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1-4 置き忘れたノート


 ふと、図書館の静けさが先ほどまでとは少し違っていることに気づいた。


 フローレンは窓から視線を戻し、机の上に広げた本へ目を落とした。


 頁を照らしていた西日はすっかり姿を消し、図書館の壁に灯された魔法灯が代わりに淡い光を投げかけている。周囲を見渡せば、先ほどまで点々と埋まっていた席も、いつの間にかそのほとんどが空いていた。


「……もうこんな時間」


 慌てて本を閉じ、積み重ねていた本を抱えて立ち上がる。


 天文学の本だけを手元に残し、ほかの本を書架へ戻していく。最後の一冊を元の場所へ収めると、貸出手続きを済ませて天文学の本を鞄へしまい、そのまま足早に図書館をあとにした。


 夕暮れを過ぎた学院は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。


 長く伸びる廊下には人影もまばらで、磨かれた床を踏む靴音が、こつ、こつ、と高い天井へ響いていく。窓の外には薄闇に沈み始めた中庭が見え、その向こうでは、校舎の窓に灯された明かりがひとつ、またひとつと浮かんでいた。


 フローレンは鞄を抱え直し、そのまま昇降口へ向かう。


 角をひとつ曲がったところで、不意に足が止まった。


「……あ」


 鞄を開き、中へ手を入れる。一度探り、もう一度探ってから、フローレンは困ったように眉を下げた。


「ノート……」


 先ほどまで開いていたはずのノートが見当たらない。


 最後に見たのは、図書館の机の上だ。


「置いてきちゃった……」


 フローレンは来た道を振り返った。


 まだ閉館には間に合う。


 小さく息をつくと、今しがた歩いてきた廊下を足早に引き返した。


 

 ――その少し前。


 人影のまばらになった図書館へ、赤い髪の少年が足を踏み入れていた。


 入口から館内を見渡す。長机に残っている生徒は数えるほどしかいない。書架の間にも目を向けてみたものの、迎えに来た友人の姿は見当たらなかった。


「……もう帰ったかな」


 入れ違いになったのかもしれない。


 少年はもう一度だけ書架の奥へ視線を向け、それからゆっくりと長机の間を歩き始めた。


 その途中、誰も座っていない席の前でふと足を止める。


 机の上に、一冊のノートが置かれていた。


 椅子はすでに戻され、周囲の席にも人の姿はない。机の上には、ノートだけがぽつんと取り残されている。


 少年は辺りを見渡したが、持ち主らしい生徒は見当たらなかった。


 何気なく表紙へ目を落とす。その隅には、小さく名前が記されていた。


 ――フローレン・アストリア。


「アストリア……」


 少年はわずかに首を傾げた。


 どこかで聞いた名前だった。


 そう思った直後、午前中の光景が脳裏に浮かぶ。


『では、この《ルミナ草》について――アストリア。説明しなさい』


「あー……もしかして、あの子かな」


 午前中の合同授業で、教科書を持たないまま注釈までそっくり読み上げていた少女。昼休みには、教師が同じ言葉を何度繰り返したのかまで覚えていた。


 少年はもう一度表紙の名前を確かめると、ノートを手に取った。


 すでに持ち主が帰ってしまったのなら、ひとまず司書へ預けておけばいいだろう。


 そう考えて机を離れようとした、そのときだった。


「すみません……!」


 澄んだ声が、静かな図書館によく響いた。


 少年が振り返る。


 入口に立っていた少女は、急いで戻ってきたのか少し息を弾ませていた。一度息を整え、それから少年の手元にあるものに気づいて、ぱっと表情を明るくする。


「あ……! それ、私のです」

「……やっぱり」


 少年はふっと笑い、手にしていたノートを差し出した。


「フローレン・アストリア?」

「はい。ありがとうございます」


 受け取ったノートを胸元へ抱き、フローレンはほっと息をついた。


「本当に助かりました。危うくそのまま帰ってしまうところでした」

「間に合ってよかった。ちょうど司書さんに預けようと思ってたところ」

「そうだったんですね」


 フローレンは胸元のノートへ視線を落とし、ふっと頬を緩めた。


「ありがとうございました」

「うん。気をつけて帰ってね」


 少年がにこりと笑う。


 フローレンもつられるように小さく笑って、ぺこりと頭を下げた。胸元に抱えていたノートを鞄へしまい、今度こそ忘れ物がないことを確かめる。


 そのまま図書館を出ようと踵を返した。


「あ、そうだ」


 数歩進んだところで、背後から声がかかる。


 フローレンは足を止め、振り返った。


「今日の合同授業、一緒だったよね」

「え?」


 思いがけない言葉に、フローレンは目の前の少年を改めて見た。


 赤い髪を長く伸ばし、ゆるく一本に編んでいる。背は高く、胸元には特進クラスの徽章があった。


 その姿には見覚えがある。今日の合同授業で、特進クラスの列に立っていた生徒の一人だ。


 けれど、話したことはなかった。


「《ルミナ草》、答えてたでしょ」

「あ……」


 そこまで言われて、ようやく彼が自分に声をかけた理由が分かった。


「はい」

「やっぱりそうか」


 少年は小さく笑った。


「ちょっと気になってたんだけどさ。あれって、全部覚えてたの?」

「え?」

「教科書に書いてあったやつ」

「あ……はい」


 なぜそんなことを聞かれるのか分からないまま、それでもフローレンは素直に頷いた。


「でも、教科書見てなかったよね」

「はい」

「じゃあ、いつ覚えたの?」


 フローレンは少し考えるように小首を傾げた。


「教科書をもらった日に一通り読んだので、そのときです」

「……教科書をもらった日?」

「はい」


 少年はわずかに目を細めた。


「そのあと、読み返したりは?」

「してないです」

「へえ……」


 短い返事とともに、少年の視線がフローレンからわずかに逸れる。


 午前中の授業では、教科書を開くこともなく本文を淀みなく答えていた。それだけではない。頁の隅に添えられた小さな注釈まで、そっくりそのまま口にしていた。


 昼休みには、教師が同じ言葉を何度繰り返したのかまで覚えていた。


 ずいぶん真面目な子なのだと思った。教師の言葉を、随分細かなところまで聞いている子なのだとも。


 けれど。


「……じゃあさ」


 少年は再びフローレンへ視線を戻した。


「ルミナ草の頁、今も覚えてる?」

「はい」


 返事に迷いはなかった。


「どんな頁だった?」


 フローレンはますます不思議そうに小首を傾げる。


「どんな……?」

「たとえば、最初に何が書いてあったとか」


 ようやく質問の意味が分かったのか、フローレンは少しだけ視線を上げた。


「頁の上に《ルミナ草》とあって、その下に挿絵があります。右側が本文で、最初は『ルミナ草は夜間に微弱な魔力光を放つ多年草で――』」


 言葉を探すような間は、どこにもなかった。


「下には採取時期についての補足があって、その隣に乾燥保存した場合の効力について。頁の右下には古代エルディア地方での呼び名について注釈が――」


「ちょっと待って」


 少年が止めると、フローレンは口を閉じた。


「あ……すみません。また答えすぎちゃいましたか?」


 午前中のことを思い出したのか、少し気恥ずかしそうに視線を落とす。


 少年から返事はなかった。


 不思議に思って顔を上げると、こちらをじっと見つめている。


 本文だけではない。挿絵の位置も、補足も、頁の隅に添えられた注釈も。どこに何が書かれていたのかまで、迷うことなく辿っていく。


 教科書を受け取った日に一通り読んだ。それから、その頁を読み返したこともないという。


 少年は今聞いた言葉を、頭の中でもう一度辿った。


「……ねえ」


 呼びかけられ、フローレンは小首を傾げる。


「それ、他の頁も?」

「他の頁?」

「うん。さっきみたいに、どこに何が書いてあったか」

「はい、覚えてます」

「全部?」

「はい」


 あまりにもあっさりと返ってきた答えに、少年はわずかに眉を上げた。


 教科書の本文。

 頁の隅に添えられた注釈。

 挿絵の位置。

 教師が口にした言葉と、その回数。


 午前中から引っかかっていたものが、少しずつ同じところへ集まり始める。


 どれも、目の前の少女にとっては特別なことではないらしい。


「……それって」


 少年は少しだけ考えた。


「どのくらい前に読んだものまで、同じように覚えてるの?」

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