2-1 レオ・ルベライト
「え?」
フローレンの声が、静まり返った空気をかすかに揺らした。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
少年はすぐには続けず、わずかに伏せた猫のような目でこちらを見ていた。
窓の外は、いつの間にかすっかり夜へ沈んでいる。西の空にわずかに残っていた暮れの気配も消え、古い硝子には外の景色に代わって、灯りに浮かぶ図書館の内側がぼんやりと映り込んでいた。
壁際の魔法灯が静かな光を落とし、長机の上に淡い影を作っている。遠くで微かに頁を閉じる音がした。それきり、また静かになった。
「……いや。ちょっと気になっただけ」
「気になった?」
「うん。一回読んだだけの本ってさ、そのときは覚えてても、時間が経てば細かいところは曖昧になってくるだろ?」
フローレンは答えなかった。
「印象に残ってるところなら覚えてても、文章の細かい言い回しとか、挿絵がどこにあったとか。そういうのは少しずつ、ぼんやりしてくるもんじゃない?」
「ぼんやり……」
聞き慣れない言葉ではない。
忘れる、という言葉の意味も知っている。時間が経つにつれて、覚えていたことが思い出せなくなること。記憶が曖昧になること。
エリナが試験前に「昨日覚えたところをもう忘れた」と嘆いているのも、教師が「忘れないうちに復習するように」と話すのも、これまで何度も耳にしてきた。
ただ、それがどういう感覚なのかは分からなかった。
誰かがそう口にするたびに、そういうこともあるのだろうと思っていた。それを自分との違いとして、深く考えたことはない。
昨日読んだ頁も、一年前に授業で見た黒板も、思い出せばそこにある。
文字の並びも。
図の形も。
教師がどこで言葉を切ったのかも。
少なくともフローレンには、時間が経ったことでその輪郭が薄くなったと感じたことはなかった。
「……私は、ならないです」
「ならない?」
「はい。たぶん」
答えてから、フローレンは少し考えた。
「前に読んだものでも、思い出せば同じなので」
「同じ?」
「見たときと」
少年の眉がわずかに上がった。
ほんの一瞬のことだった。けれど、その反応を見て、フローレンは自分の答えが何かおかしかったらしいと気づく。
急に少しだけ落ち着かなくなり、相手の様子を窺うように顔を上げた。
「……普通は、違うんですか?」
その声に混じった戸惑いを拾ったのか、少年の表情から先ほどの驚きがふっと消えた。
「うん。たぶんね」
返ってきた声は、それまでと変わらず柔らかい。
「少なくとも、俺はそんなふうには覚えてられないかな」
「そうなんですね……」
自分にとって当たり前だったことが、ほかの人にとってはそうではない。
そのことが、フローレンには少し不思議だった。
これまでにも、覚え方には人それぞれ違いがあるのだろうと思っていた。自分は一度読めば覚えられるけれど、同じ頁を何度か読み返して覚える人もいる。自分には覚えていたものが後からぼやける感覚はないけれど、そうではない人もいる。
ただ、それだけの違いだと思っていた。
どうして何度も読まなければ頭に入らないのかも、覚えていたものが薄れていくとはどんな感覚なのかも、深く考えたことはない。
自分にとっては、読めば残る。
それが昔から当たり前だった。
「それって、そんなに珍しいことなんでしょうか」
「珍しいっていうより……」
少年はそこで言葉を切った。
何と言えばいいのか考えるように、ほんの少し視線を逸らす。
「俺は、結構すごいことだと思うけど」
「すごい?」
「うん」
迷いのない返事だった。
フローレンは鞄の中へしまったノートを思い浮かべた。そこには、今日一日考えても解けなかった問題が残っている。
「でも……覚えてるだけ、だし」
誰に聞かせるでもないような声で、ぽつりと呟く。
本に書かれていることは覚えている。教師の話したことも、読んだ頁も。
けれど、それで何かができるわけではない。
知っているはずの言葉がいくつ並んでいても、昼間の問題の答えは分からなかった。
少年は一瞬だけフローレンの鞄へ目をやった。
「……そっか」
短くそう言って、それ以上は言葉を重ねなかった。
すごいのだと重ねることも、否定することもしない。
フローレンも何となく口を閉じた。不思議と、何かを言わなければならない気はしなかった。
そのとき、館内の奥から鐘の音がひとつ鳴った。
澄んだ余韻が高い天井へ伸び、静かな館内にゆっくりと消えていく。
「あ……」
フローレンは入口の方を見た。
「本当にもう帰らないと」
「だね。引き止めてごめん」
「いえ。ノートも拾ってもらいましたし」
鞄の留め具が閉じていることをもう一度確かめ、フローレンは顔を上げた。
「じゃあ、ありがとうございました。えっと……」
そこで言葉が止まる。
少年も察したらしい。
「ああ。俺、レオ」
「レオ……」
耳にした名前を辿るように、フローレンは小さく繰り返した。
「レオ・ルベライトさん、ですね」
「お、正解」
「今日の合同授業で、先生が呼んでいたので」
名前そのものは覚えていた。ただ、そのときは呼ばれた相手まで意識して見ておらず、それが目の前の少年のものだとは結びついていなかった。
「なるほどね」
レオは軽く頷く。
「同い年だし、レオでいいよ」
「……レオさん?」
試しに呼んでみると、レオが楽しそうに笑った。
「あはは。さんもいらない」
「えっ」
そこまで近くなるとは思っていなかった。
フローレンは一度口を開きかけて、閉じる。名前はもう分かっているのに、それをそのまま呼ぶだけのことが妙に難しい。
「じゃあ……」
ほんの少し間を置く。
「……レオ?」
「うん」
嬉しそうに返されて、今度はフローレンの方が何となく照れくさくなった。
さっきまで話したこともなかった相手を、いきなり名前だけで呼んでいる。たったそれだけなのに、急にひとつ距離が近くなったようで、少しくすぐったい。
「じゃあ改めて。よろしく、フローレン」
名前を呼ばれて、フローレンも小さく頬を緩めた。
「……うん。よろしく、レオ」




