58:春期休暇 〜ルシアンの思慕〜
春休みに入って三日目。
朝の鍛錬を終えて着替えを済ませたルシアンが父の執務室を訪れると、窓辺にはやわらかな春の日差しが落ちていた。
学院にいる間にも何度か手紙を受け取っていたが、こうして同じ屋敷で顔を合わせるのは久しぶりだ。大きな机の向こうでは、父が朝から領地から届いた書類へ目を通している。扉を開けた音に気づくと、紙面から顔を上げた。
「おはよう、ルシアン。休暇だというのに相変わらず早起きだな」
「父上に言われたくありません」
返すと、父が小さく笑った。
「違いない」
その声音には、領主として人前に立つ時の硬さはない。ルシアンも自然に肩の力を抜き、勧められた椅子へ腰を下ろした。
「学院はどうだった?」
「無事に三年次を終えました。成績も、昨年より悪いところは特にありません」
「相変わらず控えめな報告だな。通年首位だったと聞いているぞ」
「順位そのものは、あまり気にしていないので」
「知っている。だが、父親が息子を褒める材料にはなる」
「……ありがとうございます」
わずかに照れながら答えると、父は満足したように頷いた。
そして一息つくと、机の端へ置かれていた一冊の薄い報告書を手に取り、先ほどまでとは少し違う手つきでルシアンの前へ差し出した。
「ところで、時間があるならこれを見ておきなさい」
その一言で、部屋の空気がわずかに変わる。
先ほどまで向かい合っていたのは、久しぶりに帰ってきた息子と、その帰省を喜ぶ父親だった。
けれど机の上に領地の資料が置かれた瞬間、そこにはノクティス公爵と、いずれその地位を継ぐ者としての時間が始まる。
ルシアンも背筋を伸ばした。
「今年の雪解け後に行った、北部街道と周辺の橋梁の点検報告だ。大きな損傷はないが、補修が必要な箇所はいくつか出ている」
「拝見します」
報告書を受け取り、頁を開く。
冬の間に凍結と融解を繰り返した路面の傷み。河川沿いに架かる小さな橋の木材交換。春先の増水を見越した護岸の確認。どれも今すぐ通行を止めるほどではないが、放置すれば次の冬までに問題が大きくなる可能性があるものだった。
補修候補は七箇所。
そのうち、今年中に手を入れる予定が五箇所。残る二箇所は、緊急性と予算を踏まえ、翌年度へ送ると記されている。
ルシアンは一通り読み終えると、最初の頁へ戻る代わりに、内容を頭の中でもう一度整理した。
「どう見る?」
父が尋ねる。
「優先順位そのものには納得できます。南側の石橋は損傷が進んでいますし、ここを止めれば近隣三村の荷が迂回することになる。先に直すべきです」
「北西の街道は?」
「路面の傷みはありますが、現時点では通行に支障がない。代替路もあるので、後回しにした理由は分かります」
父が頷く。
そこで終えてもよかった。
けれど、報告書の中にあった一文が気になった。
「父上。北西街道の昨年度の通行量は分かりますか?」
「ある。見るか?」
「はい」
父が机の脇に積まれた資料から一冊を抜き出す。
ルシアンはそれを受け取った。
年間の通行量。季節ごとの変化。主に利用する村と商人。確かに、他の主要街道と比べれば少ない。
「この代替路は、通常どれくらい遠回りになりますか?」
「荷車なら半日ほどだな」
「積雪期は?」
「冬はもう少しかかる」
「その記録もありますか?」
父が目を上げた。
「あるが」
「見ても?」
「ああ」
今度は地図と、冬季の通行記録が机に加わった。
代替路は距離こそ延びるものの、勾配は比較的緩い。北西街道を一年後まで補修しなくても、現状では大きな問題は起こりそうにない。
それでも、ルシアンの視線は次の数字へ移った。
「補修を一年延ばした場合、費用はどれくらい増える見込みですか?」
「試算がある」
「資材価格は昨年より上がっていますよね」
「そうだな」
「では、その推移も――」
「ルシアン」
父の声が、静かに割って入った。
ルシアンは口を閉じる。
いつの間にか、最初は一冊だった報告書の周囲に二冊の資料と地図が広がっていた。
父はそれらへ一度目を落とし、それからルシアンを見る。
「何を決めようとしている?」
「……何を、ですか?」
「私は最初に、この報告をどう見るかと聞いた」
声は穏やかなままだった。
けれど、先ほどまでとは違う。
ルシアンは膝の上でそっと指を組み直した。
「今年の補修順位が妥当かどうかを、確認しています」
「そのために、あと何が必要だ?」
「北西街道を一年後へ回した場合の補修費と、資材価格の推移。それから、代替路に負荷が集中した場合の――」
「それを確認したら?」
ルシアンは言葉を止めた。
父が続ける。
「次は、代替路そのものが傷んだ場合を調べるか?」
「……必要であれば」
「その次は?」
「周辺の別の道を」
「その周辺は?」
「……」
答えながら、自分でも気づいた。
終わりがない。
父は椅子の背へ浅く身を預けた。
「よく見ている。数字も条件も、報告書の文言だけで済ませず確かめようとする姿勢は悪くない。むしろ、お前の長所だと思っている」
最初にそう言われたことで、かえって次の言葉が重くなる。
「だが今のお前は、判断するために資料を増やしているのではないな」
ルシアンは眉をわずかに寄せた。
「では、何のためだと?」
「安心するためだ」
思っていなかった言葉だった。
「……安心、ですか」
「自分で確かめたものなら信じられる。自分が把握した条件なら判断できる。だから、少しでも分からないものが残ると、その先を確認したくなる」
父は机の上の資料を指先で軽く示した。
「領地の全てを知ろうとすること自体は悪くない。だが、お前一人が全てを確認し終えるまで判断できないのなら、領主としてはいずれ立ち行かなくなる」
父の声は静かだった。責めるような響きはない。それでも、曖昧に聞き流してよい言葉ではないことだけは分かる。
胸の奥で、以前にも似たことを言われた記憶が引っかかった。秋の合同実習で、教師から告げられた言葉。
――班長がすべてを知っていることと、班が動けることは同じではない。
あの時、自分は資料を抱え込み、班の中で起きることを可能な限り自分の手元へ集めていた。そこで初めて、自分は「任せること」が不得意なのだと思った。
「……学院でも、似たようなことを指摘されました」
父の眉がわずかに動く。
「そうか」
「班を任された時、全体を把握しようとするあまり、僕がいなければ判断できない状態を作ってしまったことがあります」
「なるほど」
「それからは、以前より人に任せるようにしています」
父はすぐには答えなかった。しばらくルシアンを見たあと、静かに問い返す。
「任せたあと、お前はどうしている?」
「……必要な確認はします」
「どこまで?」
ルシアンは黙った。
父の口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
「そういうところだ」
その一言に、ルシアンは返す言葉を失った。
「お前は任せること自体はできる。昔からそうだ。人の能力もよく見ているし、不得意な者へ無理に仕事を振るようなこともしない」
そこまで言って、父の眼差しがわずかに鋭くなる。
「だが、任せたものを最後まで相手の判断として預けておけるかは、別の話だ」
ルシアンは机の上へ視線を落とした。
通行記録、地図、補修費、資材価格……どれも必要な情報であり、見過ごしてよいものではない。
だからこそ、どこで確認をやめればいいのかが難しかった。
「責任を負うなら、できる限り把握しておくべきだと思っています」
「ああ。責任者が何も知らないのは論外だ」
父は即座に肯定した。
「だが、責任を負うことと、すべての判断を自分のものにすることは同じではない」
ルシアンは、その言葉を黙って受け取った。
父は領地のすべての道を自分で見て回るわけではない。橋の傷みを一本ずつ確かめることも、すべての倉庫へ足を運ぶこともない。
それでも、ノクティス領の最終的な責任を負っているのは父だ。
報告を信じ、担当者の判断を使う。必要な時には確かめ、そうでない時には託す。どこまで自分が知るべきなのか、その境界を選ぶことまで含めて、父は領主として判断しているのだろう。
「……難しいですね」
思わず零すと、父の表情が少し緩んだ。
「簡単なら、今のうちから教える必要もない」
先ほどまで張りつめていた空気が、そこではじめて僅かにほどける。
「お前ならできると思っているから言っている。焦る必要はない」
まっすぐ向けられた言葉に、ルシアンは小さく頷いた。
「はい」
父も一度頷き返す。けれど、それで話を終えるつもりはないらしい。目元に残っていた柔らかさをわずかに引き締め、机の上の資料へ視線を落とした。
「ただし、何でも自分で確認しようとする癖は自覚しておけ」
ルシアンもつられて資料を見る。
ほんの短い間に、自分で増やした二冊と一枚の地図が並んでいる。
「お前は、それができてしまう分、余計に厄介だ」
「……それは褒められているのでしょうか」
「半分はな」
父が笑う。
つられてルシアンも小さく笑った。
「残り半分は?」
「今しっかり釘を刺したところだ」
「分かりました」
ようやく、いつもの親子の空気が戻ってくる。
父は机に広げられた資料を何冊か重ねながら、もう一度だけルシアンへ問いを投げた。
「それで、北西街道についてのお前の結論は?」
「……今年は後回しで妥当だと思います」
「追加資料は?」
「今は、必要ありません」
「よろしい」
短い返事だったが、その声には少しだけ満足そうな響きがあった。
執務室を出て扉を閉めると、ルシアンは廊下で小さく息を吐いた。
父との話は嫌いではない。領地について知らなかったことを知るのは面白いし、いつか自分が担う場所がどんな仕組みで動いているのかを考えることも好きだった。父から直接教わる時間も、学院では得られないものばかりだ。
ただ、それと疲れないことは別だった。
領地の話が始まれば、父は父親であると同時に公爵になる。そして自分もまた、ただの息子ではいられない。
何を聞かれているのか。なぜそう考えたのか。その判断に何を背負うのか。一つひとつの問いに、曖昧な答えは許されなかった。
ルシアンは首筋へ残ったわずかな緊張をほぐすように肩を回し、資料を抱えて書庫へ向かった。
ノクティス家の書庫は、屋敷の一角を広く使っている。領地に関する記録から歴史書、法令集、各地の地誌、そのほか物語や詩集まで、長い年月をかけて集められた本が天井近くまで並んでいた。
先ほど預かった資料を決められた棚へ戻し、最後の一冊を差し込む。その時、すぐ隣に並んだ古びた背表紙が目に入った。
「……懐かしいな」
指をかけて抜き取ったのは、子どもの頃によく読んだ冒険物語だった。
豪華な装丁でも、歴史的価値のある本でもない。何人かの旅人が各地を巡り、道中で面倒事に巻き込まれては、どうにか切り抜けながら先へ進んでいく話だ。
幼い頃のルシアンは、主人公たちが知らない土地へ足を踏み入れるたびに頁を捲る手が止まらなくなった。久しぶりに開いてみれば、記憶に残っていた挿絵もそのままそこにある。
開いたのは、主人公たちが山道を外れ、妙に陽気な村人ばかりが住む小さな村へ迷い込む場面だった。
ルシアンは思わず口元を緩める。
レオなら、たぶん主人公よりこの村人たちを気に入る。理由もなく宴を始め、旅人を引き留めようとする老人が出てくるのだが、きっとそこを面白がるだろう。挿絵に描かれた大げさな身振りを見て、「この人好きだな」と笑う顔まで容易に想像できた。
では、フローレンはどうだろう。
頁をもう一枚捲る。この先には、一見どうでもよさそうな会話が、ずっと後になって旅の行き先を決める手掛かりになる場面がある。一度読めば、彼女なら最初の一言まで覚えているだろう。
けれど、どこで気づくのかは分からない。どの場面を面白いと思って、どの人物を好きになるのかも知らない。
――フローレンは、こういう話も好きだろうか。
そう考えた途端、さっきまで頭の中を占めていた補修費や通行量が、ふっと遠ざかった。
静かな書庫に響くのは、頁を捲る小さな音だけだ。
レオなら何を言うだろう、フローレンならどんな顔をするだろう……二人の反応を想像しながら昔好きだった物語を読み返す時間は、思っていた以上に心地よかった。
「……借りていこう」
小さく呟いて、本を閉じる。
そのまま書庫を出ようとして、ふと帰寮の日を思い出した。
ルシアンは上着の内側から革張りの手帳を取り出し、休暇中の予定を書き込んだ頁を開く。学院へ戻る日には、あらかじめ印をつけてあった。
ルシアンはその日付をしばらく眺めた。
家でやることは多い。父から教わりたいこともあるし、読んでおきたい資料もある。鍛錬も勉強も、休暇中に進めておきたいことはいくらでもあった。退屈しているわけではないし、家で過ごす時間が嫌いなわけでもない。
それなのに、二人とまた顔を合わせる日までを数えてみると、なぜか思っていたより遠く感じる。
手の中の物語へ一度視線を落とし、もう一度手帳の日付を見る。
「……少し長いな」
誰に聞かせるでもなく零れた声は、静かな書庫の中へすぐに溶けていった。




