50:どうしたい?
自習室の扉を開けると、いつもの場所に二人がいた。
窓際の席ではルシアンが本を開き、その向かいでレオが紙袋の中を覗き込んでいる。机の中央にはまだ何も広げられておらず、二人ともそれぞれ好きなことをしながら過ごしていたらしい。
「あ、来た」
最初に顔を上げたレオが言った。
「今日はちょっと遅かったね。またフローレン先生してた?」
「してないよ」
思わず笑いながら、フローレンは二人の向かいへ座った。
「今日は教員室に呼ばれてたの」
レオの表情が少し変わる。
「先生に?」
「うん。第二クラスの先生と、薬草学の先生と、学年主任までいて」
「三人?」
ルシアンも本を閉じた。
「何の話だったんだ?」
フローレンは鞄をいつものように机の脇へ置く。何度繰り返したか分からない動作なのに、今日はここへ辿り着くまでの時間が妙に長かった気がした。
「えっとね」
二人の顔を順に見る。
「来年は、第一クラスに編入だって言われたの」
レオの目が明るくなる。
「やっぱり」
「おめでとう、フローレン」
ルシアンもすぐに笑った。
「ありがとう」
二人に祝われると、教員室で感じた嬉しさがもう一度胸へ広がった。
「……でも、それだけじゃなかったの」
レオが首を傾げる。
「ほかにも何か言われた?」
「うん」
一度、息を吸う。
教師たちを前にして聞いたときと同じくらい、自分の口から言うのにもまだ少し違和感があった。
「私をね」
フローレンは二人を見る。
「四年生から、《特進》クラスに入れることも考えてるんだって」
二人とも、すぐには何も言わなかった。
レオが瞬きをする。ルシアンも、わずかに目を見開いたままフローレンを見ていた。
「……特進?」
「うん」
「第一じゃなくて?」
「私も同じこと聞いた」
レオが椅子の背から身体を起こす。
「え、ちょっと待って。第二から?」
「第二から」
「直接?」
「うん」
答えるたび、話の大きさを自分でも確認しているようだった。
「そんなことできるの?」
「今まで例はないって」
今度こそ、レオが黙った。驚くことの少ない彼が、珍しく言葉を探している。
一方でルシアンは、最初の驚きが薄れたあとも何かを考えるように静かだった。
「……それで、学院はもう決めたのか?」
「ううん」
フローレンは首を振る。
「順位だけじゃなくて、この一年の授業とか実習も見直したんだって。それでも、本当に特進の授業についていけるかまでは分からないからって」
「そうだろうな」
ルシアンは頷いた。
「学年末試験と普段の特進授業では、求められるものが少し違う」
「うん。だから――特別試験をするって」
「……特別試験?」
レオが繰り返す。
「私が受けたいなら」
フローレンは、教員室で聞いたことを二人へ順番に説明した。
詳しい内容はまだ知らされていない。ただ、覚えていることを確かめるだけではなく、初めて見るものも扱い、何を使うべきかさえ自分で考える試験になるらしい。
そして合格すれば、四年生から《特進》クラスへ入る。
話しているうちに、教員室で胸の内へ生まれた高揚が、もう一度ゆっくりと輪郭を持ち始めた。
「先生たち、ずいぶん本気だね」
最後まで聞いたレオが、ぽつりと言った。
「本気?」
「だって、今までなかった試験を作るんでしょ。フローレンが特進に行けるか確かめるために」
「……そう言われると」
急に落ち着かなくなってきた。
自分一人のために、学院が新しく試験を用意する。
教員室では目の前の説明についていくことで精いっぱいだったが、改めて考えるとかなり大きなことだった。
「なんか怖くなってきた」
「今?」
レオが笑う。
「さっきまで平気だったの?」
「先生の前では、理解するので精いっぱいだったから」
「それで、返事は?」
ルシアンが尋ねた。
「明日の放課後まで待ってもらった」
「そうか」
それ以上、ルシアンは何も言わなかった。レオも、受けた方がいいとも、やめた方がいいとも言わない。
フローレンは二人の顔を見比べた。
「……何か言わないの?」
「何かって?」
「その……受けた方がいいとか」
言った途端、ルシアンの表情がごくわずかに変わった。
「それは、僕たちが決めることじゃないだろう」
穏やかな声だった。
強く否定されたわけではない。それでも、その一言は思っていたよりはっきりと胸へ届いた。
「でも、二人は特進にいるから。どんなところか知ってるでしょう?」
「ああ」
「私が行っても……」
言いかけて、止まった。
――私が行っても、やっていけると思う?
二人なら、自分よりずっと特進を知っている。その答えを聞けば、きっと安心できる。
けれど、それを聞いて決めたいわけではない。
教員室で受け取った問いが、もう一度胸の奥へ戻ってきた。フローレンは途中まで出かかっていた言葉を飲み込む。
「……やっぱり、何でもない」
ルシアンは急かさず、ただ静かにこちらを見ていた。
少し考えてから、フローレンは顔を上げる。
「特進って、どんな感じ?」
「授業?」
「うん。私、合同授業のときしか知らないから」
今度は、二人とも少し考えた。
「速いよ」
先に答えたのはレオだった。
「たぶん第二よりはかなり。教本に書いてあることを一つずつ全部説明するんじゃなくて、基本的なところは分かってる前提で進むことも多い」
「課題も発展問題が多い」
ルシアンが続ける。
「授業で直接扱っていない条件を含む問題も普通に出る。教本以外の資料を自分で探すこともあるし、課題によっては複数人で意見をまとめることもある」
フローレンは聞きながら、一つずつ頭の中へ置いていく。
「……難しそう」
「難しいと思う」
ルシアンはあっさり肯定した。気休めに「大丈夫」と言われなかったことが、かえってありがたかった。
「最初から全部できることを前提にしているわけでもないが、分からないまま待っていれば授業が止まってくれる場所でもない。自分から聞くか、調べるか、考える必要はある」
「そっか」
今までより速く、難しい。周りも自分よりできる生徒ばかりになるだろう。想像すれば、不安になる理由はいくらでもあった。
それなのに、話を聞いているうちに胸の奥が少しずつ明るくなっていく。
「それって、授業でやってないことも自分で考えるの?」
「ああ」
「資料も、自分で探すことがある?」
「課題によるけどね」
レオが答える。
「じゃあ、同じ問題でも考え方が一つじゃないことも?」
「ある」
返事を一つ聞くたび、次に聞きたいことが出てきた。
「実習も多い?」
「四年からは今より増えるはず」
「ほかの人の考え方を見ることも?」
「もちろん」
そこでレオが、ふっと笑った。
「フローレン」
「なに?」
「顔」
言われて、自分の頬へ触れる。
「何かついてる?」
「そうじゃなくて。さっき『怖くなってきた』って言ってた人の顔じゃないなあって」
「……どんな顔?」
猫のような目が楽しそうに細められた。
「興味津々って顔」
フローレンは黙った。
自分では分からなかった。けれど、二人の話を聞くほど次のことを聞きたくなっていたのは確かだった。
難しい。知らない。まだできない。
それでも、その先を知りたいと思っている。
「……二人と同じクラスになるんだよね」
ぽつりと言うと、レオが頷いた。
「受かったらね」
「うん」
今までは放課後になれば集まっていた三人が、朝から同じ教室にいる。その光景を思い浮かべると、やはり嬉しかった。
「……それは、嬉しいかも」
向かいで、ルシアンの指が閉じた本の端をわずかに撫でた。
「僕も」
思ったより早く返事が返ってきた。
フローレンが顔を上げると、ルシアンはこちらを見ていた。
「君が同じクラスに来るなら、嬉しいと思う」
声はいつも通り穏やかだった。けれど、その言葉を聞いた胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……そっか」
「ああ」
ほんのわずかな間のあと、レオも笑った。
「俺も。朝から三人いるの、楽しそうだし」
「……うん。そうかも」
「でしょ?」
「うん」
小さな笑いが生まれる。
その笑いが落ち着いたころ、ルシアンが少しだけ姿勢を改めた。
「ただ」
フローレンを見る。
「僕たちがいるから、というだけで決めない方がいい」
先ほどの温かさを打ち消すような言葉ではなかった。むしろ、その気持ちも大切にしたまま、それとは別のものを確かめようとしているように聞こえた。
「僕は、同じクラスになれたら嬉しい」
ルシアンはもう一度、はっきりと言った。
「でも、そこへ行くのは君だ」
その言葉に、フローレンは静かになった。
難しい授業についていくのも、分からない問題の前で考えるのも、自分だ。
「フローレンはどうしたい?」
レオが柔らかく尋ねた。
その問いを聞いた瞬間、胸の奥にあの春の記憶が重なった。
まだ三人で机を囲むようになる前、レオから話を聞いたルシアンが最初に確かめてくれたこと。
――君自身は、どうしたい?
あのときは、「教わってみたい」と答えた。
それが、三人で机を囲む始まりだった。
それから一年も経っていないのに、今はあのころ想像もしなかった問いを前にしている。
《特進》へ行きたいか。
フローレンは窓の外へ視線を向けた。
傾いた陽が薄い雲の縁を明るく染めている。冬の終わりに近づいた空は、まだ冷たい色を残しているのに、その向こうには少しずつ次の季節の明るさが混じり始めていた。
第二クラスを離れるのは寂しい。エリナと教室が分かれることも、今の場所で過ごす時間が終わることも。
けれど、ここで得たものまで置いていくわけではない。
それに、まだ知らないことがある。自分が今より先へ行けるかもしれない場所があり、その道が今、自分の前に開かれている。
受かるかどうかは分からない。特進でやっていけるかも、まだ分からない。
それでも。
分からないからこそ、確かめてみたい。
フローレンはゆっくりと視線を戻した。
「……受けたい」
声にすると、思っていたよりまっすぐだった。
フローレンは二人を見る。
「特別試験、受けてみたい」
胸の奥にあったものが、ようやく言葉と同じ形になった。
わずかな時間、三人の間を夕方の静けさが満たした。
やがてルシアンが、わずかに目を細める。
「そうか」
ルシアンは穏やかに笑った。
「それなら、受ければいい」
できるとも、絶対に受かるとも言わない。ただ、フローレンが自分で決めたことを、そのまま受け取ってくれる言葉だった。
「俺も応援する」
レオも笑う。
「ちゃんと決まったね」
「うん」
「まあ、顔見てたらどっちに傾いてるかは分かったけど」
「……そんな分かりやすい顔してた?」
「してた」
フローレンは思わず笑った。
「でも、ちゃんと考えたかったの」
「うん。それでいいんじゃない?」
レオは満足そうに頷いた。
答えを出しても、不安がすべて消えたわけではない。詳しい内容すら知らない特別試験で、合格できる保証もなかった。
けれど、教員室を出たときにはまだ形のなかった気持ちは、もう言葉になっていた。
二人と同じクラスになれたら嬉しい。それでも、受けたいと決めた理由はそれだけではない。
まだ知らないものを、自分で確かめてみたい。
フローレンは小さく息を吐いた。
「……じゃあ、明日、受けますって言ってくる」
「ああ」
「うん」
二人の返事が重なる。
それを聞いてから、フローレンは窓の外へもう一度目を向けた。
雲の向こうへ沈みかけた陽が、細い光を一筋だけ残している。その光は冬の空を抜け、硝子を越えて、三人のいる机の端まで静かに届いていた。
三年生になった春、分からない問題を前にすれば、足りないものを探すために本を開いた。
今は、まだ答えのない場所へ自分から行ってみたいと思っている。
その違いがどれほど大きなものなのか、フローレン自身にはまだ分からなかった。
ただ、明日伝える言葉だけは、もう迷わなかった。




