62:初授業
最初の授業が始まって、まだ十分も経っていなかった。
フローレンは、早くも自分の予想が甘かったことを知った。
教師が黒板へ書いたのは、ある公共施設で使われている魔力設備の不具合についてだった。
昨日までは正常に稼働していた設備が、今朝から時折出力を落としている。記録上、供給されている魔力量は規定の範囲内。同じ型の別の設備には異常がなく、外側から確認できる破損もない。
書かれた条件は、それだけだった。
「さて」
教師が黒板から振り返る。
「原因を調べるとしたら、何を見る?」
フローレンは反射的に条件を頭の中へ並べた。
昨日までは正常。
今朝から出力が不安定。
供給量は規定内。
同型の別設備は正常。
目に見える破損はない。
まず、供給量そのものが原因である可能性は低い。ならば設備側の――。
「供給量ではなく、供給の波を見ます。平均が規定内でも、短い時間だけ落ちている可能性があります」
「接続部。見た目に破損がなくても、内部の接触が不安定なら出力だけ落ちるかもしれません」
「設置場所の温度か湿度は? 同型が正常なら、本体以外の条件も比較したいです」
「昨日と今朝で使用者が変わっている可能性もあります」
「直前に保守作業は?」
「周辺で別の魔法設備を増設していないかも確認したいです。干渉が起きているかもしれない」
一つ、二つ、三つ。
フローレンが最初の考えを形にするより早く、教室のあちこちから意見が上がっていく。
しかも、どれも思いつきではなかった。声が上がるたびに、「なぜそこを見るのか」まで短い言葉で添えられている。教師はそれを聞きながら黒板へ次々と書き足していった。白い文字が増える音に、別の生徒の声が重なる。
「待って。設備そのものが悪いってまだ決まってないよね」
「そうだな。計測器側の誤差もある」
「計測器はいつ点検した?」
「別の計測器でも同じ値が出るか確認したい」
フローレンは目を瞬いた。
速い。
そう思った直後には、もう次の意見が出ていた。
「周辺環境が原因なら、同じ場所で使っている別設備にも兆候がないか見るべきです」
「でも同じ型じゃなければ影響の受け方が違うかも」
「じゃあ両方見る。場所が同じものと、型が同じもの」
教師が黒板の一角へ線を引いた。
「今の二つは分けて考えろ。同型との比較と、同環境との比較だ」
すぐに教室の何人かが頷く。
フローレンは慌てて手元のノートへ視線を落とした。覚えるために書き留める必要はない。全部、頭には残っている。今出た意見も、その順番も、教師がどこへ何を書いたのかも。
けれど――。
覚えていることと、自分から同じ速さで出せることは、まるで別だった。
ひとつの条件から一本の道を辿ろうとしている間に、周囲では三本、四本と別の道が伸びている。そのどれもが途中で途切れるのではなく、理由を持って先へ続いていった。
すごい。
驚きは、置いていかれる怖さより先にやってきた。こんなにたくさん考えられるんだ。
「では、今出たものを全部確認するか?」
教師の問いに、教室が一度静かになる。
黒板には、すでに十を超える確認項目が並んでいた。
「時間も人手も無制限ではない」
教師はチョークを置く。
「最初に何を見る?」
今度は、少し長い沈黙が落ちた。
フローレンも黒板を見る。供給の波。接続部。温度と湿度。使用者。保守記録。周辺設備。計測器。比較方法。
どれもあり得る。
けれど全部を同時に調べるのは現実的ではない。何から――。
「昨日から今朝までに変わったものを先に確認します」
すぐ後ろから、よく知った声がした。
フローレンは思わず振り返りかけて、途中で止めた。
ルシアンだった。
教師が目を向ける。
「具体的には?」
「使用者、周辺環境、直前の保守作業、周辺設備です。同じ設備が昨日まで正常だった以上、まずは正常だった時点との差を絞ります」
「接続部や内部機構は?」
「後です。外から確認できる変化を先に潰した方が早い。分解が必要な確認は、設備を停止させる時間も長くなります」
「供給の波は?」
「記録が残っているなら同時に確認できます。設備を止める必要もありません」
教師が僅かに頷いた。
「では、優先順位をつけるなら?」
ルシアンはほとんど間を置かなかった。
「まず記録だけで確認できるもの。その次に、設備を動かしたまま確認できるもの。停止が必要な確認は最後にします。ただし、安全に関わる異常が疑われる場合は順序を変えます」
黒板いっぱいに散らばっていた項目が、一瞬で整理されたように見えた。
フローレンは目を見開く。
ルシアンが挙げたもの自体、どれも先ほど誰かが口にしていたものだった。ルシアンが新しい可能性を増やしたわけではない。
なのに、ばらばらだったものが急に並び替わった。
どこから見るのか。
なぜそこからなのか。
何を後に回すのか。
話を聞いているうちに、調査の道筋が一本の線になっていく。
――速い。
今度の驚きは、さっきとは少し違った。
自習室でフローレンが問題に詰まった時、ルシアンはいつもゆっくり待ってくれていた。ひとつ問いを投げ、フローレンが考え終えるまで次へ進まない。
もちろん知っているつもりだった。ルシアンが頭の回転の速い人だということも、学年でずっと一番であることも。
けれど、それを知っていることと、目の前で見ることもまた違った。
これが、ルシアンが普段考えている速さなのだ。
フローレンが少し呆然としている間にも、授業は止まらない。
「ノクティスの順序で確認したとして、すべて異常がなかった。次は?」
「内部を――」
「その前に計測方法を変える」
「別の方法でも測ってみる?」
「同型設備と同じ条件を作って比較するとか」
また、声が飛び始める。
教師はその中からいくつかを拾い、新しい条件を書き加えた。
今朝、最初に異常を報告したのは、普段の管理担当者ではなく代理の職員だった。
「……あ」
教室の何人かが声を漏らす。
「普段の担当者じゃないなら、操作手順が違った可能性は?」
「引き継ぎは受けてるのかな」
「でも実際に出力が落ちた記録はあるんですよね?」
意見がまた増えていく。
その時、レオが片手を上げた。
「先生。その代理の人って、この設備を普段どのくらい使ってるんですか?」
教師がレオを見る。
「ほとんど使っていないとしよう」
「じゃあ、俺なら最初にその人から話を聞きます」
「なぜ?」
「何を手がかりに『いつもと違う』って思ったのか知りたいから」
レオは黒板ではなく、教師の方を見ながら続けた。
「同じ『出力が落ちた』でも、作動の様子を見てそう思ったのか、計器を見たのか、使ってる人から聞いたのかで全然違いますよね。それが分かれば、調べる場所も減るかもしれない」
教室が少し静かになった。
教師がチョークを取り、黒板へ新しく一行を書き加える。
――異常を判断した根拠。
「いい視点だ」
レオは一度だけ目を瞬かせ、黒板へ書き足された一行に視線を移した。
「記録された情報を見るだけでは、そこまでは分からない。『誰が』『何を手がかりに』そう判断したのかも、条件の一つになる」
フローレンは黒板の文字を見たあと、そっと後ろを振り返った。レオはもう教本へ目を落としている。
その顔は、いつもの自習室で見ている時と同じようで、少し違って見えた。
レオが人の様子をよく見ていることは、ずっと前から知っている。疲れている時も、何か言いたそうにしている時も、本人すらまだ気づいていない小さな変化にも、レオはよく気づく。
それが、こんなふうに授業の中でも使われるのだとは思っていなかった。
人を見ることも、考えるための材料になる。
フローレンはもう一度、黒板を見る。
その間にも話は進んでいた。
「では、代理職員へ聞き取りをした結果、普段より設備の作動音が不規則だったと分かった」
教師がさらに条件を足す。
「出力だけじゃなくて、音も変わってた?」
「内部機構かな」
「可動部分の摩耗」
「でも昨日までは正常だったんだよね」
「摩耗なら少しずつ兆候が出るはず」
「昨日は作動音まで確認してないなら、分からないだけかも」
速い。
やっぱり速い。
しかも、さっき出た情報を置き去りにしているわけではなかった。新しい条件がひとつ加わるたび、誰かが前の条件を引っ張り出して繋げる。別の誰かが反対の可能性を出し、それをまた別の生徒が条件で絞る。
教室の中で、考えが次々と投げ渡されていく。
一人が全部を答えているわけではない。それなのに、教室全員の思考が重なることで、ひとつの大きな流れになっていた。
フローレンは、息をするのも忘れそうになった。
面白い。
けれど、自分も見ているだけではいたくなかった。
教師がまた条件を書き足そうとしたところで、フローレンは黒板の最初の一文へ目を戻す。
今朝から、時折出力を落としている。
時折。――ずっとではない。
そこに目が止まった。
「先生」
気づけば手を上げていた。
教師が振り返る。
「アストリア」
「『時折』というのは、出力が落ちる時刻そのものに規則性はありますか?」
何人かがこちらを見る。
「どうしてそう思った?」
「ずっと不安定なら設備そのものを疑いやすいと思うんです。でも、特定の時間だけなら、その時にしか変わらない条件があるかもしれないと思って」
言いながら、頭の中でも条件を並べ直す。
「使う人が変わる時間とか、別の設備が動く時間とか。毎回同じ頃に落ちているなら、そっちから絞れるかもしれません」
教師がほんの少し目を細めた。
「良い。では、出力が落ちた時刻を確認したところ、数回とも近い時間帯に集中していたとしよう」
途端に、教室の空気が動いた。
「その時間に動く別設備を調べたい」
「使用者の交代時間と重なってる?」
「日照の変化は?」
「外部から魔力を引く施設なら、同じ時間帯の需要量も見るべきじゃない?」
「待って、それなら最初に出てた供給の波が戻ってくる」
次々と声が上がる。
フローレンは目を見開いた。
自分が見つけたひとつの条件から、また何本もの道が伸びていく。さっきまで自分が追いかけていた流れの中に、今度は自分の言葉も混ざっていた。
「そういうことだ」
教師が黒板を軽く叩く。
「一度、優先順位を下げた可能性でも、新しい条件が加わればまた有力になる。『今は後回しにする』ことと、『原因ではないと分かった』ことは別だ」
チョークの音が響いた。
「何が分かったか。何がまだ分からないか。その都度整理しろ」
フローレンは小さく息を吐いた。
胸の奥が、少し熱かった。
授業終了を告げる鐘が鳴るまで、ほとんど息をつく暇はなかった。
最後の説明が終わった瞬間、教室の空気が一気に緩む。椅子を引く音や話し声が戻り、フローレンもようやく肩から力を抜いた。
ノートには、ほとんど何も書いていない。
書く暇がなかった、というのもある。
けれど頭の中には、先ほどの授業が最初から最後までそのまま残っていた。条件が一つ加わるたびに変わった意見。ルシアンが並べ直した優先順位。レオが拾った、記録には書かれていなかった人の視点。そこからまた広がっていったいくつもの可能性。
「どうだった?」
後ろから声がして、フローレンは振り返った。
斜め後ろのルシアンもこちらを向いている。そのさらに後ろから、レオが身を乗り出すようにしてこちらを覗いていた。
フローレンは一度、口を開いた。
「……とっても、速かった」
レオが笑う。
「やっぱり?」
「うん。予想以上だった」
それだけでは足りない気がして、フローレンは少し考える。
「考えがいっぱい出てくるの。しかも、ただ数が多いんじゃなくて、みんなちゃんと理由があって……新しい条件が出たら、さっきの話とすぐ繋げて」
話しているうちに、さっきの驚きがまた戻ってくる。
「私が一つ考えてる間に、三つとか四つとか出てくるから、途中でびっくりしちゃった」
「最初はそう感じるかもしれないな」
ルシアンが穏やかに言った。
フローレンはそこで、二人の顔を順番に見る。
「それもだけど……二人とも、すごいね」
「え?」
今度はレオが目を瞬いた。ルシアンも僅かに表情を止める。
「ルシアン、みんなが出したものをすぐに整理してたでしょう? 何から見たらいいのか、聞いてるうちに全部分かりやすくなった」
「あれは、出ていた意見を並べただけだ」
「でも、あんなすぐにできるのすごいよ」
フローレンが迷いなく言うと、ルシアンは一瞬だけ言葉を失った。それから、少しだけ視線を逸らす。
「……ありがとう」
「レオも」
「俺?」
「うん。報告した人のこと、私、全然考えてなかった」
フローレンは黒板に残る文字を見る。
「レオって、こういう時にも人に目が向くんだね」
レオは少し意外そうにしたあと、ふっと目元を和らげた。
「そうなのかな」
「そうだと思う。すごかった」
「ありがと」
気負いなく返された声に、フローレンも自然と頬を緩めた。
「フローレンの質問も良かったと思う」
「本当?」
「ああ。『時折』という言葉を拾っただろう。僕はあの時、そこを見ていなかった」
「俺も」
レオも頷く。
思いがけず返ってきた言葉に、フローレンは少しだけ目を丸くした。それから、嬉しくなって笑う。
「そっか」
自分が一番速かったわけではない。最初からたくさんの可能性を出せたわけでもない。
けれど、自分に見えたものもあった。
そして、二人やほかの生徒に見えていたものは、自分にはまだ見えていなかった。
それが不思議なくらい楽しかった。
「私も、もっと色んな可能性を早く考えられるようになりたいな」
フローレンが呟く。
窓の外では、春の光が朝より少し高いところから教室へ差し込んでいた。
特進の授業は、思っていたよりずっと忙しい。
そして、思っていた以上に面白かった。




