64:新しい考え方
午後の授業を終える頃には、窓から差し込む光もずいぶん傾いていた。
授業を終えた生徒たちに混じって教室を出ると、三人はそのままいつもの自習室へ向かった。
去年までは、ルシアンとレオは特進から、フローレンは第二クラスから、それぞれこの自習室へ集まっていた。けれど今日は、三人とも同じ廊下を歩き、同じ階段を下りている。
「……今日、三人で同じところから来たんだね」
ふと思って口にすると、隣を歩いていたレオがこちらを見る。
「そういえば、そうだね」
「ああ」
ルシアンも頷いた。
ただそれだけのことなのに、フローレンは少し嬉しくなった。これまでも毎日のように同じ場所へ集まっていたはずなのに、三人揃って教室を出て、並んでここまで歩いてくるだけで、いつもの放課後がほんの少し違って感じられる。
自習室の扉を開ければ、見慣れた机と椅子、棚に並ぶ本が目に入った。西日に照らされた窓辺も、何度も三人で過ごしてきたままだ。
「……なんか落ち着く」
「分かるかも。俺たち、ここにいすぎじゃない?」
「確かにな」
三人で笑いながら、いつもの席についた。
鞄を置き、教本を机に出す。フローレンは今日の授業で使ったページを開いた。そこに並ぶ文字は、授業中に見た時と何も変わっていない。
内容が分からなかったわけではない。教師の説明も、ほかの生徒が出した意見も覚えている。なぜそう考えたのかも、聞けば理解できた。
それでも、難しかった。
「今日の授業ね。分からなかったわけじゃないんだよね」
フローレンがそう言うと、向かいのルシアンが顔を上げた。
「ああ」
「でも、難しかった」
「どのあたり?」
返ってきたのは、去年まで何度も聞いてきた問いだった。すぐに答えを渡すのではなく、自分がどこで止まっているのかを探すための問いだ。
フローレンは少し考えて、教本へ視線を落とした。
「……考え始める場所は、分かるの」
「ああ」
「でも、一つ思いついたら、その先をずっと追っちゃうみたい」
午前中の授業を思い返す。
「私は一つの可能性を見つけたら、それがどこまで繋がるのか確かめようとするでしょ? その間に、みんなは別の可能性を三つも四つも出してた」
ルシアンが小さく頷く。その隣で話を聞いていたレオが、少し考えるように首を傾げた。
「それで周りが速く感じたんだね」
「うん。私が一つ目を考え終わる頃には、もう黒板にいっぱい増えてるの」
「でもさ」
レオが机に置いていた教本を指先で軽く叩いた。
「それで『時折』って言葉を拾ったんじゃない?」
「え?」
フローレンが顔を上げる。
「みんな色々出してたけど、フローレンは最初の条件に戻ったでしょ。あれ、ひとつずつちゃんと見てたから気づいたんじゃないの?」
言われて、フローレンは瞬いた。
「……そうなのかな」
「僕もそう思う」
ルシアンも教本へ一度視線を落としてから、ゆっくりと言葉を続ける。
「速く多く挙げることだけが正しいわけじゃない。ひとつの条件を丁寧に追うから見えるものもある」
「うん」
「ただ、先にいくつか可能性を広げておければ、今の考え方と両方使えるようになるかもしれない」
フローレンはその言葉を頭の中で繰り返した。
今の考え方を捨てるのではなく、もう一つ増やす。
そう考えると、午前中に感じた圧倒的な速さも、少し違って見える気がした。
「……どうやったらできるかな」
尋ねると、ルシアンは少し考えてから、机の端に置かれていた問題集を一冊引き寄せた。
「試してみようか」
「今?」
「今」
即答するルシアンに、レオが横から問題集を覗き込む。
「早速だね」
ルシアンはぱらぱらとページをめくり、一つの問題を選んだ。
「これは?」
示されたのは、ある温室で同じ種類の植物の一部だけ生育が遅れている、という短い設問だった。与えられているのは、植えた時期と水量、肥料、温度についての簡単な記録だけ。
「原因を答えればいいの?」
「いや。今回は、答えを出さなくていい」
「答えを出さないの?」
思わず聞き返すと、ルシアンは問題文の上へ指を置いた。
「まず、考えられる可能性だけを挙げてみよう」
フローレンは問題を見る。
水量は同じ。肥料も同じ。温度にも大きな差はない。
「……日当たり」
「うん」
「土の違い」
「うん」
二つ。そこまではすぐに出た。
けれど三つ目を探そうとしたところで、思考が止まる。
「植えた苗そのものが……でも、同じ種類だし。ここには苗の状態が書いてないから、これは違うかも」
「今は消さなくていい」
「え?」
ルシアンが問題文を指先で示す。
「違うと分かったわけじゃないだろう?」
「……うん」
「なら、候補として置いておこう。正しいかどうかを確かめるのは、そのあとでいい」
フローレンは少し戸惑いながら、もう一度問題を見る。
今までは、次へ進むために必要なものを探してきた。だから確かではないものを思いつくと、その場で使えるかどうかを確かめようとしていた。
「とりあえず、机の上に全部並べとく感じ?」
レオはそう言って、候補を一つずつ置いていくように、何もない机の上を指先で軽く示した。
「そうだな。並べてから、条件に合わないものを外せばいい」
「……なるほど」
それなら、と思考を戻す。
「苗の状態。植えた深さとか」
「うん」
「……水の量は同じでも、あげた時間が違うとか?」
言ってから、フローレンは一瞬止まった。
「これも書いてないね」
「ああ。だから残しておこう」
「そっか」
もう一度、問題へ目を落とす。
「世話をした人が違う」
「それもあるかもね」
レオが頷く。
「あと……同じ温室でも、置いてある場所が違えば風の当たり方が違うかもしれない」
「七つ」
不意にルシアンが言った。
「七つ?」
「今出した候補」
思っていたより多い。
「……ほんとだ」
少し嬉しくなって、もう一度考えようとする。けれど、ルシアンはそこで問題文を軽く叩いた。
「じゃあ、今度はここから絞ろう」
「あ」
「全部確認するとしたら時間がかかる。最初に何を見る?」
途端に、頭の中の動き方が変わった。
今度は、さっきより分かる。
記録だけで確認できるもの。実際に見なければ分からないもの。ほかの条件と比較できるもの。
フローレンは七つの候補を頭の中へ並べ直した。
「まず、場所かな。同じ温室ならすぐ比べられるし、生育が遅いものだけ同じ場所に集まってるなら、日当たりとか風も一緒に見られる」
「うん」
「それで違いがなかったら、苗を植えた時の記録。残ってるなら、苗の状態とか植えた深さも確認できるかもしれない」
ルシアンが頷く。
「いいと思う」
先ほどまでより、するすると言葉が出た。
フローレンは自分でも不思議になって、問題文と頭の中に並べた七つの候補を見比べる。
「……そっか」
「何か分かった?」
「私、最初から絞ろうとしてたんだ」
ルシアンとレオが、黙って続きを待っている。
「私、思いついたものをそのまま候補にしておけなかったんだ。確かじゃなかったら、その場で使えるかどうかまで確かめようとしてた。だから、次の可能性を考えるまでに時間がかかってたんだと思う」
フローレンは指先で問題文をなぞった。
「まず出して、それから条件で絞ればいいんだね」
「ああ。そういうことだ」
ルシアンが穏やかに笑った。
言葉にすれば、簡単なことのように聞こえる。けれど、フローレンにとっては少し違った。
今までは、知っていることの中から次へ進む一本を探してきた。その一本を見つけられるようになったからこそ、今度は最初からひとつに決めず、いくつかの道を残しておいてもいいのかもしれない。
「……なんか、また増えた」
「何が?」
「考え方」
そう答えると、レオが楽しそうに笑った。
「いいじゃん。いっぱい持ってた方が便利そう」
「うん」
フローレンも笑う。
ルシアンはすでに次のことを考えていたらしく、問題集の後ろのページをめくり始めた。
「この形式なら、ほかにも練習できそうなものがあるな。明日から三題ずつ――」
「ちょ、待ってルシアン」
レオがすかさず呼ぶ。
「なんだ?」
「さすがに初日から増やしすぎじゃない?」
ルシアンの手が止まった。
「三題だぞ?」
「三題も、でしょ」
レオが呆れたように笑う。
フローレンも問題集を覗き込み、それからルシアンを見る。
「一題からにしよう?」
「少ない気もするが」
「一題でできるようになったら、二題にする」
「……分かった」
少しだけ不服そうにも見えたが、ルシアンはようやく問題集を閉じた。
フローレンは自分のノートを開き、今日の日付の下へペンを走らせる。
考えられることを、まず出す。
それから、条件で絞る。
たった二行だった。
以前なら、参考書に書かれた知識を少しでも多く残そうと、頁いっぱいに文字を書いていた。
今、日付の下に残ったのは、たった二行の考え方だった。
「明日、やってみる」
書いた二行を見ながら言うと、ルシアンが「ああ」と頷いた。
「うまくいかなかったら?」
レオに尋ねられ、フローレンは少し考えてから二人を見る。
「また考える」
「三人でね」
「そうだな」
ルシアンも静かに頷いた。
窓の外では、西日に照らされた春の空がゆっくりと色を変え始めていた。机の上へ落ちる光も、来た時より淡く長く伸びている。
朝には、まだ馴染みのなかった特進の教室。
その一日を終えた今、いつもの机の上には、明日試してみたいことがひとつ増えていた。




