63:これまでいた場所
昼休みを告げる鐘が鳴ると、教室に残っていた授業の緊張がふっとほどけた。
席を立つ音や、昼食を取り出す音があちこちで重なる。フローレンも教本を閉じながら、小さく息を吐いた。
頭の中には、まださっきまでの授業が残っていた。教師が出した条件。次々に上がった意見。ひとつの可能性から伸びていった、いくつもの見方。
朝からずっと、考えることが途切れない。
「フローレン、昼はどうする?」
後ろからレオに声をかけられ、フローレンは振り返った。
「今日はエリナと食べる約束なの」
「ああ、そうだったな」
ルシアンが頷く。
「いってらっしゃい」
「うん。またあとでね」
鞄から昼食を取り出し、フローレンは教室を出た。
階段を下り、廊下を曲がる。
エリナたちのいる第二クラスへ近づくにつれ、聞き慣れた声がいくつも廊下まで届いてきた。昼休みらしい賑やかさの中に、笑い声や誰かを呼ぶ声が混じっている。
扉の前まで来ると、その響きにフローレンの口元が自然と緩んだ。
教室へ顔を覗かせると、すぐにこちらへ気づいた生徒がいた。
「あ、アストリア!」
声に何人かが振り返る。
「お昼?」
「うん」
「特進どうだった?」
「ね、聞きたい」
まだ教室へ入って数歩なのに、早くも声が飛んできた。
「あとでね」
笑って答えながら、フローレンは教室の奥を見る。窓際の席で、エリナがこちらへ手を振っていた。
「フローレン」
「エリナ!」
思わず少しだけ足が速くなる。
エリナの向かいへ椅子を寄せて座ると、目の前にはすでに二人分の昼食を置ける程度の場所が空けられていた。
「どうだった?」
待ちきれなかったように尋ねられ、フローレンは包みを開きかけた手を止めた。
「すごかった!」
ほとんど考えるより先に、声が弾んだ。その勢いにエリナがぱちりと目を瞬き、すぐにくすりと笑う。
「その顔を見る限り、嫌だったわけではなさそうね」
「うん。全然」
フローレンは大きく頷いた。
「すごく速いの。私が一つ考えてる間に、みんな三つとか四つとか出してて。それも、ただ思いついたことを言ってるんじゃなくて、ちゃんと理由があって」
「そんなに?」
「うん。新しい条件が出たら、それまでの話とすぐ繋げるし……あ、ルシアンもすごかったの」
そこまで言って、フローレンは少し身を乗り出す。
「みんなが出したものを、すぐに整理してた。何から調べるかとか、何を後にするかとか。聞いてるうちに、ばらばらだったものが一気に分かりやすくなって」
「さすがね」
「レオは全然違うところを見てたよ。設備のことばっかり考えてたのに、『誰が異常だと思ったのか』って」
「それはルベライトさんらしいわね」
エリナは納得したように頷いた。
「でしょ?」
フローレンは嬉しくなって笑う。
話しているうちに、午前中の教室の様子が次々と思い出されてきた。あれも話したい。これも伝えたい。
「それでね、私も一つ気づけたことがあって――」
気づけば、昼食へ伸ばしていた手が何度も止まっていた。
エリナはそんなフローレンをしばらく眺めていたが、やがて口元を緩めた。
「楽しそう」
「え?」
「すごく楽しそうに話してる」
言われて、フローレンは少しだけ目を丸くした。それから、自分でも確かめるように笑う。
「……うん。楽しかった」
追いつけなかったところはある。自分にはまだ思いつかなかったことも、たくさんあった。
けれど、それが嫌ではなかった。
同じ条件を見ても、こんなにも違う考え方がある。そのことを知るたび、もっと見てみたいと思った。
「そっか」
エリナが柔らかく笑った。
「よかった」
「うん」
フローレンも笑い返し、ようやく昼食へ手を伸ばした。
しばらくは、食べながら他愛のない話をした。春休みのことや新しい教本のこと、第二クラスの担任が去年と同じ話をまたしたこと。朝、寝癖が直らないまま教室へ来た生徒の話まで、話題はあちこちへ移っていった。
特進の教室では朝からずっと新しいものばかりだった。けれど、エリナと話していると、去年までと同じ時間もちゃんと続いていることが実感できた。
「でも」
エリナがふと、フローレンの顔を覗き込む。
「少し疲れてない?」
「え?」
「なんとなく。いつもより瞬きが多い気がする」
フローレンは思わず自分の目元へ触れた。
「……ちょっとだけ、頭がいっぱいかも」
「やっぱり」
「でも、嫌な疲れじゃないよ。まだ授業が頭の中で続いてるみたい」
「それはお昼くらい休ませなさい」
「はあい」
少しだけ子どもっぽく返すと、エリナが笑う。
その時だった。
「アストリア!」
聞き慣れた声に、フローレンが振り返る。
第二クラスの男子生徒が、数枚の紙を手にこちらへ歩いてきていた。
「今いい?」
「どうしたの?」
「今日の課題。ここの条件、どう繋げるのか分かんなくなってさ――」
彼が紙を開きかけたところへ、柔らかな声が割って入る。
「今日は私が先に予約してるの」
「ん?」
男子生徒の手が止まった。
エリナはにこやかな笑みを浮かべたまま、片頬にそっと手を添えた。長い睫毛の奥から男子生徒をじっと見つめる。
声音こそ柔らかいのに、どうやら引くつもりはなさそうだった。
「お昼休みは、私に譲ってちょうだい?」
「あ、悪い」
思わぬ返答だったのか、男子生徒は少し慌てて紙を閉じた。
フローレンは思わず笑ってしまう。
「午後でもいい?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、どこで止まったのかだけ、あとで見せて」
「助かる。じゃ、あとで!」
片手を上げて去っていく背中を見送り、フローレンはエリナへ向き直った。
「エリナのあんな顔、初めて見たかも」
「あら。どんな顔かしら」
何事もなかったように尋ねられて、フローレンは少し考える。
「なんていうか……『今は私の時間なの』って言ってるみたいな顔?」
「ふふ。だって今日は、私と食べる約束をしてたでしょ?」
「うん」
フローレンは頷いて、それから少しだけ頬を緩めた。
「なんか嬉しかった」
「嬉しい?」
「うん。エリナがあんなふうに言ってくれるの、珍しいから。ちょっとどきどきしちゃった」
一瞬、エリナの長い睫毛がぱちりと瞬く。
「……ほんとにあなた、そういうことをサラッと言うんだから」
少し恥ずかしそうに視線を逸らす姿がおかしくて、フローレンはまた笑った。
昼休みの終わりが近づき、フローレンは椅子を元の位置へ戻した。
「じゃあ、またね」
「ええ。また一緒に食べましょ」
「もちろん」
教室を出る直前、振り返る。
エリナが小さく手を振った。フローレンも手を振り返し、廊下へ出る。
朝、特進の扉を前にした時には、あれほど胸の音が大きく聞こえていた。今も、緊張がすっかりなくなったわけではない。
けれど、特進の教室へ戻る足は朝より少し軽かった。
新しい場所へ進んだからといって、これまでいた場所が遠くなるわけではない。
そう思うと、廊下の先にある教室も、ほんの少しだけ近く感じられた。




