51:では、始めよう
翌日の放課後。
フローレンは、昨日と同じ教員室の扉を叩いた。
返事を待って中へ入ると、第二クラスの担任がちょうど机の上の書類をまとめているところだった。昨日のように学年主任やほかの教師の姿はなく、室内には紙をめくる音と、窓の外を通る風の気配だけが静かに残っている。
「失礼します」
「アストリア」
担任は手を止め、こちらを見た。
「決まったか」
「はい」
昨日から何度も頭の中で思い返した言葉だった。それでも、口にする直前には胸の奥がわずかに高鳴る。
「特別試験、受けたいです」
声は思っていたより落ち着いていた。
「受けさせてください」
担任は一度だけ、フローレンの顔を確かめるように見る。
「分かった」
それ以上、理由を尋ねられることはなかった。誰かに勧められたのかとも、特進へ行く自信があるのかとも聞かれない。昨日まで考えて出した答えを、そのまま一つの選択として受け取ってもらえたことが少し嬉しかった。
「試験は三日後に行う」
「三日後……」
「ああ。午前の授業は免除する。開始は一限目と同じ時刻だ」
担任は手元から一枚の紙を取り出し、フローレンへ差し出した。
書かれているのは日時と場所だけだった。
中央棟三階。
小演習室。
持ち物は筆記具のみ。
「試験範囲は……」
「ない」
尋ねきる前に答えが返り、フローレンは思わず紙から顔を上げた。
「ないんですか?」
「少なくとも、今から覚えて準備できるような範囲は設定しない」
担任は少しだけ椅子の背へ身体を預ける。
「学年末試験で、三年次までの授業内容については十分確認した。それと同じことをもう一度させるための試験ではないからな」
「じゃあ……何を勉強したらいいんでしょう」
「それも含めて、自分で考えるといい」
「……それがもう試験みたいです」
思わず言うと、担任の口元がわずかに緩んだ。
「そう感じるなら、悪くない」
結局、それ以上のことは教えてもらえなかった。
特進の教本を読むのか、これまでの授業内容を復習するのか、実習で使った資料を見返すのか。準備しようと思えば、やれることはいくつもある。
けれど、何が出るか分からない試験に対して、すべてを準備することなどできない。
「一つだけ」
教員室を出ようとしたところで、担任が呼び止めた。
「はい?」
「前日は普通に寝るように」
「……」
すぐには返事が出なかった。
「なぜ黙る」
「寝ます」
「今の間は何だ」
「ちゃんと寝ます」
二度目は少し強めに答える。
担任はしばらくこちらを見ていたが、やがて小さく息をついた。
「それならいい」
どこまで信用されているのかは少し怪しい。
以前なら「三日しかない」と思った瞬間から、できるだけその時間を勉強へ使おうとしていたかもしれない。けれど今は、そこまでの焦りはなかった。
知らないものが出るのなら、今からすべてを知っておくことはできない。そのことを、以前よりは受け入れられる。
三日間は、思っていたより静かに過ぎた。
もちろん、何もしなかったわけではない。普段通り授業を受け、出された課題をこなし、空いた時間にはこれまでのノートも開いた。ただし、特別試験のために新しい教本を何冊も読み込んだり、夜遅くまで机へ向かったりはしなかった。
何が出るか分からないからと、手当たり次第に知識を増やすのは、以前の自分がしていたことと少し似ている気がしたからだ。
それでも二日目の夕方、一度だけ図書室の棚の前で長く立ち止まった。
特進クラスで使われている参考書の一冊が、目の高さに並んでいる。
借りることはできる。今夜読めば、かなりの量を覚えられる。その本から何か出る可能性だって、まったくないとは言えない。
フローレンは背表紙へ手を伸ばしかけた。
けれど、指先が触れる前に止まる。
――何のために読むんだろう。
知りたいと思って読むならいい。
必要だと思って読むなら、それもいい。
でも今は、試験で何か知らないものに出会うことが怖くて、その穴を先に全部塞ごうとしているだけではないだろうか。
そう考えると、手は自然と下りた。
試験が終わったら読もう。
その方が、きっと面白い。
フローレンは棚から離れた。
そうして、試験当日の朝を迎えた。
空はよく晴れていた。夜のうちに冷え込んだらしく、中庭の石畳には薄く霜が残っている。昇ったばかりの陽がそこへ触れるたび、白い粒が細かな光を返していた。
フローレンはいつもより少し早く寮を出た。
中央棟へ向かう途中、第二クラスの教室がある棟の前を通る。
いつもなら、ここで曲がる。けれど今日は、そのまま真っ直ぐ進んだ。
ただ一日、試験を受けるだけだ。それなのに、いつもとは違う道を歩いていることが、これから先の何かまで先取りしているように感じられた。
中央棟へ入り、三階まで階段を上がる。上へ行くほど人の気配は薄れ、指定された小演習室は廊下の一番奥にあった。
扉の前で立ち止まる。
緊張していないと言えば嘘になる。胸の奥では、いつもの試験より少し速く鼓動が鳴っていた。何をさせられるのか分からないことも、教師たちが自分一人のために用意した試験だということも、今になって重みを増している。
それでも。
帰りたいとは思わなかった。
フローレンは一度だけ息を吸い、扉を叩く。
「入りなさい」
「失礼します」
中へ入ると、小演習室には長机が一つ置かれ、その向こうに三人の教師が座っていた。
先日話をした学年主任と、薬草学の教師。それから、特進クラスを担当する教師だった。
最後の一人は合同授業で何度か見かけたことがあるものの、直接教わったことはほとんどない。フローレンは少しだけ姿勢を正した。
「フローレン・アストリアだな」
「はい」
「座って」
机の反対側に用意された椅子へ腰を下ろし、筆記具だけを机へ置く。目の前には、まだ何もなかった。
学年主任が口を開く。
「改めて確認する。この試験は、君が四年次から《特進》クラスへ編入できるかを判断するためのものだ」
「はい」
「合格しなかった場合は、予定通り第一クラスへ編入する。今回の試験結果によって、それまでの評価が下がることはない」
フローレンは静かに頷いた。
「分かりました」
「制限時間は二時間」
二時間。学年末試験より長い。
「途中で休憩は挟まない。ただし、水分は好きなときに取っていい」
続いて、特進担当の教師が一つの封筒を机へ置いた。
厚みのある、大きな封筒だった。
「この中に、今回使用する資料が入っている」
フローレンの視線が封筒へ落ちる。
「資料はすべて初めて見るものだ。授業で扱った事例をそのまま出しているわけではない」
「はい」
それは予想していた。
「ただし、専門的な知識を知らなければ読めない内容にはしていない。必要な用語の説明も資料内にある」
それなら、少なくとも知らない用語だけで立ち止まることはない。そう思ったところで、教師が続けた。
「だが、封筒の中にある情報だけでは、最終的な答えは出ない」
フローレンの指がわずかに止まった。
「……出ない?」
「ああ」
「資料が足りない、ということですか?」
「そうだ」
特進担当の教師は、今度は小さな白い札を五枚、机へ並べた。五枚の札には、一から五までの数字が一つずつ振られている。
「試験中、君は我々へ五回まで質問できる」
フローレンは札へ目を落とした。
「質問……」
「一つ質問するたび、札を一枚使う。内容によっては、こちらから追加の資料を渡すこともある」
「じゃあ、その五回で足りない情報を集めるんですか?」
「必要だと思う情報を尋ねればいい」
「五回全部、使わなくてもいいんですか?」
「ああ。何を聞くかも、何回使うかも君が判断しなさい」
少しだけ胸が高鳴った。
五回。何を尋ねるかは、自分で決められる。けれど、何を聞けばいいのかは教えられない。必要のないことを尋ねれば、その一回は戻ってこない。
「採点するのは、最終回答だけではありません」
薬草学の教師が言った。
「どう考えたか。どこまでを事実として扱い、どこからを推測としたか。何が不足していると判断し、なぜその質問をしたのか。そこも見ます」
フローレンは、机に並ぶ五枚の札から目を離せなかった。
今まで受けたどの試験とも違う。
これまでの試験では、問題を開けば必要な情報はそこにあった。それを見つけられるか、繋げられるか、正しく使えるかを問われてきた。
けれど今回は、必要なものそのものが揃っていない。
足りないものまで、自分で見つけなければならない。
「何か質問は?」
学年主任に尋ねられ、フローレンは少し考えてから首を振った。
「今はありません」
「では、始めよう」
封筒が、自分の前へ押し出された。
窓の外では、冬の朝日が霜をゆっくり溶かし始めている。
フローレンは封筒へ手を伸ばした。
中から出てきたのは、十二枚の資料だった。地方都市の簡略図、三日間に記録された魔力流量の推移、公共設備の稼働記録、住民から寄せられた報告、気象記録、過去の補修履歴。
そのほかに、課題文が一枚添えられていた。
――市内の一部で発生している魔力供給の不安定化について、最も可能性の高い原因を特定し、対応案を示しなさい。
その下には、小さくもう一文。
――なお、必要と判断した情報が不足している場合は、試験官へ質問してよい。
フローレンは十二枚を、もう一度最初から見た。
資料そのものは読み進められる。記録されている数字も、地図上の位置も、住民の証言も、一度目を通せば頭の中へ残っていく。
いくつかの関係も見えた。
魔力の揺らぎが始まった時刻。同じ時間帯に作動していた設備。数日前の低温。数日前に補修された設備。
結びつきそうなものはいくつもある。
けれど、フローレンはすぐには羽根ペンを取らなかった。目の前にある情報だけでは最終的な答えが出ないことは、最初から教えられている。
なら、先に見つけるべきなのは答えではない。
――何が分からないのか、だ。
フローレンは十二枚の資料を机いっぱいに広げた。
以前なら、分からないところを埋めるために、まず知っているものを増やそうとした。けれど今、必要なのは違う。
何を知る必要があるのかを、自分で決めることだ。
一枚の白紙を手元へ寄せ、資料に書かれていることを写す代わりに、上の方へ短く一行を書く。
『今ある情報だけで、確実に言えることは何か』
その下へ、もう一つ。
『原因を決めるために、まだ分からないことは何か』
五枚の札は、まだ一枚も使っていない。
フローレンはようやく羽根ペンを動かし始めた。




