57:春期休暇 〜フローレンの成長〜
学院から家へ戻った翌朝。
開けた窓から、車輪の軋む音が聞こえてきた。荷を積んだ馬車が石畳を進み、少しずつ遠ざかっていく。その向こうからは商人たちの声が重なり、時折、木箱を置く乾いた音が混じった。
休暇のたびに聞いてきた、馴染み深い朝の音だった。
三年生の一年を学院で過ごして戻ってきても、アストリア家の朝は変わらない。階下へ降りれば焼きたてのパンの香りがあり、廊下の先では商会の者が父を呼び止めている。朝食の席には母と兄と弟がいて、少し遅れて父が書類を片手に入ってきた。
「朝から忙しそうだね、お父さん」
「春先はいつもこんなものだ」
父はそう言いながら席につき、持っていた書類を脇へ置いた。すぐそばへ控えていた使用人が淹れたてのコーヒーを置くと、父は礼を言ってカップへ手を伸ばす。香ばしい匂いがふわりと立ち上り、一口飲んだところで、改めるようにフローレンへ視線を向けた。
「そうだ。昨日は帰ってきて早々、話があちこちへ飛んでしまったからな。改めて言っておこう」
何だろう、と首を傾げると、父の口元がゆるんだ。
「特進編入、おめでとう。よく頑張ったな、フローレン」
「……うん、ありがとう」
昨日も、家へ着いてすぐにたくさん祝ってもらった。母には抱きしめられ、父には「よく頑張った」と肩を叩かれ、兄には「まさかいきなり特進に行くとはな」と笑われた。それでも、こうして改めて言葉にされると、胸の奥がまたくすぐったくなる。
照れながら笑うと、向かいの兄がパンをちぎりながら口を開いた。
「第二から特進なんて、僕がいた頃にも聞いたことないよ。帰ってきた妹が学院史に残りそうなことをしてるなんて、兄としては少し複雑だな」
「どうして?」
「そのうち『優秀なアストリア』って言ったら、僕じゃなくてフローレンのことになるかもしれないだろ?」
「もう。そんなことないよ」
思わず笑うと、母もニコニコと楽しそうに目を細めた。
「でも、本当に頑張ったのね。最初の頃は、応用問題が分からないってよく悩んでいたでしょう」
「……うん」
ほんの一年ほど前のことなのに、少し遠い。
知っているはずなのに分からない。分からないなら、まだ何かを覚えていないのだと思っていた。だから本を開き、持っている知識を増やそうとして、それでも同じところで止まった。
今なら、あの頃とは違う問いを自分へ向けられる。何が分かっているのか。何を聞かれているのか。どこで分からなくなったのか。その条件から、次に何が言えるのか。
「今年も頑張るよ。せっかく特進に行けるんだもん」
「熱心なのは感心だが、くれぐれも無理はしないように」
「分かってる」
すぐさま父から釘を刺され、フローレンは少し頬を膨らませた。母と兄が同時に笑う。
一年前なら「大丈夫」と言い切っていたかもしれない。今は、頑張れることと、いつでも頑張るべきことが同じではないと知っている。
「ちゃんと休みながら、頑張ります」
もう一度、そう言い直す。父はフローレンの顔を見て満足そうに頷いた。
朝食を終えると、フローレンはそのまま商会の仕事を手伝うことにした。
休暇中は家でのんびり羽を休める予定だが、忙しそうな姿を横目に何もしないでいるのも落ち着かない。春先は商品の出入りも多く、邸に隣接した商会の建物へ渡れば、朝から人の声と足音が絶えず行き交っている。
窓の外では荷を運ぶ者たちが木箱を積み替え、事務室には紙とインクの匂いが満ちている。壁際の棚には取引先ごとの帳簿や伝票が整然と収められ、奥の机では兄が何枚かの記録を突き合わせていた。
幼い頃から何度となく見てきた場所だった。
「何か手伝える?」
「ん?」
兄が手にしていた紙を机へ置き、顔を上げる。
「せっかく休みなんだから、のんびりしててもいいんだぞ」
「みんな忙しそうだし。少しくらいなら」
「じゃあ……」
兄は手元を見回し、机の端から一枚の紙を取った。
「ちょうど良い。これ、見てもらっていいか?」
フローレンは、渡された受領記録へ目を通した。注文数は四十八箱。ところが、倉庫側の受領欄には四十七と記されている。
「一箱足りないの?」
「帳簿の上ではな。実物の在庫を数え直したら四十八ある。だから、どこかで記録だけ一つずれたらしいんだけど」
兄は別の紙を二枚並べた。
「出荷元では四十八。運搬担当の引き渡し票も四十八。倉庫の受領記録だけ四十七。ただ、昨日の棚卸しではちゃんと四十八あった。急ぎじゃないけど、このままにしておくのも気持ちが悪くてな」
新たに出された二枚にも目を通す。
四十八、四十八、四十七。日付と担当者、荷が商会へ届いた時刻、運搬担当から倉庫へ引き渡された時刻――書かれていた内容を頭の中へ順に置いていく。
見た内容を引き出すことは難しくない。以前なら、そのまま記憶の端から端まで並べていただろう。
「注文日は十二日。出荷記録は十四日の朝で、積み込みは――」
そこまで口にしかけて、フローレンは止まった。
兄が少しだけ眉を上げる。
「……どうした?」
「ううん」
今知りたいのは、全部ではない。四十八箱が実際にあることは、もう確かめられている。それなら、なくなった荷を探す必要はない。違っているのは、数字だけだ。
頭の中で、三つの記録をもう一度並べる。注文した時は四十八。出荷時も四十八。運搬担当が倉庫へ引き渡した時点でも、まだ四十八ある。
「……四十七になったのは、倉庫に渡ってからだよね」
「ああ」
「じゃあ、そのあとに何かあったのかな」
そこまで絞れば、探す場所は随分少なくなる。
その時、昨日この建物へ戻ってきた時に見た光景が、フローレンの中へ鮮明に浮かび上がった。中庭を通った時、倉庫の脇には木箱がいくつも積まれていた。その中に一つだけ、右上へ青い線の引かれた札が付いていた。
通常の荷から外し、もう一度確認するものにつける印だ。
「……一箱だけ、検品に回した?」
「え?」
「昨日ここを通った時に見たの。一つだけ、札に青い線が引いてあったよね」
兄が一瞬考え込み、やがて「ああ」と声を上げた。
「そういえば、留め具が緩んでいた箱が一つあったって言ってたな。中身に問題がないか確認するために別にしたはずだ」
「だったら、その時の記録は?」
兄が検品用の控えを何枚か繰る。その中から、小さな引き渡し票が一枚出てきた。
票には、問題の一箱を通常の荷から外して検品へ回し、中身を確認したあと倉庫へ戻したことが記されていた。日付も商品名も一致している。
「あった」
兄は引き渡し票と倉庫側の受領記録を並べ、今度は自分の目で二つを見比べる。検品を終えた一箱が戻された記録はある。けれど、そのあと倉庫側の受領数を四十七から四十八へ直した形跡がない。
「なるほど。受領処理の途中で一箱を検品に回したから、いったん四十七で記録したのか。それで、検品を終えた一箱が戻った時の追記が抜けたんだな」
「たぶん。だから実物は四十八あるんだね」
忙しい日に、一箱だけ通常とは違う流れへ回った。それを扱った者も、戻した者も、それぞれ自分の仕事はきちんとしている。ただ、最後の一行だけが次の人へ渡らなかった。
それだけの、ごく小さな食い違いだった。
兄は不足していた記録を整えながら、ふとフローレンを見る。
「……変わったな」
「え?」
「昔のお前なら、十二日の注文記録から今日の棚卸しまで、覚えてることを全部順番に言い始めてなかったか?」
言われて、フローレンは瞬きをした。想像するまでもない。
「……してたかも」
「しかも一字一句違わずに」
「だって、覚えてるんだもの」
「それでこっちは途中から、何の話をしてたか分からなくなるんだよ」
兄が笑うので、フローレンもつられて笑った。
たしかに以前の自分なら、知っていることを最初から全部並べれば、いつか答えに辿り着くと思っただろう。けれど今は、どこから違っているのかを先に探せる。
必要なのは、知っていること全部ではない。
今いる場所から、次に必要なもの。
「学院で教わったのか?」
「うん。……教わったっていうより、一緒に考えてもらった、かな」
最初に問いを投げてくれた人がいた。自分が止まっている場所を見つけてくれた人がいた。
答えを渡すのではなく、次に見る場所を一緒に探してくれた。
そのあとも何度も考えて、間違えて、また考えた。その繰り返しの中で、少しずつ自分でも問いを立てられるようになった。
「友達に?」
「うん」
答えると、兄はそれ以上は聞かなかった。
ただ少し嬉しそうに笑い、机の端に置いていた別の帳簿を一冊、フローレンの前へ滑らせる。
「じゃあ、こっちも見てくれる?」
「いいの?」
「特進のアストリアさんにお願いしようかなと思って」
からかうような声音に、フローレンは吹き出した。
「もう。自分だって特進のアストリアさんでしょ」
「元、だけどな」
懐かしいな……と兄は言って、少しだけ笑った。
フローレンより四つ年上の兄は、学院を卒業してすでに二年になる。家へ戻って商会を手伝うようになってからは、父の横で取引の話を聞き、時には一人で相手先へ赴く姿も珍しくなくなった。
その背中を、フローレンは幼い頃からよく見ていた。何でも知っていて、何でもできる兄。自分よりずっと先を歩くその人も、かつては同じ学院の特進クラスで学んでいた。
だから、ふと聞いてみたくなった。
「……特進は、どうだった?」
兄がフローレンを見る。
ほんの少し前まで浮かんでいたからかいの色が、その目から静かに消えた。小さくなった声の奥にあるものまで見透かされたようで、フローレンはわずかに視線を落とす。
「楽しかったよ」
答えは、驚くほど早かった。
迷いも、飾りもない。それから兄は、学院にいた頃の景色を辿るように目を細めた。
「授業は早いし、実習は多いし、それはもう大変だったけど。それでも、特進で過ごした日々は――」
そこで言葉が止まる。
フローレンは少し待ってから尋ねた。
「なに?」
兄は小さく笑った。
「間違いなく、今の僕を形作っている」
「そっか……そうなんだ」
楽しみの陰に隠れていた小さな心細さが、兄の言葉に少しだけほどけていく。
特進へ行けると決まった時は、嬉しかった。ルシアンとレオと同じ教室へ行ける。それだけで胸が弾んだし、自分がどこまでできるのか試してみたいとも思った。
けれど、楽しみだけではない。
自分よりずっと速く考える人たちがいる場所。これまで見たことのない課題もあるだろう。今までできるようになったことが、そこでも通用するのかは分からない。
二人の前では、まだその気持ちを言葉にしていなかった。けれど兄の前なら、不思議と隠さなくてもいい気がした。
「だからフローレン。不安に思わなくても大丈夫だ」
兄の声は穏やかだった。
「大変なことはあると思う。でも、お前ならきっと、その大変だったことまでちゃんと自分のものにして帰ってくるよ」
フローレンは少しだけ俯き、それから素直に頷いた。
「……うん。ありがとう」
兄は満足そうに笑い、先ほど渡した帳簿を指で軽く叩いた。
「それじゃあ、特進のアストリアさん。こっちの確認をお願いしようかな」
「もう。その呼び方やめてってば」
頼まれた帳簿をひと通り見終える頃には、窓から差し込む光もずいぶん高くなっていた。フローレンは帳簿を閉じ、凝った肩を軽く回す。
そこでふと、学院の自習室で三人で囲んだ盤のことを思い出した。
「あ、そういえば私、学院で友達と盤上遊戯をしたの」
兄が目を瞬き、すぐに「ああ」と頷いた。
「昔やってたあれか。まだ僕の部屋にあるから、時間ができたらまたやるか?」
「うん! ……あのね、たぶん私、あれ結構得意かも」
「はは。そうなのか」
兄は微笑ましそうに笑った。
どうやらフローレンの「得意かも」は「昔より少し上手くなった」程度にしか受け取っていないらしい。
――絶対、信じてない。
フローレンは兄の顔をじっと見返し、少しだけ頬を膨らませた。
「本当に得意だと思うよ」
「分かった分かった。じゃあ後で時間を取るから一緒にやろう」
「うん! 楽しみ」
その日の夕方。
兄の部屋に置かれた盤の向こうで、フローレンは盤面を一度見渡してから、ぱちりと最後の駒を動かした。
「……これで、終わりだね」
「…………」
兄から返事がない。
「お兄ちゃん?」
「…………」
兄の駒はいくつも盤上から姿を消していた。残された駒の位置を見ても、ここから陣形を立て直すのは難しい。序盤には余裕を残していた兄の陣地は、今ではフローレンの駒に進路を塞がれ、逃げ道まできれいに潰されている。
途中までは互いに駒を取り合い、兄も楽しそうに次の手を考えていた。それが中盤を越えた頃から少しずつ口数が減り、終盤に入る頃には完全に黙り込んでいた。
フローレンは盤と兄の顔を交互に見る。
「……もう一回やる?」
「いや」
この返事はいつになく早かった。
兄の顔は上がらない。さっきまで迷いなく駒を動かしていた指は今は膝の上で組まれ、視線だけが盤上をゆっくり辿っている。どこで形勢が傾いたのか、一手ずつ逆に追いかけているのだろう。
窓から射し込む夕方の光が盤を斜めに横切り、脇へ除けられた駒の影を細長く伸ばしていた。
兄はしばらくその中を睨むように眺めたあと、やがて静かに息を吐く。
「…………新しい棋譜を集めるか」
「えっ、また?」
思わず声を上げると、兄はようやく顔を上げた。
「妹に負けたままでいられるか。僕が集めてたのは二年前までの棋譜だからな」
「でも、新しいのを集めるなら、もちろん私も読ませてもらうよ?」
「……それはそうなんだよな」
兄が今度は別の意味で真剣に考え込み、フローレンはとうとう堪えきれずに声を立てて笑った。
「何がおかしいんだ」
「だって、お兄ちゃん、さっきまで全然信じてなかったでしょ」
「まさか昔あれだけ負けてた妹が、数年の間にここまで強くなってるとは思わないだろ」
「だから得意かもって言ったのに」
「『かも』って言ったじゃないか」
兄も言いながら笑い始める。
「とりあえず、もう一局しようか」
「うん!」
二人で駒を元の位置へ戻し、もう一度盤を挟む。
学院ではルシアンやレオと囲んだ盤を、今度は昔からよく知る兄と囲む。同じ遊びなのに、向かいに座る相手が違えば盤上の景色も少し違って見える。兄ならどこを見るのか、次に何を選ぶのか。以前はただ覚えていた一手一手の違いを考えることまで、今のフローレンには楽しかった。
春休みは、まだ始まったばかりだった。
夕食を終え、家の中から昼間の賑わいが少しずつ引いていった頃。商会の方から響いていた荷車や人の声も途絶え、廊下を行き交う足音もまばらになっていた。
湯浴みを済ませたフローレンは自室へ戻り、眠る前に窓を少し開いた。春の夜気がするりと入り込み、昼の名残を残していた部屋の空気を静かに入れ替えていく。
日中は暖かくなってきたとはいえ、陽が落ちればまだ少し冷たい。
肩に羽織ったものを引き寄せながら窓辺に寄ると、家々の屋根の向こう、北の空には見慣れた七つの星が浮かんでいた。
幼い頃から何度となく辿ってきた光を、今夜もひとつずつ目で繋いでいく。
《アステルの杖》
――その名を思い浮かべると、学院の部屋へ残してきた星図が自然と脳裏に蘇った。
深い青の紙に散る細かな星と、掠れた銀色の線。その中央に描かれた七つの星と一本の杖。
ルシアンとレオが贈ってくれた大きな星図は、今も寮の自室でフローレンの帰りを待っている。
次にあの部屋へ戻る時には、もう四年生だ。
朝になれば特進の教室へ向かう。兄がかつて過ごしたその場所で、今度はルシアンとレオと同じ教室で学ぶことになる。
授業は早く、実習も多い。大変なことだってたくさんあるだろう。それでも兄は、迷うことなく「楽しかった」と答えた。
楽しみの陰にあった不安がすべて消えたわけではない。けれど、それよりも今は、まだ知らないものを見てみたいという気持ちの方がずっと大きかった。
授業の合間にも顔を合わせて、同じ課題について話して、放課後になればまた三人で自習室へ行くのだろう。今まで当たり前ではなかったことが、もうすぐ毎日の景色になる。
そう思うと、始まったばかりの春休みの向こうにある帰寮の日が、少しだけ待ち遠しく感じられた。
フローレンは窓辺で七つの星をもう一度ゆっくり辿った。
春の夜は静かで、その先には、まだ知らない一年が広がっていた。




