54:来年も一緒に
正式なクラス編成が発表されたのは、それから三日後だった。
朝の第二クラスには、普段より少し早い時間から多くの生徒が集まっていた。四年次の所属クラスは各教室で担任から告げられることになっており、皆どこか落ち着かない様子で席についたり、友人同士で小さく話したりしている。
窓の外では、薄い雲を透かした朝の光が校舎の壁を白く照らしていた。冬の名残はまだ空気の中にあるものの、閉め切った教室には以前ほどの冷たさはなく、窓辺に置かれた鉢植えの葉もいつの間にか新しい芽を覗かせている。
「緊張する?」
隣でエリナが尋ねた。
「私はもう聞いてるから、そこはあんまり」
「そうだったわね」
返事をしながら、エリナは少し笑う。
フローレンが特別試験に合格したことを学院内で知っているのは、エリナとルシアン、レオの三人だけだった。家族へはその日のうちに知らせたものの、学院内では正式発表まで広めないよう言われていたため、同じ教室の生徒たちにも何も言わずに過ごしていた。
ただ、まったくいつも通りというわけにはいかなかった。
学年十三位という結果に、教員室への呼び出し。それだけでも、周囲が何かを予想するには十分だったらしい。
「アストリア、第一だろ?」
「たぶんね」
「十三位で第二のままはないって」
「でも第一でも上すぎない?」
近くで交わされる声が耳に入るたび、フローレンは何となく教本へ視線を落としていた。
知っているのに黙っているのは、思っていたより少し難しい。
「顔に出てない?」
小声でエリナへ尋ねる。
「今のところは」
「今のところ?」
「聞かれたら危ないかもしれないわね」
「……気をつける」
そう言ったところで、教室の扉が開いた。
話し声が少しずつ静まっていく。
担任はいつものように教卓へ立つと、手にしていた紙の束を机へ置いた。普段の授業と変わらない様子だったが、教室中の視線が集まっていることには気づいているらしく、わずかに口元を緩める。
「そんなに構えなくていい。四年次の所属を伝えるだけだ」
「それが気になるんですよ」
前方から声が上がり、小さな笑いが起きた。
「分かっている」
担任も軽く返し、手元の一覧へ目を落とす。
「今年度の成績、授業評価、実習結果を総合して、四年次の所属クラスを決定した。これから一人ずつ伝える」
教室の空気が、また少しだけ引き締まった。
来年度も第二クラスに残る者もいれば、第一クラスへ編入する者もいる。今いる全員が、来年も同じクラスに揃うわけではない。
名前が順番に呼ばれていく。
ほとんどは第二クラスのままだった。
予想通りだったのか、安堵したように息を吐く者もいる。第一クラスへの編入を告げられ、驚きながら友人に肩を叩かれている生徒もいた。
エリナの名が呼ばれる。
「エリナ・メルヴェル。第二クラス」
「はい」
落ち着いた返事だった。
フローレンが隣へ目を向けると、エリナもこちらを見て小さく笑った。
来年、同じ教室で並んで座ることはない。分かっていたことなのに、正式な言葉として聞くと少しだけ実感が増した。
三年間ずっと一緒だった。それでも胸へ浮かんだ寂しさは、以前想像したほど重くない。同じクラスにいることだけで友人になったわけではないのだから、クラスが変わったからといって、三年間まで別のものへ変わるわけでもないのだろう。
「フローレン・アストリア」
自分の名前が呼ばれた。
フローレンは前を向く。
「はい」
担任の視線が、名簿からこちらへ移った。
ほんの一瞬、教室が静かになる。
「《特進》クラス」
その言葉が落ちた瞬間、教室の静けさが一気に崩れた。
「……え?」
「特進?」
「ちょっと待って」
いくつもの声が重なる。
フローレンは集まった視線に少しだけ身を縮めた。分かっていたはずなのに、二十人以上の前で改めて告げられると、自分まで驚いたような気持ちになる。
「先生、特進って」
後ろの席から一人が手を上げた。
「アストリア、第二ですよね?」
「そうだ」
「二つ上がるんですか?」
「ああ」
担任は特に勿体ぶることなく答えた。
「学年末試験の結果を含め、一年間の学習状況について教員間で検討した。そのうえで特別試験を実施し、合格したため、四年次から《特進》クラスへ編入する」
「特別試験?」
「そんなのあったの?」
「アストリアだけ?」
教室が一気にざわめく。
「静かに」
担任が一度声を掛けると、完全には収まらないまでも、皆ひとまず前を向いた。
「学院ではこれまで、第二クラスから直接《特進》へ編入した例はない」
その一言で、今度こそざわめきが止まった。
教員室で聞いたときも大きな言葉だとは思った。けれど、同級生たちの驚いた顔を見ていると、その意味がもう一度別の角度から胸へ届いた。
「今回が初めてだ」
担任は淡々と続ける。
「ただし、無条件に編入を認めたわけではない。特進で学べるだけの力があるかを別途確認した上での決定だ。アストリア自身も、試験を受けるかどうかを選んでいる」
最後の一言に、フローレンは少しだけ顔を上げた。
教師から見れば、説明の一部に過ぎないのかもしれない。けれど自分にとっては、そこが何より大切だった。
行きなさいと言われたからではない。十三位だったから、自動的に決まったわけでもない。
受けたいと、自分で決めた。
その結果として、今ここにいる。
「以上だ。残りの者も続けるぞ」
担任が名簿へ視線を戻す。
授業前の教室に、再び名前と四年次の所属が順番に響いていった。
クラスの発表が終わり、担任が教室を出る。
途端に、それまで抑えられていた話し声が一斉に戻ってきた。
「アストリア!」
呼ばれて顔を上げる。
「特別試験って、いつ受けたの?」
「えっと、三日前」
「午前の授業抜けてた日か」
「どんな試験だった?」
「難しかった?」
「どこで受けたの?」
「え、あ、ちょっと待って」
気づけば、机の周りにクラスメイトが何人も集まっていた。
右から聞かれたことへ答えようとすると、今度は反対側から別の声が飛んでくる。
「試験は二時間で――」
「二時間も?」
「うん。それで、先生が三人いて」
「え、三人も? 面接みたいな感じ?」
「どんな問題だった?」
「あ、それは話していいのか聞いてなくて……」
答えながら、フローレンは少し困ったように笑った。
「でも、受けなさいって言われたわけじゃなくて。受けるかどうかは自分で決めたの」
「怖くなかった?」
一人の女子生徒に尋ねられ、少し考える。
「ちょっと怖かったけど……どんな問題なのか気になった方が大きかったかも」
「アストリアらしいね」
「だな。アストリアならそう思うよな」
周囲から笑いが起きた。
その向こうから、聞き慣れた男子生徒の声が飛んでくる。
「じゃあもう、来年は質問できないのか」
何度か問題を持ってきていた生徒だった。
「え?」
「教室、違うだろ」
言われて、フローレンは一度瞬きをする。
そういえば、最近は休み時間になると、誰かが自然に問題用紙を持って自分のところへ来ていた。
来年は、同じことはできない。少なくとも毎日のようには。
「……別に、聞いちゃだめになるわけじゃないよ?」
「でも特進だぞ?」
「クラスは関係ないよ」
フローレンは少し考え、それから笑った。
「私で分かることなら、一緒に考えるよ。昼休みとか、放課後とか」
「予約制?」
「それ前も言ってた」
以前にも聞いたことのある言葉に、思わず笑ってしまう。
「私の勉強の合間でよければ、いつでもいいよ」
教室も授業も変わる。きっと、今までと同じようにはいかないことも増える。
それでも、すべてが一度に途切れるわけではない。そのことを、少しだけ実感した。
昼休み。
フローレンとエリナは、久しぶりに二人だけで中庭へ出た。
冬の間は避けることの多かった石のベンチにも、今日は薄い陽が当たっている。風はまだ冷たいものの、陽のある場所なら外套をきちんと閉じていれば十分座っていられた。
「ここで食べるの、久しぶりだね」
「冬はさすがに寒かったもの」
エリナは膝の上へ包みを置きながら、枝ばかりの木々を見上げた。
よく見れば、硬かった芽の先が少しだけ膨らんでいる。春にはまだ早い。それでも、もう冬の真ん中ではなかった。
「改めて」
エリナがフローレンを見る。
「おめでとう」
「ありがとう」
「本当にすごいわ」
朝から何度も言われた言葉だった。それでも、エリナから聞くと少し違う。
「……うん」
フローレンは小さく笑った。
「私も、すごいと思う」
「あら」
エリナの目が丸くなる。
「自分でちゃんと言えるようになったのね」
「レオにも同じこと言われた」
「ふふ。だって昔のあなたなら、『でも覚えてるだけだから』って言っていたでしょ?」
胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
覚えている。教室で教師の言葉をそのまま答え、友人に驚かれても、自分にはそれしかできないと思っていた。
「……言ってたね」
「言ってたわ」
エリナは懐かしそうに笑う。
「私、あのころからフローレンはすごいと思ってたけど」
「覚えてるから?」
「それもあるけど」
少し考えるように、エリナは視線を空へ向けた。
「好きなことをずっと好きでいられるところ」
「……え?」
「本を読むのも、勉強するのも。できないことがあっても、知りたいって気持ちはなくならなかったでしょう?」
思ってもみなかった言葉だった。
フローレンは何も返せず、エリナを見る。
「そこは、昔から変わってないわよ。できることは、たくさん増えたのでしょうけど」
風が木々の細い枝を揺らし、乾いた音が小さく重なった。
変わったものも、変わらないものもある。その両方が自分の中にあることは、きっと悪いことではない。
「エリナ」
「なに?」
「来年も、一緒にお昼食べようね」
口にすると、エリナが目を瞬いた。そして、少しだけ可笑しそうに笑った。
「何を今さら」
「だって、クラスが別になるし」
「今だって毎日ずっと一緒にいるわけじゃないでしょ?」
「そうだけど」
エリナは少しだけ首を傾げた。
「フローレンが特進へ行ったら、私とは友達じゃなくなるの?」
「ならない」
即答すると、エリナは満足そうに頷いた。
「でしょ?」
それだけだった。
もっと寂しい話になるのかと思っていた。
三年間同じクラスで過ごしてきた。来年は、今のように隣で話すことも少なくなるだろう。それは確かに少し寂しい。
でも、それだけだった。
「じゃあ」
エリナが包みを開きながら言う。
「来年も普通に誘うわね」
「うん」
「特進だから忙しいって断られても、また誘うから」
「そんなに忙しくないよ、たぶん」
「まだ始まってもいないのに分からないわよ?」
「……それもそうだね」
顔を見合わせ、笑った。
風はまだ冷たかった。それでも陽の当たる石の上には、冬のころにはなかった淡い温もりが残っている。
フローレンは昼食を一口食べてから、ふと空を見上げた。枝の向こうに、薄い青が広がっている。
三年生が終われば、同じクラスだった皆も、それぞれの場所へ進んでいく。けれど、ここで過ごした時間まで置いていく必要はない。
持っていけばいいのだと思った。
本の頁をめくっても、その前の頁に書かれていたことが消えないように。
「ねえ、フローレン」
「うん?」
「特進へ行ったら、最初に何したい?」
思いがけない問いに、フローレンは少し考える。
「……授業受けたい」
「普通ね」
「だって、何するのか気になるから」
「やっぱりフローレンだわ」
エリナが笑い、フローレンもつられて笑った。
まだ過ごしたことのない教室。まだ受けたことのない授業。
その中に、自分がいる。
そう思うだけで、これから始まる四年生の日々が、ますます楽しみになった。




