2-3 必要なものはもう揃ってる
放課後。
中庭へ続く回廊には、傾き始めた陽が長く差し込んでいた。等間隔に並ぶ柱の影が石床へ伸び、その向こうでは、授業を終えた生徒たちが思い思いに校舎をあとにしていく。
フローレンは回廊の途中に設えられた長椅子に腰かけ、膝の上へノートを広げていた。
昨日から、何度も見返している頁だ。
中央には、授業で出されたあの応用問題。その周りには、思いつく限り書き出した用語や基本則が細かな文字で並んでいる。朝、参考書で知ったこともいくつか書き足してあった。
それでも、肝心の答えはまだ書けないままだった。
「……あれ? またやってる」
すぐ近くで聞こえた声に、フローレンは顔を上げた。
見上げた先で、見覚えのある赤い髪がゆるく揺れている。
「レオ」
「うん。昨日ぶり」
昨日は躊躇いながら呼んだ名前が、今日はするりと口から出た。
レオの口元がふっと緩む。そのままフローレンの手元へ目をやると、膝の上に広げられたノートに気づいた。
「それって、昨日の問題?」
「うん」
フローレンもつられるようにノートへ目を落とす。
「まだ解けない?」
「……うん」
少し気恥ずかしくなって、困ったように笑った。
「朝、改めて調べたんだけど、やっぱり分からなくて」
「へえ」
レオは少し身を屈め、細かな文字で埋まった頁を覗き込んだ。
「……ずいぶん増えたね」
「関係しそうなことは、いろいろ書いてみたの」
レオはしばらくその頁を眺めてから、フローレンを見る。
「見てもいい?」
「うん」
差し出されたノートを受け取り、レオはその隣へ腰を下ろした。
ノートを膝の上へ広げ、まず問題文に目を通す。それから、その周りに並ぶ細かな書き込みを順に追っていった。
「関係しそうなことを全部並べたら、何か分かるかなって思って」
「全部?」
「たぶん」
レオはもう一度、頁の上をゆっくりと見渡した。
問題文に出てくる用語。それに関わる基本則や補足。朝、新しく調べたという内容もいくつか加わっている。
今回の問題を解くために必要なものは、すでにいくつも並んでいた。一方で、今の条件では使わない知識まで混じっている。
「これ、何?」
レオがそのうちのひとつを指した。
フローレンもノートを覗き込む。
「あ、それは術式が安定して働くための条件。教科書の四十二頁に載ってて、魔力の供給量が一定以上であることと、術式を構成する三つの基礎式に乱れがないこと。それから四十三頁の補足には、周囲の魔力濃度が急激に変化した場合は――」
「はい、そこまで」
レオが笑いながら、人差し指をフローレンの唇の前へすっと立てる。
むぐ、とフローレンは口を閉じた。
「……また答えすぎた?」
「はは。もうそれ癖だよね」
楽しそうに笑ってから、レオは指を下ろした。今度は少し離れたところにある書き込みを示す。
「じゃあ、こっちは?」
「基礎術式の第二則」
「どういうやつ?」
「魔力の流れに外から別の力が加わった場合、その方向と強さに応じて術式の出力にも変化が生じるっていう――」
今度は途中で止めず、レオは最後まで聞いた。
「これは?」
「術式を維持できる魔力量の下限」
「こっち」
「外部干渉を受けたときの補正について。これは今日読んだ参考書に載ってたの」
どの問いにも、フローレンはほとんど間を置かずに答える。
頁に書き留めてあるのは、ほんの数語だけの箇所もある。けれど、そこを指して尋ねれば、教科書にどう書かれていたのかも、その条件や補足も淀みなく返ってきた。
レオは場所を変えながら、もういくつか尋ねてみる。
やはり、フローレンが答えに詰まることはなかった。
やがて、レオの指が止まった。
「……うん」
「?」
フローレンが隣を見る。
レオはしばらく何も言わず、問題文と周囲の書き込みを見比べていた。
頁の中には今回使わない知識も混じっている。けれど、問題を解くために必要なものは、もう揃っていた。
知識が足りなくて解けないわけではない。
それなのに、フローレンは答えが分からないという。
レオは頁の端に書き足された文字へ目をやった。
「朝も、これ調べてたんだよね?」
「うん」
「まだ何か足りないと思った?」
「……うん。必要なことが全部分かれば、答えも分かるはずだから」
レオはそこで、ノートへ視線を戻した。
「……そっか」
ようやく、少しだけ分かった気がした。
「フローレン」
「なに?」
「これさ」
レオは頁に並ぶ書き込みを指した。
「必要なものは、もう揃ってるよ」
「……え?」
フローレンは目を瞬いた。
「でも、答え分からないよ?」
「うん」
レオはすぐに頷いた。
そこだった。
必要な知識は、もう揃っている。けれどフローレン自身には、それをどう使って答えへ進めばいいのかが分かっていない。
「だから、もっと調べた方がいいのかなって」
「いや……」
レオは少し考えた。
「たぶん、増やす方じゃない気がする」
「増やす方じゃない?」
「うん」
フローレンは再びノートを見た。
増やすのではないという。
けれど、今あるものだけでは答えが分からない。
「……じゃあ、どうしたらいいんだろう」
誰に尋ねるともなく、ぽつりと零れた。
レオはすぐには答えなかった。
問題の答えなら分かる。けれど、それをそのまま教えたところで、フローレンが今困っていることとは少し違う気がした。
なら、何を言えばいいのだろう。
レオは余白いっぱいに書き込まれた文字を眺めた。
知っていることは、こんなにある。それなのに、目の前に並んだものをどう使えばいいのか分からず、分からないからまた新しいものを探そうとしている。
そこまでは見える。
けれど、その先をどうすればいいのかは、レオにも分からなかった。
「……レオ?」
黙り込んだレオを、フローレンが不思議そうに見上げる。
「んー……ちょっと考えさせて」
「?」
「どうしたらいいか」
そう言って笑い、もう一度ノートへ視線を落としたところで、ふと一人の顔が浮かんだ。
あいつは、人に何かを教えるとき、いきなり答えを口にしない。まず相手に尋ねる。どこまで分かっているのか。どうしてそう考えたのか。
答えを言うより先に、相手の話を聞いているところを、レオは何度も隣で見てきた。
「あー……」
自分には、今のフローレンに何を尋ねればいいのか分からない。
けれど。
――あいつなら、何か分かるかもしれない。




