら読んだことがあるよ」
言った瞬間、頭の中に古い資料の頁が浮かんだ。
三年前に学院の図書館で読んだ魔法生物の観察記録。
対象は大型の草食性魔法生物。
観察地点は高台。
調査者は六名。
目的は個体数の推移を記録すること。
「その時は高台を使ってた」
「じゃあ第二候補?」
短髪の男子生徒がすぐに聞く。けれどフローレンは首を振った。
「ううん。同じとは限らない」
「違うの?」
女子生徒が首を傾げる。
「その調査は、何頭いるか数えることが目的だったから。場所だけ同じにしても、今回に合うとは限らないと思う」
言いながら、記憶の中の資料をさらに辿る。
観察対象も違う。
季節も違う。
人数も違う。
「あと、その調査は対象がもっと大きかった。高台からでも一頭ずつ見分けられたけど、今回の生物はそれよりずっと小さいよね」
「ああ、そっか」
女子生徒が資料を見直す。
「同じ高台でも、条件が違うんだ」
「うん。でも、安全性を優先したい時に高台を選んだっていう考え方は、参考にはなるかも」
口にしてから、フローレン自身も少し驚いた。
以前なら、覚えている事例を見つけた瞬間、それを答えとして使えないか考えていた。
今は違う。
同じところと、違うところを見る。使える部分だけ、材料として残す。
「アストリアさんって、ほんと色々覚えてるんだね」
「本とか資料を読むのが好きだから」
「いや……俺も読むのは好きだけど、さすがにそんな覚えてないし」
短髪の男子生徒が笑う。フローレンもつられて笑った。
「でも、それなら第二候補が無難じゃない?」
眼鏡の男子生徒が言う。
「安全だし、過去にも高台を使った例があるなら」
「俺はやっぱり第一候補かな」
短髪の男子生徒が、もう一度資料を指した。
「細かな行動まで見たいなら、遠くからじゃ分からないだろ」
「でも近づいたせいで行動が変わったら、それも正確じゃないよ」
女子生徒が返し、第三候補へ指を移す。
「だったら、第三候補は?」
「午後が使えないだろ」
「でも午前中なら条件は悪くないよ」
話が、また三方向へ広がった。
けれど不思議なことに、誰かが間違っているようには聞こえない。むしろ、話せば話すほど全部もっともらしくなっていく。
フローレンは三つの候補地を見比べた。
第一候補なら、細かく見られる。
第二候補なら、安全に広く見られる。
第三候補なら、その中間を取れる。
「結局、どれが一番いいんだろう」
眼鏡の男子生徒が困ったように呟いた。その言葉に、フローレンはふと顔を上げる。
一番いい。――それは、何にとって?
もう一度、教師が最初に示した条件を頭の中で並べる。
校外観察実習。
対象の魔法生物。
三つの候補地。
班として一つ選ぶ。
そして、観察するのは――生態。
「……あれ?」
「どうしたの?」
女子生徒が振り返る。
フローレンは資料の最初へ視線を戻した。
「この実習って、何を一番観察するんだっけ」
「え?」
三人も資料を見る。
「魔法生物の生態、だよね」
「うん。でも、生態って色々あるでしょう?」
個体数を見るのか。
動き方を見るのか。
群れの広がりを見るのか。
食事の様子を見るのか。
目的が違えば、必要な距離も安全性も変わる。
そう考えた瞬間、机の上に並んでいた三つの候補が、少し違って見えた。
どれが正しいのかではない。
何をしたいかによって、正しい場所が変わるのではないか。
フローレンはゆっくり顔を上げた。
「……ねえ」
三人がこちらを見る。
「これ、場所を選ぶ前に、先に決めた方がいいことがあるんじゃない?」




