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56:次の春へ


 三年生最後の授業を終える鐘が鳴った。


 いつもと同じ音だった。高い鐘楼から響いた音は校舎の石壁を渡り、窓硝子を微かに震わせながら、春を待つ学院の隅々へ広がっていく。

 それなのに今日だけは、その余韻が普段より少し長く教室に残っているように感じられた。


「――では、これで三年次の授業はすべて終了だ」


 教卓の前で、担任が教本を閉じた。


「休暇中も生活を崩しすぎないように。四年次は、今年より実習も増える。所属クラスが変わる者もいるが、初日から何もかもできる必要はない。まずは、それぞれの場所で始めなさい」


 いつもなら誰かがすぐに「はーい」と気の抜けた返事をするところだった。


 今日は少しだけ間があった。


 それから、教室のあちこちから重なるように返事が上がる。


「一年間、お疲れさま」


 教師がそう言って教室を出た途端、張っていたものがほどけたように、一斉に椅子の音と話し声が広がった。


「終わったー!」

「休み、何する?」

「来年から実習増えるんだよね?」

「四年の教室、どこだっけ?」


 いつもの騒がしさだった。


 それでも、机の中を空にしたり、棚に残っていたものを鞄へ詰めたりする姿を見ていると、確かに今日は普段の放課後とは違う。


 フローレンも自分の机へ手を入れた。


 奥に残っていた紙を一枚取り出す。授業中に使った覚え書きで、もう必要のないものだった。内容はすぐに思い出せるのに、紙そのものを捨てるのは何となく惜しい気がして、一瞬だけ迷う。


「それ、持って帰るの?」


 隣からエリナが覗き込む。


「……迷ってる」

「珍しいわね」


 言われて、フローレンはもう一度紙を見る。


 端には、自分の字で小さな問いが書かれていた。


『ここから何が言える?』


 いつ書いたものなのかも覚えている。冬の授業で、途中まで考えた問題を整理するときに書いたものだ。


 少し考えてから、フローレンはその紙を鞄へ入れた。


「やっぱり、持って帰る」

「そう」


 エリナはそれ以上何も言わず、小さく笑った。


 こうして何気ない言葉を交わすことも、今日が最後というわけではない。けれど来年から、授業の合間にこの距離で話すことはなくなる。


 机を片づけ終えたころには、教室に残る生徒も少なくなっていた。


「アストリア」


 後ろから呼ばれ、振り返る。


 最近よく問題を持ってきていた男子生徒が、鞄を肩に掛けたまま立っていた。


「なに?」

「来年も予約、有効だからな」

「まだ言ってる」

「特進行ったら忙しそうだし、今のうちに」

「予約しなくても、会ったときに聞いて」


 そう返すと、彼は笑った。


「そっか。じゃ、またな」

「うん。また」


 軽く手を上げ、そのまま教室を出ていく。


 別れ際の「また」という言葉が、今日は妙に心地よかった。そこには、当たり前のように次がある。


「フローレン」


 エリナも鞄を持って立ち上がった。


「私もそろそろ行くわね」

「うん」


 フローレンも立つ。


 一緒に教室を出ようとして、エリナが扉のところで振り返った。


「春になったら」

「うん?」

「最初の昼休み、空けておいて」


 フローレンは目を瞬いた。


「もう予約するの?」

「さっきの人には先を越されたくないもの」


 冗談めかした言い方に、思わず笑う。


「分かった。必ず空けておく」

「約束ね」

「うん。約束」


 エリナは満足そうに頷いた。


 階段まで一緒に歩き、途中で寮へ向かう道と中央棟へ続く道に分かれる。


「また春に、ね」

「うん。また春に」


 手を振る。


 エリナの姿が角の向こうへ消えても、フローレンはほんの少しだけその場に立っていた。


 寂しくないわけではない。三年間、エリナとは毎日のように同じクラスで過ごしてきた。


 けれど、別のクラスへ行くことが、何かを「失う」ことだとは思わなかった。


 次に会う約束がある。


 それだけで、十分だった。



 エリナと別れたあと、フローレンはもう一度だけ第二クラスへ戻った。


 教室には、もう誰もいなかった。

 開けたままの窓から少し冷たい風が入り込み、何も置かれていない机の表面を午後の陽が斜めに照らしている。


 フローレンは自分の席へ戻った。


 この一年、何度も教本を広げた机へそっと指先を置きながら、ふと入学したころのことを思い出す。


 三年間、所属はずっと第二クラスだった。


 黒板に書かれたものを覚えることは得意だった。教本に載っていることも、教師が何と言ったかも覚えていられた。


 だからこそ、覚えているのに分からないことがあるのが、ずっと不思議だった。どうして解けないのかも分からず、足りないのならもっと読めばいいのだと思っていた。


 フローレンは机の表面へ、そっと指を滑らせる。


 今は、分からないものを前にしたときの見方が少し違う。


 何を聞かれているのか。

 どこまでは分かっているのか。

 次に何を見ればいいのか。

 それでも分からなければ、何が足りないのかを考える。


 全部ができるようになったわけではない。特別試験でも、最後の情報までは取れなかった。


 来年はきっと、今までより分からないことが増える。


 それでも、そのことを想像しても以前のように怖いだけではなかった。


「……ありがとうございました」


 誰もいない教室へ、小さく言う。


 誰に向けたのか、自分でもよく分からない。先生かもしれない。ここで一緒に過ごした人たちかもしれない。この場所そのものへ言いたかったのかもしれない。


 フローレンは最後に窓を閉め、鞄を持った。


 そして、静かに教室を出る。

 扉が閉まる音は、思っていたより軽かった。


 

 廊下へ出ると、少し離れた窓のそばに見慣れた二人の姿があった。


「え?」


 思わず足を止める。


 レオは壁へ背を預け、ルシアンは窓の外を見ていたらしい。フローレンが出てきたことに気づくと、二人ともこちらへ身体を向けた。


「待ってたの?」

「うん」


 レオがあっさり答える。


「最後の日だし、一緒に帰ろうと思って」

「言ってくれればよかったのに」

「言ったら急ぐだろう?」


 今度はルシアンが言った。


「最後なら、ゆっくりしてくればいいと思った」


 フローレンは、閉じたばかりの扉を振り返った。

 確かに、待っていると知っていたら少し急いだかもしれない。


「……ありがとう」

「もう終わった?」

「うん」


 頷く。


「ちゃんとお別れしてきた」

「教室に?」

「教室に」


 レオが少し笑う。


「フローレンらしいね」


 三人で歩き出す。


 しばらく進んでから、レオがふと振り返った。


「そういえばさ」

「なに?」

「俺たちがここでフローレン待つの、今日で最後じゃない?」


 フローレンの足が、わずかに緩んだ。

 

 言われてみれば、その通りだった。


 これまで何度も、特進の授業が先に終われば二人が第二クラスまで来た。フローレンが遅くなれば廊下で待っていたし、逆に自分が特進の教室近くまで迎えに行ったこともある。


 でも、春からは。


「……同じ教室だもんね」

「そう」


 レオが楽しそうに笑う。


「もう迎えに行かなくていいんだね」


 その言葉だけで、四年生の日々が少しだけ見えた気がした。


 扉を開ければ二人がいる。あるいは自分が先に着いて、あとから二人が入ってくる。


 どの席に座るのかも、どんな授業を受けるのかもまだ知らない。それでも、三人が同じ教室で過ごすことだけはもう決まっている。


「変な感じ」


 フローレンが言う。


「嫌?」

「ううん」


 すぐに首を振った。


「楽しみ」


 その返事に、ルシアンが穏やかに笑った。


「ああ。僕もだ」


 三人は階段を下りた。


 そのまま寮へ戻るつもりだった。けれど、図書室へ続く廊下へ差しかかったところで、フローレンの足が自然と遅くなる。


 図書室へ続く扉。その隣には、何度も通った小さな自習室がある。


「あ」


 レオも気づいたらしい。


「寄ってく?」


 フローレンは二人を見る。


「……少しだけ」


 誰からともなく、三人の進む方向が変わった。


 扉を開けると、中には誰もいなかった。今日は使っている者もいないらしい。


 窓際の机と三脚の椅子、壁際の小さな棚。何一つ特別なものはない。学院の中にいくつもある自習室の一つだ。


 けれど、三人にとっては、ここで過ごした時間がいくつも積み重なっていた。


「ここも久しぶりな感じするね」


 レオが椅子を引く。


「最近は外に行ったり、教室にいたりも多かったから」

「最初はずっとここだったのに」


 フローレンも椅子を引いて座る。意識したわけではないのに、いつもの場所だった。


 向かいにはルシアン。少し横にレオ。気づけば、最初からほとんど変わらない並びになっている。


「……ここで、最初に教えてもらったんだよね」


 フローレンが言う。


「ああ」


 ルシアンも机へ目を落とした。


「覚えてる?」

「もちろん覚えている」


 ルシアンは苦笑しながら答えた。


「君がものすごく緊張していた」

「……してた。でも、ルシアンも多分してたよね」


 一瞬、ルシアンが言葉に詰まる。


「……まあ、否定はしない」


 その返事がおかしくて、フローレンの口元が少し緩んだ。


「二人とも、挨拶からすごく堅かったよね」


 レオが楽しそうに口を挟む。


「レオは黙ってて」

「『今日はお時間をいただき、ありがとうございます』」

「やめて」

「『こちらこそ、来てくれてありがとう』」

「……おい、レオ」


 当時の声色まで真似され、フローレンは思わず顔を覆った。


 向かいのルシアンもわずかに視線を落としている。困ったように眉を寄せてはいるものの、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。


「もう……そんなに変だった?」

「変じゃないよ。さすが商家のお嬢さまって感じだった」

「それ慰めになってない」


 笑い声が、小さな部屋に広がった。

 


 最初にここへ来た日は、こんなふうに三人で笑うことになるとは思っていなかった。


 ルシアンは、自分よりずっと遠い人に見えた。レオだって、話したことがあるだけの少し不思議な同級生だった。


 それがいつの間にか、質問がなくても集まるようになった。


 本の話をして、お菓子を食べた。盤上遊戯をして、街へも出かけた。体調を崩した日は、何も進まなくても二人がいた。


 この部屋はもう、勉強をするだけの場所ではなかった。


「来年もここ使う?」


 レオが尋ねる。


「使いたい」


 フローレンはすぐに答えた。


「教室一緒になるけど、それとは別に」

「僕も異論はない」


 ルシアンが言う。


「じゃ、継続決定」


 レオが満足そうに頷いた。


「四年生になっても、ここ」


 それだけの約束だった。大げさなものではない。

 

 けれどフローレンは、それが嬉しかった。


 新しい場所へ進んでも、今まで好きだった場所を置いていく必要はない。


 自習室を出るころには、空が夕方の色へ変わり始めていた。


 三人で正面玄関を抜ける。


 日中は少し暖かくなったとはいえ、陽が傾けば風にはまだ冷たさが戻る。フローレンが外套の襟を寄せると、隣でレオが「やっぱりまだ春じゃないね」と白い息を吐いた。


「でも、もうすぐでしょ?」

「たぶんね」

「今年はいつ頃から暖かくなるかな」

「去年は――」


 答えかけて、フローレンは空を見上げた。


 薄い夕闇の中に、星が増え始めている。


 まだ完全な夜ではない。西には沈みきらない光が残り、その反対側から空の青が少しずつ深くなっていた。北の空には、見慣れた七つの光が浮かんでいる。


「あ」


 二人も足を緩める。


「《アステルの杖》」


 レオが先に言った。


「うん」


 フローレンは空を見上げる。


 部屋には今、あの古い星図がある。


 星図に合う意匠の額を見つけ、机の横へ飾った。深い紺色の紙の上では、掠れた銀の線が七つの星を結んでいる。


 空の星は、紙の上よりずっと遠い。一つひとつは小さな光にしか見えない。


 額の中では銀の線で結ばれている七つの星も、空では離れた光として浮かんでいる。それでも、見慣れた杖の形は変わらずそこにあった。


 フローレンはしばらく見上げたあと、前へ向き直った。


「行こう」

「ああ」

「うん」


 三人で歩き出す。


 正門から寮へ続く、何度も通った道だった。


 レオが少し先で、この前買った香辛料を家でも試したいと話している。ルシアンは量を間違えるなと返し、フローレンが「この前の匂いなら、入れすぎたら大変そう」と笑った。


 そんな話をしながら歩く三人の歩幅は、もう意識しなくても揃っていた。


 三年生の春には、三人でこうして歩くことになるなんて思ってもいなかった。


 春になれば、三人は同じ教室へ向かう。


 そのことを思うと、これから始まるものの方が、終わったものより少しだけ大きく胸を満たした。


 フローレンは二人の間を歩きながら、もう一度だけ北の空を見上げる。


 七つの星は、変わらずそこにあった。

 離れた光が、一つの杖の形を結んでいる。


 まだ風には、冬の冷たさが残っていた。それでも、その先にはもう春の輪郭が見え始めている。

 

 揃った歩幅のまま、三人は次の春へ歩いていった。


 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

三年生編はここで完結となります。


連載中にいただいたご感想、リアクション、

評価やブクマなど大変励みになりました( ;o; )/♡


明日からは、幕間の春期休暇をはさんで

四年生編へ入ります。


三人揃って特進クラスで過ごす四年生編、

引き続きお楽しみいただければ嬉しいです……!

 

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