59:春期休暇 〜レオの受難〜
午後の光が、長い廊下の窓から斜めに差し込んでいた。
自室へ戻る途中だったレオは、角を曲がる少し前で足を止めた。
「だから、それは僕が先に言ったんだって!」
「でも、私だって約束してたの!」
聞き慣れた二つの声が、普段よりずっと大きい。
レオは一度だけ天井を仰いだ。
「……あー」
どうやら、また何か始まっている。
声のする方へ向かうと、南側の小さな談話室で、双子の弟と妹が真正面から睨み合っていた。
二人は今年で十二になる。顔立ちはよく似ているのに、こうして喧嘩をしている時の表情は随分と違った。弟は眉をぎゅっと寄せ、妹は頬を赤くして唇を引き結んでいる。
その間のテーブルには、小さな花瓶が一つ置かれていた。挿してあるのは、淡い黄色の花が一輪だけ。
「……何してるの、二人とも」
二人が同時に振り返った。
「兄上!」
「兄上、聞いて!」
「はいはい。順番ね」
レオは近くの椅子を引き、二人の間に腰を下ろした。
「まず、何で喧嘩になったの?」
弟がすぐに花を指差す。
「これ、僕が庭師長にあげるんだ」
「違う、私が先に約束したの!」
「だから順番」
レオが苦笑すると、妹は不満そうな顔をしながらも一度口を閉じた。
話を聞いてみれば、問題は思ったより単純だった。
その花は、双子が去年の秋から育ててきたものだった。種を持ってきたのは妹の友人で、庭へ植えてからは、この屋敷の庭師長に二人で育て方を教わっていたらしい。
春になってようやく咲いた最初の一輪を、朝のうちに二人で摘み、談話室へ持ってきた。そこまではよかった。
弟は、その花を庭師長へ贈りたかった。
「だって、ずっと育て方を教えてくれたんだよ。咲いたら最初の花をあげるって、僕、前から決めてたんだ」
レオは頷く。
「うん。それは分かる」
すると妹がすぐに身を乗り出した。
「でも、この花の種をくれたのは私の友達だよ。最初に咲いたら一輪あげるって、ずっと前から約束してたの!」
「なるほど」
それも分かる。
「だから私が先なの」
「でも、ここまで育てられたのは庭師長が教えてくれたからだろ!」
「そもそも種がなかったら咲いてないもん!」
「僕だって咲いたら渡そうってずっと思ってた!」
「私はちゃんと約束したの!」
レオは両手を軽く上げた。
「はい、そこまで」
二人が不満そうに口を閉じる。
レオは花へ視線を落とした。
困ったことに、どちらの言い分にもそれなりの筋が通っている。弟は世話になった相手へ感謝を伝えたい。妹は種をくれた友人との約束を守りたい。
しかも二人とも、それだけではないのだろう。ここまで一緒に育てた最初の花だからこそ、自分が大切だと思う相手へ渡したい。そこに少しばかりの意地まで加わって、もう後には引けなくなっているらしい。
「じゃあさ」
レオはまず一つ目の案を出した。
「今日は庭師長に見せて、明日まで花瓶に置いておいて、そのあと友達に渡すのは?」
「僕はちゃんとあげたい」
「私も、摘んだ次の日に渡すのは嫌」
「そっか。じゃあ、次に咲いた花をどっちかにするとか」
「最初の花だから意味があるの!」
二人同時だった。
レオは瞬いた。
「息ぴったりじゃん」
「兄上!」
「ごめんごめん」
笑っている場合ではないらしい。
「じゃあ、友達には別の花も一緒に選んで――」
「最初に咲いたらって約束したの」
「庭師長には、この花を見せてから別のものを――」
「この花をあげたいんだ」
「……うーん」
レオは椅子の背にもたれた。
考えれば案はいくらでも出る。時間をずらす。次の花を優先する。別の贈り物を添える。どちらかが今回は譲り、次に何かあった時には先に選べるようにする。
けれど、どれを出しても片方の顔が曇った。
「じゃあ、半分に――」
言いかけて花を見る。
「……いや、これは駄目だね」
「絶対嫌!」
「僕も嫌!」
「だよね」
レオは額を押さえた。
最初は、もう少し簡単に収まると思っていた。二人の話を聞けば、どこかに納得できる落としどころがあるはずだと。
けれど、理屈で条件を組み替えても、子どもの気持ちはそう簡単には動かない。どちらも譲りたくないだけの理由をちゃんと持っているからこそ、なおさらだった。
弟が唇を尖らせる。
「兄上は、どっちがいいと思う?」
レオの手が止まった。
「え」
「だから、どっちにあげるのがいいと思う?」
妹もこちらを見る。
「兄上なら分かるでしょ?」
「いや、それは……」
レオは二人の顔を交互に見た。
どちらを選べばいいのかは分からない。
ただ、二人ともそうしたい理由はよく分かる。
「どっちも、ちゃんと理由あるもんな」
「じゃあ兄上が決めてよ」
「えっ」
今度こそ、言葉に詰まった。
「いや、もうちょっと二人で話して――」
「さっきからずっと話してる!」
「兄上、逃げないで!」
「逃げてないって」
思わず声が少し上ずる。
逃げているつもりはなかった。
ただ、弟の希望を通せば、妹がどんな顔をするのかが想像できる。妹を選べば、今度は弟が何を飲み込むことになるのかも分かってしまう。
だったら、どちらも諦めなくていい方法を探せばいい。
そう思って、さっきからいくつも案を出している。けれど、そのどれも二人には届かなかった。
気づけば、片手が反対側の腕を掴んでいた。指先に、無意識のうちに少し力が入る。
まだ何かあるはずだ。
二人とも納得できる答えが、もう一つくらい。
けれど、今度はすぐには何も浮かばなかった。
「うーん……じゃあさ」
それでももう一つ案を考えようとした、その時だった。
「何を揉めている」
低く落ち着いた声が、談話室の入口から届いた。
三人が揃って振り返る。
そこに立っていたのは、ルベライト伯爵だった。
鮮やかな赤い髪と琥珀色の目は、レオによく似ている。ただし、困り果てた顔で双子に挟まれている息子とは違い、立っているだけで場の空気を整えるような落ち着きがあった。
「父上」
「お父様!」
双子がほとんど同時に声を上げる。
伯爵はテーブルの上の花と、三人の顔を順に見た。
「説明しなさい」
今度は弟と妹が、一斉に話し始めた。
「僕は――」
「私は――」
「一人ずつ」
短い一言で、二人が口を閉じる。
レオは思わず少しだけ笑った。
そこから事情を聞くのに、長い時間はかからなかった。弟の話も妹の話も、伯爵は途中で遮らずに聞いた。互いに口を挟みかけた時だけ静かに止め、二人が言い終えるまで表情を変えない。
そして最後まで聞き終えると、ほんの少しだけ考えた。
「分かった」
二人が期待するように父を見る。
伯爵は花へ目を落とした。
「その花は、今回は誰にも渡さない」
「えっ」
「どうして!」
二人の声が重なる。レオも僅かに目を見開いたが、伯爵は顔色を変えない。
「二人で育てた花なのだろう」
「そうだけど……」
「なら、一人で誰かに渡すと約束していいものではない」
弟も妹も黙った。
「庭師長へ感謝を伝えたいと思ったことも、友人との約束を守ろうとしたことも悪くない」
そこで一度、二人を見る。
「だが、二人のものを、相手に相談せずそれぞれが勝手に渡すと決めた。それは二人とも同じだ。だから今回は、どちらの希望も通さない」
妹がしゅんと肩を落とし、弟も不満そうに唇を尖らせた。
伯爵はそれを見ても、決めた言葉を引っ込めなかった。
「最初の一輪は、このまま二人の花として飾っておきなさい。庭師長には二人で咲いたことを報告すればいい。見せたいのなら、ここへ案内してもいいだろう」
「……うん」
「友人にも事情を話して謝りなさい。種をもらったことへの礼なら、次に咲いた花を渡す時に、二人から伝えればいい」
「……分かりました」
「そして次からは、二人のものを誰かに渡したい時には、先に二人で相談すること」
「はい」
「はい……」
声はまだ少し不満そうだった。それでも、先ほどまでのように互いを睨みつける空気はもうない。
伯爵がレオへ目を向ける。
「これでいいか?」
「俺に聞くの?」
「ずいぶん長く仲裁していたようだからな」
「……うん。俺はいいけど」
レオは苦笑した。
あれだけ案を出しても収まらなかったのに、父は一つ決めただけだった。しかも、二人が一番望んでいた答えではない。
それでも話は終わった。
「じゃあ、二人とも。もう喧嘩は終わり」
「兄上が言うの?」
「そこは言わせてよ」
少し間を置いて、妹が笑った。弟もつられるように口元を緩める。
ようやく空気がほどけたのを見て、レオもほっと息を吐いた。
談話室を出た伯爵の少し後ろを、執事長が静かに歩いていた。
先ほどの騒ぎをすべて見ていたわけではない。それでも、廊下まで届いていた声や三人の様子を見れば、大体のことは察せられた。
「レオ坊ちゃんは、お優しいですからな」
執事長が穏やかに言う。
伯爵が歩調を緩めた。
「そうだな」
「お二方のどちらにも、終始心から寄り添っておいででした」
伯爵は少しだけ振り返り、閉じた談話室の扉を見る。
「あの優しさは、レオの強みだ。だが――同時に弱みにもなり得る」
「はい」
「子ども同士の喧嘩なら、納得するまで付き合ってやればいい。だが、いつでも皆が満足する答えを選べるとは限らない。いずれは、誰かが残念がると分かっていても決めなければならない時が来る」
伯爵の声には、先ほど談話室で子どもたちへ向けていた柔らかさとは違う、領主としての重みがあった。
「まだ十六とはいえ、もう十六だ。そろそろその辺りも教えるべきかと思っている。お前はどう見る?」
問われた執事長は、すぐには答えなかった。
長くこの家に仕え、伯爵の少年時代も、レオが生まれた頃も知っている。少し考えてから、丁寧に口を開いた。
「僭越ながら申し上げますと、もうしばらくご様子をご覧になってもよろしいかと存じます」
「というと?」
「学院で、良いご学友に恵まれたのでしょう。以前よりも、ご自身の望みを素直にお言葉になさることが増えました」
伯爵が僅かに眉を上げる。
「以前のレオ坊ちゃんなら、ご自分が何をなさりたいのかと尋ねられても、まず周りの方々がどうしたいのかを考えておいででしたから」
「……そうか」
「少しずつ、変わってきておられるように見受けられます。今はまだ、ご学友との間で学んでおられる最中なのではないでしょうか」
伯爵は何も言わず、廊下の先へ視線を向ける。
「子を信じて見守ることも、親の務めでございます」
「……そうか」
同じ言葉を、今度は少し考えるように繰り返した。
執事長の目元が僅かに和らぐ。
「そもそも旦那様も、レオ坊ちゃんと同じお年頃には、ご決断まで随分とお時間をかけておいでで――」
「その話はいい」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「その先を知っているから止めたんだ」
「左様でございますか」
執事長は表情こそ崩していない。けれど、その目元には、長年この家に仕えてきた者らしい柔らかな色が浮かんでいた。
伯爵はしばらくそんな執事長を見ていたが、やがて観念したように肩の力を抜き、口元を緩めた。
「はは。お前には敵わないな」
「恐れ入ります」
「褒めてはいない」
「存じております」
伯爵は小さく首を振った。その表情にはどこか懐かしむような笑みが残っている。
そのまま廊下をしばらく歩いたところで、ぽつりと言う。
「……もう少し、見てみるか」
「はい」
執事長はそれ以上何も言わなかった。
その頃レオは、自室の長椅子へ身体を預けていた。
「父上、すごかったなあ……」
自分だって、考えられる案はかなり出したつもりだった。どちらかだけが我慢しなくて済むように、二人とも納得できるように。それでも最後まで、一つに決めることはできなかった。
父は二人の話を聞いたあと、あっさりと答えを選んだ。しかも、二人とも少し不満が残る答えを。
「比べると、俺、全然だったな」
苦笑しながら天井を見たところで、扉が軽く叩かれた。
「兄上、入っていい?」
「いいよ」
返すと、双子が揃って顔を覗かせた。さっきまであれほど揉めていた二人が、今は何事もなかったように並んでいる。
「もう仲直りしたの?」
「うん」
「したよ」
「早いなあ」
レオが笑うと、二人はそのまま部屋へ入り、長椅子の前までやってきた。
「兄上、さっきありがとう」
「ん?」
「僕の話、ちゃんと分かってくれたから」
弟が言うと、妹もすぐに続いた。
「私の話も。兄上、ずっと私の気持ちも分かってくれてたでしょ?」
「……うん。まあ、二人とも言ってることは分かったからね」
「だからありがとう」
「ありがとう、兄上」
二人とも、もうすっかり機嫌を直している。
レオはその顔を見比べたあと、ふっと笑った。
「どういたしまして」
結局、自分は何も決められなかった。二人の希望する形にもならなかった。それでも二人とも、自分の気持ちは分かってもらえたと思っているらしい。
それなら、全部が駄目だったわけでもないのかもしれない。
「で、花はどうするの?」
「庭師長に、咲いたって言いに行く」
「私は明日、友達にちゃんと謝る。次の花が咲いたら、一緒に見ようねって言うの」
「そっか」
今度こそ、本当に解決したらしい。
レオはほっと肩の力を抜いた。
――翌朝。
「だから今日は僕が先だって言っただろ!」
「昨日だってそう言ってたじゃない!」
廊下の向こうから聞き覚えのある声が響き、レオは足を止めた。嫌な予感とともに振り返った、その瞬間。
「兄上!」
二人分の声が、見事に重なる。
レオは片手で顔を覆った。
「……勘弁してくれ」




