53:繋いできた先
翌日は、ひどく長い一日だった。
授業の内容が頭に入らなかったわけではない。教師の説明も、黒板へ書かれた文字も、教本の頁も、いつもと変わらず記憶に残っている。隣のエリナと話せば普通に笑えたし、昼食もきちんと食べた。
それでも、教室の時計だけは普段より頻繁に目へ入った。
長針が少し動くたび、昨日の小演習室が思い出される。十二枚の資料と五枚の札。そして、最後まで知ることのできなかった第三中継所の実際の負荷率。
自分では、できることはやったと思っている。けれど、それと合格しているかどうかは別だった。
「……また見てる」
隣から声がする。
フローレンは時計から視線を戻した。
「何を?」
「時計」
「そんなに見てないよ」
「今日だけで何回言ったと思う?」
エリナが呆れたように笑う。
「昨日も同じ話をした気がするわ」
「昨日より今日は仕方ないでしょ?」
「それはそうね」
今度はあっさり同意された。
エリナには、特別試験を受けたことだけ話してある。
学院側から正式な発表があるまでは必要以上に広めないよう言われていたので、教室でその話題を出すことはなかった。それでもエリナは詳しく聞こうとはせず、昨日の朝にはただ「頑張って」と送り出してくれた。
「どうだったの?」
小さな声で尋ねられ、フローレンも声を落とす。
「難しかった」
「それは聞いた」
「面白かった」
「それも昨日聞いたわ」
エリナの返事が早い。
「そうじゃなくて。自分では、どう思ってるの?」
少し考える。
「……分からない」
それが一番近かった。
「最後まで一応答えは書いたよ。でも、質問できる回数が決まってて、一つ知りたいことを聞けなかったの」
「それは困るわね」
「うん。でも、分からないままでも、そこまでで考えられることは書いた」
あの答えを変えたいとは思わなかった。
もっと上手くできたところはある。質問を二つまとめられたかもしれないし、そうすれば最後の情報まで取れた。
けれど、あのときの自分にはそれができなかった。それも含めて、今の自分なのだと思う。
「だから」
フローレンは机の上へ目を落とした。
「受かってたら嬉しい。でも、落ちてても……前みたいに『何もできなかった』とは思わないかな」
言葉にしてみると、不思議と胸が少し軽くなった。
エリナはしばらくこちらを見ていたが、やがて柔らかく笑った。
「それなら、あとは待つしかないわね」
「……うん」
答案はもう提出した。昨日できたことも、できなかったことも変えられない。今日もう一度考え直したところで、結果に何かが加わるわけでもない。
なら、今は授業を受ければいい。
フローレンは教本へ視線を戻した。
それから先は、時計を見る回数がほんの少しだけ減った。
放課後。
最後の授業を終える鐘が鳴ると、教室の空気が一斉にほどけた。
椅子が引かれ、教本を閉じる音が重なる。いつもならその流れの中で帰り支度をするフローレンも、今日は鞄へ必要なものをしまうと、少し早めに立ち上がった。
「行ってらっしゃい」
エリナが言う。
フローレンは頷いた。
「行ってくる」
結果がどうであっても、明日には話そう。
そう思いながら教室を出る。
中央棟へ続く廊下には、夕方の光が長く伸びていた。冬も終わりに近づき、少し前まで放課後にはすぐ薄暗くなっていた空も、今日はまだ明るい。窓から入る陽は淡い金色を帯び、壁際に連なる窓枠の影を床へ細長く落としていた。
階段を上がり、昨日と同じ三階へ出る。同じ廊下の突き当たりには、あの小演習室があった。
扉の前へ立つと、胸の鼓動が急に大きくなる。
昨日は、何が出るのか分からない緊張だった。今日はもう、出した答えを変えることができない。そのことの方が、ずっと落ち着かなかった。
フローレンは一度だけ息を吸い、扉を叩いた。
「入りなさい」
「失礼します」
中には、昨日と同じ三人の教師がいた。
机も椅子も同じ位置にある。違うのは、昨日あった厚い封筒が机の上にないことだった。代わりに、一枚の紙が置かれている。
「座って」
「はい」
フローレンは昨日と同じ椅子へ腰を下ろした。
教師たちの表情から結果を読み取ろうとして、すぐにやめる。
分からない。
なら、聞けばいい。
けれど、自分から尋ねるより先に学年主任が口を開いた。
「昨日はお疲れさま」
「ありがとうございました」
「まず、試験についていくつか話しておく」
すぐに結果を告げられるわけではないらしい。
フローレンは膝の上で指を軽く組んだ。
「君が出した最終的な仮説は、こちらが想定していた原因とほぼ一致している」
胸の奥がわずかに跳ねた。
「……はい」
「第三中継所で交換された導流材。その制限期間中に、気温低下による朝夕の需要増加が重なった。そこまでは正しい」
昨日、紙の上へ一つずつ繋いだものが頭の中に戻ってくる。
離れて見えた五つの報告地点。第三中継所。安全機構。補修後の制限。そして、気温の低下と暖房設備の稼働増加。
少なくとも、その繋ぎ方は間違っていなかった。
「ただし、質問の使い方には改善の余地がある」
それは、自分でも分かっていた。
「三つ目と四つ目の質問だ」
「……はい」
「安全機構の有無を確認したあと、作動記録を別の質問として使った。聞き方を工夫すれば、一度で両方の情報を得られた可能性がある」
フローレンは頷いた。
「私も、終わってから思いました。そうすれば、最後に実際の負荷率を聞けたので」
「その通りだ」
特進担当の教師が答えた。
「もし六枚目の札があれば、何を尋ねるつもりだった?」
「問題が起きた時間帯に、第三中継所の負荷が実際に八割を超えていたかです」
「なぜ?」
「八割を超えていたなら、交換後の制限期間中に高い負荷が掛かっていたことが分かるからです。そうすれば、私が考えた原因をもっと強く言えます」
少し考えてから、続ける。
「逆に八割を超えていなかったなら、別の原因も考え直す必要があると思います」
教師は短く頷いた。
「もう一点」
薬草学の教師が答案を手元へ引き寄せる。
「昨日、分からないものを分かったとは書けないと言いましたね」
「はい」
「それが本当に町で起きていることだったとしても、同じ判断をしますか?」
フローレンは少しだけ考えた。
「……たぶん、します」
教師を見る。
「一番可能性が高いものは書きます。でも、分からないところまで分かったことにはしないと思います」
自分の言葉を探しながら続ける。
「原因を決めつけて全部止めたり、必要のない設備まで交換したりしたら、その方が困る人が増えるかもしれないから。だから、今一番ありそうなものを示して、そのあと何を確かめるかも決めます」
部屋が静かになった。
夕方の光が窓から入り、机の上に置かれた答案の端へ触れている。
秋の実習では、判断が一つ遅れただけで、薬品が届かない夜が生まれた。問題用紙なら、間違いには赤い印がつくだけだ。けれど、その先に誰かの生活があるなら同じではない。
まだ十分に分かっているわけではない。それでも、分からないものを分かったことにして進んではいけないことだけは、以前よりずっとよく分かっていた。
「分かった」
学年主任が言った。
その一言で、質問は終わったらしい。
フローレンは膝の上で組んでいた指へ、少しだけ力を込めた。
いよいよ、結果が来る。
学年主任は、机の上に置かれていた一枚の紙へ目を落とした。
「フローレン・アストリア」
「はい」
自分の名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びる。
「昨日の特別試験について、三年次担当教員および特進担当教員で協議を行った」
静かな声が、小さな部屋へ広がる。
「試験では、必要な情報をすべて取り切ることはできなかった。質問の組み立てにも、まだ改善すべきところがある」
胸の鼓動が、一つ大きくなる。
「それでも君は、与えられた資料から確実に言えることと推測を分け、不足している情報を自分で見つけた。途中で仮説を修正し、最後まで分からなかったものについては、それを把握したうえで判断した」
昨日の二時間が、一つずつ言葉になって返ってくる。
「対応案についても同様だ。最も可能性が高いと判断した原因に対して、最初から大きな対応を取るのではなく、もし自分の仮説が誤っていた場合にも影響を抑えながら、次の判断材料を得られる方法を選んだ」
フローレンは静かに、その続きを待った。
「特進クラスに必要なのは、最初からすべてを知っていることではない」
特進担当の教師が言った。
「分からないものに出会ったとき、自分で考え続けられることだ」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。
「君には、まだ足りないところがある」
「……はい」
「特進へ入ったからといって、初日から周囲と同じようにできるとは限らない。これまで扱っていない範囲もある。授業の進度に戸惑うこともあるだろう」
フローレンは頷いた。
それは、ルシアンやレオからも聞いている。
「だが」
教師の声が続いた。
「それを理由に、第一クラスへの編入に留める必要はないと判断した」
空気が止まった。
ほんの一瞬、窓の外を通る風の音まで遠くなった気がした。
学年主任が、机の上の紙をこちらへ向ける。
そこには学院の紋章が刻まれていた。
その下。四年次所属クラス。
フローレンの視線が、一行へ落ちる。
《特進》
「特別試験は、合格だ」
その言葉が胸の中へ届くまで、ほんの少し時間がかかった。
「四年次より、フローレン・アストリアの《特進》クラスへの編入を認める」
息をすることを忘れたような気がした。
紙の上の文字を見つめる。
《特進》。
何度見ても、変わらない。
「……本当に?」
ようやく零れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「本当だ」
学年主任が答える。
「学院創立以来、第二クラスから直接《特進》へ編入する最初の生徒になる」
その言葉を聞いた途端、今まで実感しきれなかったものが一気に押し寄せた。
三年生になった春。いや、ほんの少し前まで。
応用問題を前に、何をすればいいのか分からなかった。
知っていることなら、たくさんあった。教本の頁も教師の言葉も、細かなところまで覚えていられた。それでも、答えへ向かう道が見えなかった。
自分には、覚えることくらいしかできない。
そう思っていた。
今、目の前に置かれているのは、《特進》クラスへの編入を認める一枚の紙だった。
胸の奥へ込み上げたものが、うまく言葉にならない。
「……嬉しいです」
ようやく、それだけ言った。声が少し震えた。
教師たちは急かさなかった。
薬草学の教師が、いつもの落ち着いた表情のまま、ほんの少しだけ目元を和らげる。
「よく頑張りましたね」
その一言で、胸の奥がさらに熱くなった。
「……はい」
フローレンは笑った。
自分でも気づかないうちに、視界の端がわずかに滲んでいた。慌てて一度瞬きをする。
「ありがとうございます」
教師たちへ、深く頭を下げた。
「まだ正式発表前だ」
学年主任の声が、少しだけ現実へ引き戻してくれる。
「四年次の所属クラスの正式発表は数日後になる。君についても、その際に公表する」
「はい」
「ただ、家族には今日伝えて構わない。それから、すでにこの件を話している相手になら、結果を伝えても構わない」
誰を思い浮かべたのか、たぶん顔に出たのだろう。
薬草学の教師が、小さく笑ったように見えた。
学年主任から紙を受け取り、もう一度礼をして小演習室を出る。
扉が閉じると、フローレンはその場で足を止めた。
廊下は昨日と同じだった。窓から夕方の光が入り、石造りの床へ長く伸びている。遠くから聞こえる生徒の声も、階下を通る足音も、何一つ特別なものではない。
なのに、世界の輪郭が少しだけ鮮やかになったように見えた。
手元には、受け取ったばかりの一枚の紙がある。まだ正式に発表されたわけではない。
それでも。
四年次。
《特進》。
何度見ても、そこに自分の名前がある。
フローレンは紙を胸元へ抱えた。
「……受かった」
小さく口にした途端、どうしようもなく誰かへ言いたくなった。
エリナにも、家族にも。それから、二人にも。
真っ先に足が向いたのは、いつもの自習室だった。
昨日、結果が出るのは放課後だと話してある。もしかすると、待っていてくれるかもしれない。
階段を下りる足が、少しずつ速くなる。途中で廊下は走ってはいけないことを思い出し、慌てて歩調を落とした。
それでも、気持ちだけは先へ行く。
中央棟を抜け、いつもの廊下へ入る。
自習室の扉が見えた。
開けようとして――その前に、扉が内側から開く。
「あ」
赤い髪が覗いた。
「フローレン」
レオだった。
「ちょうど見に行こうかって――」
「受かった!」
最後まで聞けなかった。自分でも驚くほど大きな声が出た。
レオの目が丸くなる。その後ろで、立ち上がりかけていたルシアンの動きも止まった。
「……受かったの?」
「うん!」
フローレンは手にしていた紙を上げた。
「特別試験。合格した」
笑いながら言葉が続く。
「四年生から、《特進》だって」
レオの顔が一気に明るくなった。
「やったじゃん!」
扉を大きく開ける。
「フローレン、すごい! おめでとう!」
「ありがとう!」
レオの声につられるように笑いながら、フローレンは部屋へ入った。
その向こうから、ルシアンが歩いてくる。いつも穏やかな彼の表情にも、今日ははっきりと笑みが浮かんでいた。
「おめでとう、フローレン」
静かな声だった。
その一言を聞いた瞬間、教師たちの前では堪えられたものが、もう一度胸の奥へ込み上げる。
「……うん」
フローレンは笑った。
「ありがとう、ルシアン」
ルシアンの視線が、手元の紙へ落ちる。
「見てもいいか?」
「もちろん」
差し出すと、二人が並んで紙を見る。
その光景を眺めながら、フローレンはようやく気づいた。
来年、同じ教室になる。
朝になれば、自分だけ別の廊下へ曲がらなくていい。合同授業の日だけでも、放課後だけでもない。三人で、同じ教室へ入る。
「……ほんとに同じクラスになるんだね」
思わず零れた。
レオが紙から顔を上げ、嬉しそうに笑う。
「そうだよ。四年生からは、朝から三人」
「放課後に集まる必要なくなるね」
「いや、放課後も集まろうよ」
間髪入れず返されて、フローレンは少し笑った。
「一日中一緒になっちゃうよ?」
「いいじゃん」
「レオはそう言うと思った」
まるで当然のことを言うような顔をしている。
フローレンはそのまま隣へ視線を移した。
「ルシアンも、一日中一緒でいいの?」
突然話を向けられたルシアンは、一瞬だけ目を瞬かせる。
「……まあ、いいんじゃないか」
いつものやり取りに笑いが重なる。
ルシアンも小さく笑った。
「楽しみだな」
ごく自然に、そう言った。
紫の瞳が、まっすぐフローレンを見ている。
「……うん」
胸の奥が、また少し温かくなる。
「私も、楽しみ」
言葉にした未来は、もう遠い想像ではなかった。
ほんの少し先にある春には、三人で同じ教室にいる。
窓の外では、冬の名残を含んだ風が木々の細い枝を揺らしていた。その先端にはまだ葉も花もない。それでも日が落ちるまでの時間は少しずつ長くなり、薄い空の底には次の季節の明るさが確かに滲み始めている。
フローレンはもう一度、二人の手元にある紙を見た。
《特進》。
三年生になった春には、自分の行き先として考えたことすらなかった二文字。
そこへ続く道は、最初からあったわけではない。
一つずつ、分かるところから次へ。
そうして繋いできた先に、今、立っていた。




