60:明日から
帰寮日の午後、学院には春休みを終えた生徒たちの声が戻り始めていた。
寮へ荷物を運び終えたフローレンは、まだ片づけきれていない鞄を部屋へ残して廊下へ出た。
窓の外では、冬の名残をすっかり失った木々の枝先に淡い緑が広がっている。行き交う生徒の数も少しずつ増え、数日前まで静かだったはずの校舎が、新しい学年を迎える準備を始めているようだった。
約束していたわけではない。それでも階段を下り、いつもの場所へ向かおうとした足はほとんど迷わなかった。
渡り廊下へ出たところで、向こう側から歩いてくる二つの姿が見える。赤い髪を後ろで編んだ長身と、その隣を歩く金色の髪。
フローレンの足が、ほんの少しだけ速くなった。
「レオ、ルシアン!」
二人もこちらに気づいた。レオがすぐに片手を上げ、ルシアンの表情もこちらを見つけると少し柔らかくなる。
「フローレン。久しぶり」
「久しぶり」
「おかえり、フローレン」
「ただいま。二人も、おかえり」
春休みは、それほど長かったわけではない。それなのに三人で顔を合わせるのは、思っていたより久しぶりに感じた。
「もう荷物片づけた?」
「まだ途中。とりあえず大きいものだけ置いてきたの」
「俺もそんな感じ。ルシアンは?」
「終わっている」
「早いなあ」
「二人が遅いんだろう」
いつもの調子で言葉を交わしながら、三人の足は自然と同じ方向へ向いた。休みの間に何をしていたのかという話になったのは、階段を下りきった頃だった。
「フローレンは?」
レオに尋ねられ、フローレンは少し考える。
「お兄ちゃん……じゃなくて、兄と盤上遊戯したよ」
口から出た言葉に、自分で気づいた。
一拍。
レオの猫のような目が、楽しそうに細くなる。
「ふうん。家ではお兄ちゃんって呼んでるんだ?」
「ちゃんと言い直したから、そこは流して」
少し熱くなった頬を誤魔化すように言うと、レオは肩を揺らして笑った。
「はいはい」
「で、どうだったんだ?」
ルシアンは本当に流した。
ありがたいような、ほんの少しだけ居たたまれないような気持ちになりながら、フローレンは答える。
「うん、勝てた」
「そうだろうね」
「そうだろうな」
二人の声がほとんど重なった。
「……なんで二人とも、そんなに当然みたいに言うの?」
「だってねえ」
「僕たちは一度も勝てていないからな」
あまりにも真顔で返されて、フローレンは笑った。
「得意かも、って最初に言ったのに、兄が全然信じてくれてなかったから。いつもより本気出しちゃった」
今度は、二人が揃って足を緩めた。
「……いつもより、本気?」
「いつものは本気じゃなかったのか……?」
レオとルシアンが、わずかにざわつく。
「本気ではやってたよ? でも、絶対勝ちたいって気持ちはいつもより強かったかも」
「その違い、俺たちにとってかなり重要なんだけど」
「そうなの?」
「そうだよ」
レオは苦笑し、ルシアンも何とも言えない顔をしている。その様子がおかしくて、フローレンはまた笑った。
「でね、妹に負けたままじゃいられないからって、また対局記録を集めるんだって」
「……あの、千二百十七冊か」
「あ、春休みに新しいのを十冊取り寄せてたから、今は千二百二十七冊」
「ちなみに……?」
レオが恐る恐る尋ねる。
「春休み中に全部読んだよ?」
ぱちりと瞬きをするフローレンの横で、レオが遠い目をした。
「……俺の勝ち星がまた遠のいた」
「僕の分もな」
静かに加わったルシアンの言葉に、フローレンは思わずくすりと笑った。
「レオは?」
今度はこちらから尋ねると、レオは少しだけ視線を宙へ向けた。
「俺は、弟と妹の喧嘩に巻き込まれた」
「レオ、喧嘩の仲裁うまそうだよね」
「いや、全然。折衷案はたくさん出したんだけど、全部駄目だった」
「お前にも手に負えないことがあるんだな」
ルシアンの口元に、ほんの少し面白がるような笑みが浮かぶ。
「あるよ。俺をなんだと思ってるの」
レオはわざとらしく眉を寄せたあと、すぐに肩を落とした。
「結局、父上がふらっと来て、一瞬で解決。あれはすごかったなあ……」
その時のことを思い返したのか、少し遠い目になる。ルシアンはそんなレオを横目で見て、ふと尋ねた。
「でも、二人からは感謝されたんじゃないか?」
「え?」
レオが振り向く。
今度は先ほどまでの軽い調子ではなかった。本当に予想していなかったらしく、琥珀色の目が僅かに見開かれている。
「なんで分かったの?」
「いや。お前のことだから、最後まで二人とも納得できる折衷案を探していたんだろうと思って」
ルシアンは何でもないことのように言った。
「片方の話だけ聞いて、こちらが正しいと決めるようなことはしないだろうしな」
レオはしばらくルシアンを見た。
「……いや、まあ、そうなんだけどさ。結局、解決はできなかったし」
「それでも、二人とも自分の話をちゃんと聞いてもらえたとは思ったんじゃないか?」
「……そう、なのかな」
どこか腑に落ちきらない顔をしている。その横顔を見ながら、フローレンは笑った。
「頼れるお兄さんなんだね、レオ」
「うーん? あー……いや、どうかな……」
レオの視線が、ふいと横へ逸れた。
いつもなら誰かの反応を面白がって笑っている側なのに、今は珍しく、どう返せばいいのか分からないような曖昧な笑みを浮かべている。
そんなレオを見るのは珍しくて、フローレンはぱちりと目を瞬いた。
「あ、もしかして照れてる?」
「ああ、これは照れてるな」
「珍しい」
「珍しいな」
「ちょ、ちょっと、二人とも」
普段真っ先に人をからかう側のレオが、今度は本当に困ったように眉を下げる。
「もー、やめてって……」
フローレンとルシアンは顔を見合わせ、揃って笑った。
「それで、ルシアンは?」
散々からかわれたレオが、話題を変えるように尋ねる。
ルシアンは少し待ってから、抱えていた荷物の中へ手を入れた。
「僕は、これを持ってきた」
取り出したのは、一冊の本だった。少し古びた表紙には、長い年月のあいだ何度も手に取られてきた跡が残っている。
「本?」
フローレンが覗き込むと、レオも反対側から顔を寄せた。
「子どもの頃に好きだったものなんだ。二人にも読んでもらえたらと思って」
「ルシアンが子どもの頃?」
レオの声がすぐに弾む。
「どんな話?」
「何人かの旅人が各地を巡る冒険物語だ。少し古いものだが、今読んでも面白いと思う」
フローレンは表紙へ目を落とした。
子どもの頃のルシアンが、この本を何度も開いていた。そう思うだけで、まだ知らない物語が少しだけ特別なものに見える。
「読みたい!」
「俺にも読ませて」
顔を上げて言うと、レオの声がほとんど重なった。ルシアンの紫色の目が僅かに和らぐ。
ルシアンは「ああ」と頷き、本を差し出しかける。
けれど、その手がふと止まった。
フローレンとレオを順に見て、それから手の中の本へ視線を落とす。何かを考え込むように黙ったまま、しばらくその場で動かない。
「……ルシアン?」
呼びかけると、ルシアンが顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや……」
また本へ目を落とし、考え込むような長めの間を置く。しばらくして、ルシアンは二人を見た。
「……読む順番は、二人に任せる」
一瞬の沈黙。
レオが目を細める。
「……もしかしてさ。今ずっと、どっちに先に貸すか考えてたの?」
「そうだが」
「ものすごい長考の末に丸投げするじゃん」
レオが呆れたように笑う。ルシアンは「丸投げではない」と心外そうに続けた。
「よくよく考えれば、二人が読む本なのだから、僕が決めずに二人へ判断を任せても良いだろうという結論に至ったんだ」
ルシアンは至って真面目だった。
その様子がおかしくて、フローレンは口元を押さえる。
「じゃあ、私が先に読もうか? たぶんレオより早く返せるし」
「うん。それがいいね。じゃあフローレン先で」
二人の間では、数秒もかからなかった。
「決まったよ」
「……ああ」
ルシアンがあれほど長く考えていた問題が、あまりにもあっさり片づいてしまった。
ルシアンが僅かに複雑そうな顔をすると、レオが楽しそうに笑う。
「ほら、すぐ決まった」
「……そうだな」
少し間を置いて、ルシアンも素直に頷いた。
フローレンは渡された本を両手で受け取る。
「ありがとう。大事に読むね」
「ああ。感想を聞かせてくれ」
その声がどこか嬉しそうに聞こえて、フローレンも自然と笑った。
三人が辿り着いたのは、結局いつもの自習室だった。
授業は明日からで、今日はまだ机へ教材を広げる必要もない。それでも扉を開け、馴染んだ部屋へ足を踏み入れると、帰ってきたのだという実感がようやく胸の奥へ落ちてきた。
窓際の机も、三人で何度も囲んだ席も、休みに入る前と何も変わっていない。問題集を広げたことも、盤上遊戯をしたことも、他愛もない話に時間を使ったこともある場所だった。
閉め切られていた窓を少し開けると、春の風が入り込み、机の上に残っていた紙の端を小さく揺らした。
フローレンは手にしていた本を机へ置く。
その時、不意に明日のことを思った。
「……明日から、同じ教室だね」
口にすると、その言葉が思っていたよりもはっきり胸へ響いた。
レオがこちらを見る。
「そうだね」
「ああ」
去年まで、二人は特進クラスにいた。
フローレンは第二クラスで授業を受け、放課後になればここへ来た。二人と過ごす時間はたくさんあったけれど、授業の間だけはそれぞれ別の場所にいた。
明日からは、その時間まで同じになる。
兄から聞いた特進の話を思い出す。授業は速く、実習も多い。大変だったけれど、それ以上に楽しかったのだと兄は言っていた。
不安がなくなったわけではない。
それでも今は、自分がそこでやっていけるかを怖がるより、まだ知らない授業を受けてみたいという気持ちの方が少し強かった。
「どんな感じなんだろう、特進の授業」
「授業によるね」
レオが椅子の背へ軽く身体を預ける。
「結構速いのもあるし、いきなり『考えてみて』って投げられるのもあるし」
「先生によっても随分違うな」
ルシアンも続け、それからフローレンを見る。
「でも、分からないことがあれば、これまで通り一緒に考えればいい」
いつもの穏やかな声だった。
答えを教える、と言うのではない。これまで何度もそうしてきたように、一緒に考える。
フローレンは二人の顔を見て、小さく頷いた。
「うん」
その一言を口にすると、胸の中に残っていたものが少し軽くなった。
窓の外では午後の光が少しずつ傾き始め、校舎へ戻ってきた生徒たちの声もいつの間にか増えていた。三人はそのまま自習室でしばらく休みの話を続け、気づけば春の空には淡い夕暮れの色が混じり始めていた。
それぞれの寮へ戻るため、廊下の分かれ道で足を止める。
「じゃあ、また明日」
フローレンが言うとレオが笑って片手を上げ、ルシアンは目元を和らげた。
「また明日」
「ああ。また明日」
いつも何度も交わしてきた言葉なのに、その日はほんの少しだけ違って聞こえた。
明日の朝、向かう教室はもう同じだった。




