55:二人からのお祝い
三年生として受ける授業も残りわずかになるにつれ、学院の中には少しずつ年度の終わりらしい空気が混じり始めた。
提出を終えた課題が返され、教室の棚から今年使った教材が片づけられていく。廊下ですれ違う生徒たちの話題にも、次の学年や春休みの予定が増えた。
まだ冬の外套は手放せないものの、昼になると窓辺の陽だまりは以前より長く残り、閉じた窓越しにも春が近づいていることが分かる。
そんなある日の放課後。
「じゃあ、今日は約束通りね」
学院の正門を出たところで、フローレンは隣を歩くレオを見上げた。
「約束?」
本人が首を傾げる。
「忘れたの?」
「何だっけ」
「香辛料のお店」
言うと、レオが「ああ」と声を上げた。
冬の初め、三人で街へ出た日のことだった。
フローレンの行きたかった菓子店へ寄り、古書店を見つけ、帰り道で「次はレオの行きたいところへ行こう」と話した。そこでようやくレオが挙げたのが、通りの途中にあった少し変わった香辛料店だった。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
フローレンは当然のように答えた。
「私も、ルシアンも」
「もちろん覚えている」
反対側からルシアンも言う。
「それに、自分から言うと言っていただろう」
レオが一瞬黙った。
どうやら、そこまで覚えられているとは思っていなかったらしい。
「……二人とも記憶良すぎない?」
「え、普通だよ。ね、ルシアン」
「フローレンの普通はともかく、このくらいは僕も覚えている」
ルシアンが苦笑する。
「それで?」
フローレンはレオの顔を覗き込んだ。
「今日はどこに行きたい?」
以前と同じ問い。
けれど、返事は以前より早かった。
「香辛料の店」
レオは前方の通りを見ながら答えた。
「この前行けなかったところ。今日はちゃんと見たい」
「うん」
フローレンは笑う。
「じゃあ、そこから行こう」
三人の足は、自然と街へ向かった。
冬の終わりの街は、前に訪れたときより少しだけ明るかった。
軒先に積もる雪はほとんどなくなり、石畳の端に残った薄い氷も午後の陽を受けて小さく溶けている。
市場には春先に出回る品が少しずつ混じり始め、並べられた野菜の緑や布地の淡い色が、長く続いた冬景色の中で目に鮮やかだった。
目的の店は、大通りから一本細い道へ入ったところにあった。
小さな木製の看板に、いくつもの壺と葉を組み合わせた絵が描かれている。扉を開けた瞬間、乾いた植物と甘い樹皮、少し鼻の奥を刺激する香りが一度に押し寄せた。
「わ」
フローレンが思わず声を漏らす。
「すごい匂い」
「これこれ」
レオの目がすぐに楽しそうに細くなった。
壁一面の棚には大小さまざまな瓶が並んでいる。赤や茶、黄色、深い緑。粉末になったものもあれば、乾燥させた葉や実がそのまま入っているものもあり、瓶の前には産地や使い方を記した小さな札が添えられていた。
レオは真っ先に奥の棚へ向かった。
「これ、前に窓から見えて気になってたんだよね」
指した瓶の中には、細長い黒紫色の実が入っている。
「料理用?」
「たぶん。甘い料理にも使えるって書いてある」
札を覗き込み、少し楽しそうに読む。
普段なら、誰かが興味を示したものを先に見つけて「これ好きそう」と渡すのはレオの方だった。
今日は違う。
自分が見たい棚へ行き、自分が気になっていた瓶を手に取る。途中で二人の顔を確かめはするものの、「どうする?」と先に判断を委ねることはなかった。
「こっちも見たい」
別の棚へ移る。
フローレンは少し後ろからその姿を見て、密かに笑った。
「楽しそうだな」
隣でルシアンが小さく言う。
「そうだね」
フローレンも、レオには届かない程度の声で返した。
「前より分かりやすいかも」
「何が?」
ルシアンが聞き返す。
「レオがやりたいなって思ってること」
ルシアンも前方を見る。
棚の札を読んでいたレオが、何か見つけたらしく店主へ質問している。その横顔は、以前よりもずっと素直に楽しそうだった。
以前より自分のしたいことを口にするようになったからといって、レオが急に自分のことばかり話すようになったわけではない。
今も店主と話しながら、時折こちらを振り返って二人が退屈していないか確かめている。
それでも、今日は先に自分の「見たい」がある。
それで十分なのだと思った。
「二人とも、これ嗅いでみて」
早速呼ばれ、フローレンたちは棚へ向かった。
店主から渡された小瓶の蓋を開けると、最初に甘い香りがして、そのあとを追うように少し鋭い香りが鼻へ抜ける。
「……独特な匂い」
「感想それ?」
「嫌いじゃないよ。でも甘いのに、最後だけ急に辛そう」
「食べるともっと面白いらしいよ」
「レオ、買うの?」
「うん。少しだけ」
迷いなく答え、レオは小袋を一つ選んだ。
店を出るころには、陽が少し傾き始めていた。
レオは買ったばかりの小袋を手に、帰ったら食堂の料理人に使い方を聞いてみようかと話している。自分で選んだものについて話すレオは、珍しく会話の中心にいる時間が長かった。
「じゃあ、次どうする?」
一通り話し終えたところで、レオが尋ねる。
「私は今日は特にないかな」
フローレンは通りを見渡した。
行き先を決めなくても、前のように気になるものを見つければ足を止めればいい。それに、二人に行きたいところがあるなら、そちらへ行くのも楽しそうだった。
「ルシアンは?」
「僕は――」
そこで、ルシアンが一度レオを見る。
ほんの短い視線だった。けれどレオはすぐ意味を受け取ったようで、猫のような目をわずかに細めた。
フローレンは二人を見比べる。
「なに?」
「いや」
レオが先に答えた。
「じゃ、次はルシアンの行きたいところ行こうか」
「僕の、というより」
ルシアンが少しだけ言い淀む。
「寄りたい場所がある」
「どこ?」
「来れば分かる」
珍しく答えを濁された。
気になったものの、ルシアンはそれ以上説明する様子がない。
「……分かった」
フローレンは首を傾げながら、二人と並んで歩き始めた。
進むにつれ、周囲の店並みに見覚えが増えていく。大通りを外れ、少し古い建物が並ぶ道へ入ったところで、フローレンは気づいた。
「……あれ?」
少し先に、古びた本を模した小さな看板が軒先から下がっている。
「あの古書店?」
「ああ」
ルシアンが答えた。
「何か見たい本があるの?」
「まあ、そんなところだ」
言い方が妙だった。
レオを見ると、彼も何となく楽しそうな顔をしている。
「二人とも何か隠してない?」
「どうだろうねえ」
「その返事、絶対何かある」
疑いながら扉を開ける。
乾いた木と古い紙の匂いが、前と同じように迎えた。棚の並びもほとんど変わっていない。
入口近くには旅行記と物語本。その奥には地図や版画、古い記録類が雑然と並び、さらに先にはレオが以前しばらく足を止めていた盤上遊戯の棚も見えた。
その光景を目にすると、冬の初めに三人で訪れた日のことがふっと浮かんだ。
フローレンの視線は、自然と奥の高い棚へ向かった。地図や版画が差し込まれていた、あの日《アステルの杖》の星図があった場所だ。
一瞬だけ、足が止まった。
けれど、そこにはなかった。紺色の紙も、銀色の細い線も。別の古い地図が何枚か差し込まれているだけだった。
「あ」
小さく声が漏れた。
誰かが買ったのだろう。あれからかなり日が経っているのだから、当然だった。
古書店の品は一つしかないものも多い。自分が気に入ったものが、ずっと同じ場所に残っているとは限らない。
分かっている。それでも、胸の奥にごく小さな残念さが落ちた。
「なくなってる」
口にすると、ルシアンが足を止めた。
「何が?」
「前にあった星図」
フローレンは棚を示す。
「《アステルの杖》の。やっぱり誰か買ったんだね」
空いた場所をもう一度見る。
あの日は持ち合わせが足りず、次に来たとき、まだあれば買おうかとも思っていた。けれどその後は試験のこともあり、気づけばそのままになっていた。
「ちょっと残念だけど、仕方ないね」
フローレンは笑った。
「うん」
妙にあっさりした返事をしたレオを見ると、なぜか笑いを堪えるような顔でルシアンを見ていた。
「……何?」
フローレンが二人を見比べる。
「俺からは言わない」
「何かあるんだ」
「まあね」
レオが楽しそうに笑う。
「レオ」
ルシアンが軽くたしなめるように名前を呼んだ。
「分かってるって」
そう返したレオを横目に、ルシアンは小さく息をついてフローレンを見る。
「フローレン」
「うん?」
「少し待っていてくれ」
そう言うと、店の奥にいる店主の方へ向かった。
ルシアンの背中を見送ってから、フローレンはもう一度レオを見る。
「何なの?」
「もうちょっとだけ待って」
レオは楽しそうに笑うだけだった。
言われるがままに待っていると、店主と話していたルシアンが戻ってきた。
その手には、平たい包みがあった。深い灰色の紙で包まれ、細い紐が掛けられている。両腕で抱えるほどの大きさなのに、本にしてはずっと薄い。
見た瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
「……それ」
形だけで、何となく分かってしまった。
ルシアンはフローレンの前まで来ると、包みを両手で持ち直した。
「三年生、お疲れさま」
唐突な言葉に、フローレンは瞬きをする。
「それから」
隣へ来たレオが続けた。
「特進合格、おめでとう」
二人を見る。それから、もう一度包みを見る。
「……え」
声が、ひどく頼りなくなった。
「まさか」
レオの笑みが深くなる。
「開けてみたら?」
フローレンは恐る恐る包みを受け取った。
思っていたより少し重い。
紐を解き、紙を傷めないよう端からゆっくり開いていく。
最後の一枚をめくったところで、息が止まった。
深い紺色の紙。細かな星々。その上を走る、年月の中で少し掠れた銀色の線。
中央よりやや上には、七つの星を繋いで一つの杖が浮かんでいる。
あの日、高い棚からルシアンに下ろしてもらった《アステルの杖》。
「……これ」
指先が、紙の端に触れた。
間違えるはずがなかった。
「同じ……」
「同じものだよ」
レオが言った。
フローレンは顔を上げる。
「でも、どうして」
「どうしてって」
レオはルシアンを見る。
今度は、ルシアンが少しだけ困ったような顔をした。
「君が、好きだと言っていただろう」
「……星図を?」
「ああ」
ルシアンの視線が、フローレンの手元へ落ちる。
「あのとき、ずっと見入っていたから」
そこで一度、言葉が途切れた。
「そのときの君の顔が、印象に残っていて」
「私の顔?」
「ああ」
ルシアンは少しだけ視線を逸らした。
「だから、何か贈るならこれがいいと思った」
フローレンはもう一度、手元の星図を見た。
銀の線は、あの日と変わらず少し掠れている。新しいものではなく、綺麗に整えられた学院の星図とも違う。長い時間を、誰かの手から誰かの手へ渡ってきたような紙だった。
あの日、それを見た瞬間に、理由もなく「好き」と思った。
そのことを、ルシアンは覚えていた。
「……いつ買ったの?」
「少し前」
レオが答える。
「合格が決まってから?」
「いや、その前に」
予想外の返事にフローレンが顔を上げると、今度はルシアンが続けた。
「総合順位が出たあと、一度ここへ来た。そのときに買って、今日まで店主に預かってもらっていたんだ」
「……二人で?」
「ああ」
「なんで?」
問い返すと、二人が一瞬黙った。
レオが先に口を開く。
「十三位だったって分かったときにさ。一年間頑張ったお祝いに、何か贈ってもいいんじゃないかって話になったんだ」
「でも」
フローレンは星図を見る。
「もし特進の試験、受からなかったら?」
「それでも渡すつもりだったよ」
レオは何でもないことのように答えた。
「合格したら、合格も一緒にお祝いすればいいし。そうじゃなくても、一年間頑張ったことは変わらないでしょ?」
フローレンは二人を見る。
「……どちらにしても、贈ってくれるつもりだったの?」
「ああ」
ルシアンが頷く。
胸の奥が、ゆっくりと熱くなった。
特進へ行けたから、もらえたものではない。
できるようになったことも、悩んだこともある。途中で休んで、それでもまた始めた。
そんな一年を過ごした自分へ、二人はこれを選んでくれた。
「……ありがとう」
フローレンは星図を抱え直した。
言葉にすると、それだけでは足りない気がした。
「すごく嬉しい」
今度は、きちんと二人を見て言う。
「本当に。これ……ずっと気になってたから」
「よかった」
レオが満足そうに笑った。
ルシアンも、ほっとしたようにわずかに表情を緩める。
フローレンは二人を見ながら、ふと以前のことを思い出した。
「そういえば、前にもあったね」
「何が?」
ルシアンが聞き返す。
「《ラ・フルール》のこと。私が行きたかったお店、ルシアン覚えてたでしょ?」
「ああ」
レオが横から楽しそうに口を挟む。
「あー、覚えてたよねえ」
「……普通だろう、そのくらい」
「前にも言ってたからね、それ」
「お前はそういうところまでよく覚えているな……」
「俺だって普通に記憶力は良いから」
これでも特進なんだけど、とレオが大袈裟に胸を張る。その様子がおかしくて、フローレンの口元から堪えきれない笑い声がこぼれた。レオもすぐにつられ、やがてルシアンの表情にも柔らかな笑みが広がる。
フローレンはそっと腕の中の星図へ目を戻した。
七つの星を繋ぐ一本の銀の線。その周囲には、名前も知らない小さな星々が散っている。
《アステルの杖》は、幼いころから何度も空で見てきた。学院へ入ってからも、図書室を出た夜や街から帰る道で見つければ、何となく目で追っていた。
どうして好きなのかと聞かれても、今も上手く説明できない。
ただ、これを自分の部屋でいつでも見られると思うと、それだけで嬉しかった。
「飾れるかな」
「大きさは大丈夫?」
レオが尋ねる。
「うん。机の横の壁ならちょうどいいと思う」
「よかった」
「額も必要だな」
ルシアンが星図の端を見ながら言う。
「このまま壁へ留めると紙を傷める」
「あ」
そこまでは考えていなかった。
「じゃあ、額も探す?」
「今日は買わなくてもいいんじゃない? 寸法ちゃんと測ってからの方が」
「そうだね」
フローレンは星図をもう一度包み直す。
さっきまで棚からなくなっているのを見て残念に思っていたものが、今は自分の腕の中にある。それが何だか不思議だった。
「二人とも」
包みを抱えたまま、改めて声を掛ける。
「ありがとう」
二度目だった。
けれど今度は、一度目より自然に言えた。
「大事にする」
「うん」
レオが笑う。
「ああ」
ルシアンも頷いた。
「星図もきっと喜ぶだろう」
「そんな洒落た言い方、なんかルシアンっぽくない」
「……今のは忘れてくれ」
「無理」
フローレンは即答した。
「覚えちゃったから」
ルシアンが何とも言えない顔になる。
その横ではレオが声を上げて笑っていた。
店を出ると、夕暮れが街へ降り始めていた。
建物の影が石畳を長く覆い、空にはまだ淡い青が残っている。通りの灯りも一つずつ点き始め、昼とは違う柔らかな色が店先へ滲んでいた。
フローレンは星図の包みを両腕で大切に抱え、二人と並んで歩いた。隣では、レオが買ったばかりの香辛料について、帰ったらまず何に使おうかとまだ楽しそうに話している。
三人で街を歩く。
誰かの行きたい場所へ向かって、途中で別の誰かが何かを見つければ一緒に足を止める。そうして歩いているうちに、見たいものや行きたい場所がまた一つ増えていく。
四年生になってもきっとこうして三人で歩くのだろう。
通りの先に、学院へ続く道が見えてくる。
空には、早くも星が一つ光りはじめていた。
フローレンは腕の中の包みへ、そっと視線を落とす。
まだ空には見えない七つの星が、その紙の中にはもうある。銀の線で結ばれ、昔から変わらない形のまま。
三年生の終わりに、それは自分のところへやってきた。




