61:扉の向こう
四年生最初の朝は、薄い光の中からゆっくりと始まっていた。
寮を出ると、夜の冷たさをわずかに残した風が頬を撫でた。冬のように肌を刺すほどではなく、どこか湿り気を含んだ柔らかな風だった。
植え込みの若葉には朝露が残り、陽を受けるたび細かな光が瞬いている。
学院へ続く石畳には、生徒たちの足音がいくつも重なっていた。久しぶりに会った友人を呼ぶ声や笑い声、鞄の留め具が小さく鳴る音。開け放たれた窓からは、椅子を引く音や机の上へ本を置く音まで聞こえてくる。
新しい紙と教本の匂いに、外から入り込んだ草木の青い匂いが混じっていた。
フローレンはその中を歩きながら、胸の前で抱えていた鞄の持ち手を握り直した。
いつもの階段を上り、見慣れた窓の前を通る。朝の光が磨かれた床へ長く差し込み、その中を生徒たちの影が行き交っている。
けれど、ここから先は去年までとは違う道だった。
第二クラスへ向かうために何度となく歩いた廊下を途中で外れ、フローレンはまだ馴染みのない方へ足を向ける。
ほんの一瞬だけ歩調を緩めてから、そのまま先へ進んだ。
窓から吹き込んだ風が髪を揺らし、胸の奥では心臓が少し速く鳴っている。
楽しみだった。昨日、二人と話していた時もそう思った。どんな授業をするのか。どんな人たちと一緒に学ぶのか。ルシアンやレオがこれまでどんなふうに授業を受けていたのか。
それでも、楽しみだから緊張しないわけではなかった。歩きながら片手を握ってみると、指先も手のひらも、自分で分かるくらい少し冷たい。
「……結構、緊張してるかも」
特別試験の日ほどではない。
それでも、教室が近づくほど胸の鼓動が少しずつはっきりしていった。
やがて廊下の先に、見慣れない扉が見える。
《特進》
教室の表示は、ごく普通の文字だった。それでもフローレンには、そこだけが少し違って見えた。
扉の前まで来ると、中から何人もの話し声が重なって聞こえ、時折そこへ笑い声が混じる。早めに来たつもりだったが、教室にはもう思ったより多くの生徒が集まっているらしい。
フローレンは一度、息を吸った。春の空気を胸いっぱいに入れ、ゆっくりと吐く。もう一度。鞄を持っていない方の手を開いてみると、まだ少し冷たかった。
大丈夫。
そう思って扉へ手を伸ばしかけた、その時だった。
「おはよう、フローレン」
すぐ後ろから、聞き慣れた声がした。
フローレンは振り返る。
「……ルシアン」
金色の髪が朝の光を受けていた。その隣から、レオがひょいと顔を覗かせる。
「おはよ。何、扉と睨めっこしてるの?」
「……もう。してないよ」
反射的に答えてから、自分でも分かるくらい肩の力が抜けた。さっきまで少し遠く感じていた扉が、急にいつもの場所へ続く入口のように見えた。
「おはよう、二人とも」
今度は自然に笑えた。握っていた手をそっと開くと、冷えていた手のひらに少しずつ温度が戻ってくる気がした。
ルシアンは一瞬だけフローレンの顔を見た。何かに気づいたようにも見えたけれど、何も尋ねなかった。
「入ろうか」
「うん」
「行こ行こ」
レオがいつもの調子で言う。フローレンは頷き、自分で扉を開けた。
教室へ足を踏み入れた途端、いくつかの視線がこちらへ向いた。
それは当然のことだった。特進クラスへ、去年まで第二クラスにいた生徒が一人加わる。第二から特進へ直接編入したのは学院初だともっぱらの噂だ。見られない方が不自然だった。
けれど、その視線に棘はなかった。驚きと、興味。見慣れないものを見つけた時に自然と目を向けるような、静かな好奇心だった。
フローレンにも、見覚えのある顔はいくつかあった。合同授業で同じ場所にいた生徒。廊下ですれ違えば、互いに顔を知っているから会釈を交わす相手。名前を知っている人もいる。
けれど、こうして同じ教室で朝を迎えるのは初めてだった。
「アストリアさん、おはよう」
最初に声をかけてくれたのは、窓側の席にいた女子生徒だった。柔らかく笑って、教室の中央寄りを指差す。
「席、そこだよ」
「おはよう。ありがとう」
フローレンも笑って答える。それをきっかけに、近くの生徒たちが少しずつこちらへ顔を向けた。
「特別試験、受けたんでしょう?」
「うん」
「どんな問題だったの? 普通の学年末試験とは違った?」
「私もそれ聞きたい。実技もあった?」
次々に尋ねられ、フローレンが口を開こうとしたところで、先ほど席を教えてくれた女子生徒が苦笑した。
「ちょっと。朝から一気に聞いたら、アストリアさん困るでしょ」
「あ、ごめん」
「ううん、大丈夫。ただ、試験の内容は話していいか先生に確認してないから、詳しいことは言わない方がいいと思ってるの」
「あ、そっか」
「それはそうだね。ごめんね」
「全然。話しかけてくれて嬉しい」
フローレンが笑うと、相手もほっとしたように笑った。
家の商会で大人たちと話す時ほど畏まる必要はないし、第二クラスの友人たちと話す時より少し丁寧にするくらいでちょうどよかった。
「そういえば、アストリア商会って君の家だよね?」
「うん、そうだよ」
「うちも結構お世話になってる。母がよく布地を頼んでるみたいで」
「本当? ありがとう。どの辺りのものかな」
「たしか南部の――」
「あ、それなら去年から扱いが増えたものかも」
そこから商会の話にも少し広がった。どの地方の布が人気なのか。最近はどんな意匠が好まれているのか。別の女子生徒が、母親が香油を買ったことがあると言えば、フローレンはすぐに扱っている店の名前を思い出した。
「詳しいね」
「家で話を聞くことが多いから」
答えると、また一人が口を開く。
「アストリアさん、お兄さんいるよね?」
「うん」
「うちの兄と同級生だったみたい。すごく優秀だったって聞いてるよ」
フローレンは少し目を丸くした。
「え、兄と? そうなんだ。お兄さんのお名前、聞いてもいい?」
ごく自然に返した、その時。ふと視線を感じて少し離れたところを見ると、レオと目が合った。
琥珀色の目が、いかにも楽しそうに細められている。
何も言ってはいないが、顔にはっきり書いてあった。
――あれ? お兄ちゃんって呼ばないの?
フローレンは笑顔を崩さないまま、レオにだけ分かる程度に眉をきゅっと寄せ、ほんの少し唇を尖らせた。
どうやら十分伝わったらしく、レオの肩が僅かに揺れた。そのやり取りに気づいたらしいルシアンが二人を交互に見て、僅かに眉を寄せる。何をしているんだ、という顔だった。
フローレンは何でもないふりをして、再び話していた女子生徒へ向き直った。
そのまましばらく話しているうちに、最初に感じていた緊張はいつの間にか薄れていた。特別試験のことから商会の話へ、そこから兄や家族の話へと話題は移り、気づけば何人かの生徒と自然に笑い合っている。
少し離れたところでは、ルシアンが自分の席へ荷物を置いていた。こちらへ一度視線を向けたものの、声をかけてくることはない。レオも机のそばへ腰を預けたまま、楽しそうにこちらを見ているだけだった。
どうやら二人とも、今は手を貸す必要がないと思っているらしい。
フローレンはそれを少しくすぐったく感じながら、もう一度目の前の女子生徒へ笑い返した。
しばらくして、フローレンは教えてもらった席へ向かった。
鞄を机の横へ掛けてから周囲を見ると、斜め後ろにルシアンがいる。さらにルシアンの真後ろにはレオの席があった。
「あ、近いね」
「そうだね」
レオが笑い、ルシアンも小さく頷いた。
席へ座り、改めて教室を見渡す。前方の黒板。窓から差し込む春の光。まだ新しい教本を開いている生徒。休み中の話を続けている者。机の上で何かを書き留めている者もいる。
放課後の自習室ではない。三人で待ち合わせた場所でもない。
授業が始まる朝の教室に、ルシアンとレオがいる。
そのことが、今になって少し不思議に感じられた。昨日までは「明日から同じ教室」と言葉にしていただけだった。
今日はもう、本当にそこに座っている。
フローレンは机の上へ新しい教本を置き、指先で表紙をそっと撫でた。さっきまで冷たかった手は、もうすっかり温かかった。
やがて、教室の扉が開いた。
担任教師が入ってきた瞬間、それまで重なっていた話し声が少しずつ収まっていく。椅子が引かれ、紙が整えられ、教室の空気がゆるやかに一つの方向へ向いた。
フローレンも背筋を伸ばす。胸はまだ少しだけ高鳴っていたけれど、今度は不安だけではなかった。
教師が教壇へ立ち、教室を見渡す。
「では――四年生最初の授業を始める」
朝の光の中で、フローレンはまっすぐ前を向いた。




