2-2 見つからない答え
翌朝。
第二クラスの教室には、開け放たれた窓から朝の風が入り、薄いカーテンをゆるく膨らませていた。登校してきた生徒たちの声があちこちで重なり、机を引く音や本を開く音が絶え間なく響いている。
フローレンは自分の席へ鞄を置き、椅子を引いた。
「おはよう、フローレン」
「おはよう」
声のした方へ笑い返し、鞄から教科書と筆記具を取り出す。
残りの荷物を整えようと、もう一度鞄へ手を入れた。指先に触れた一冊のノートに、ふと手が止まる。
取り出してみれば、昨夜図書館へ置き忘れたあのノートだった。
表紙を見た途端、魔法灯に照らされた赤い髪が脳裏に浮かぶ。
『一回読んだだけの本ってさ、そのときは覚えてても、時間が経てば細かいところは曖昧になってくるだろ?』
頭の中にあるレオの声は、昨夜と少しも変わらない。
魔法灯の下で見た猫のような目も、名前を呼んだときに見せた楽しそうな表情も。どれも昨夜のままの輪郭で、はっきりと残っている。
昨日までなら、それをわざわざ意識することすらなかっただろう。
覚えている。それはフローレンにとって、朝になれば日が昇るのと同じくらい、考えるまでもないことだった。
けれど今は、その当たり前の輪郭がほんの少しだけ違って見える。
「……フローレン?」
呼ばれて顔を上げると、エリナがこちらを覗き込んでいた。
「え?」
「どうしたの? さっきからぼーっとしてるけど」
「あ……ううん。なんでもない」
慌てて返すと、エリナはまだ少し気になるようだったが、やがて「そっか」と自分の席へ向き直った。
フローレンも小さく息をつき、昨夜のことをいったん頭の隅へ押しやる。
手元には、まだあのノートがある。
何気なく表紙を開き、頁をめくる。ほどなくして、昨日の授業で途中まで考えていた応用問題が目に入った。
昨夜、図書館でもう一度考えて、それでも解けなかった問題だ。
フローレンは椅子に腰を下ろし、ノートを机の上へ広げた。
問題文を、初めからもう一度目で追っていく。
見覚えのある用語。習ったことのある術式。
ひとつずつなら、どれも知っているものばかりだった。
けれど、最後まで読んでも答えへ続く糸口は見つからない。
昨日も、ここで止まった。
「……うーん」
フローレンは眉を寄せたまま、しばらく問題と睨めっこする。
何度読み返しても同じなら、今日は少しやり方を変えてみよう。
そう思い、筆記具を手に取った。
まずは、覚えていることから書き出してみることにした。
問題文に出てくる用語について、教科書に書かれていた説明。術式が働くための条件。基本則。それから、この術式に関係していたはずの補足事項。
どれが必要なのかは、まだ分からない。
それでも、関係がありそうなものを一つずつ、思いつくままに余白へ並べていった。
どれも覚えている。
わざわざ文字にする必要もないくらい、頭の中にはすでにあることばかりだった。それでも、こうして紙の上へ並べてみれば、何か見えてくるかもしれない。
一つ。
もう一つ。
書き込む文字が増えるにつれ、問題の周りに余白がなくなっていく。
やがて頁の半分ほどが細かな文字で埋まったところで、フローレンは筆記具を止めた。
しばらく、書き並べた言葉を眺める。
知らない言葉があるわけではない。
文章そのものが読めないわけでもない。
思いついたことは、ひとまず目の前に並んだ。書いた内容も、それぞれ教科書や授業で習った通りのはずだ。
それでも、問題の答えはまだ見えなかった。
必要なことがすべて揃っているなら、答えは分かるはずだ。
それなのに分からないのだから、きっとまだ何かが足りない。
――だったら、もう少し読んでみよう。
そう決めて、フローレンは席を立った。
始業の鐘が鳴るまでは、まだ少し余裕がある。
教室の後方には、授業で使う資料や参考書を収めた小さな書架があった。並んだ背表紙を順に眺め、その中から基礎術式について詳しく記された一冊を抜き出す。
ぱらぱらと目次をめくり、問題に出てくる術式と関係のありそうな項目を探した。
見つけた頁を開くと、フローレンはすぐに文字を追い始める。
教科書にはなかった補足。
別の条件下での術式の働き。
初めて目にする例。
知らなかったことが見つかるたび、フローレンの表情がわずかに明るくなる。
新しいことを知るのは、やっぱり楽しい。
ひとつ知れば、それまで知らなかったことがひとつ減る。もうひとつ知れば、そのぶんだけ答えにも近づけるような気がした。
頁をめくる。
もう一頁。
いつの間にか最初に探していた項目を通り過ぎ、関連する次の章まで読み進めていた。
「フローレン、そろそろ始まるわよ」
「えっ」
顔を上げると、教室の前方にはすでに教師の姿があった。周囲の話し声も収まり始め、生徒たちが次々と席についている。
「あ、待って」
フローレンは慌てて参考書を閉じた。
開いたままだったノートへ目を戻し、書き込んだ文字を最後にもう一度見る。
さっきまで知らなかったことを、いくつも知った。
それでも。
応用問題には、まだ答えを書けないままだった。
フローレンは少し名残惜しそうにノートを閉じ、参考書と重ねて机の端へ寄せた。




