49:挑むための道
放課後を告げる鐘が鳴っても、フローレンはすぐには席を立てなかった。
いつもなら教科書を閉じれば、そのまま帰り支度へ手が動く。図書室へ寄るのか、自習室へ向かうのか。その日の予定に合わせて鞄の中を整えることにも、もうほとんど迷いはない。
けれど今日は、机の上へ揃えた教科書を前にしたまま、なかなか鞄へ手が伸びなかった。
「そんなに気になる?」
隣から声がして振り向くと、エリナが少し可笑しそうにこちらを見ていた。
「……ちょっとだけ」
「朝から何度時計を見たと思ってるの」
「そんなに見てた?」
「少なくとも私は気づくくらいには」
言われて、フローレンは少しだけ肩を竦めた。
朝から考えていることは、昨日とほとんど変わっていない。
思い当たるのは、やはり十三位という数字だった。
昨日の掲示板で、自分の名前が思っていたよりずっと上にあるのを見た。そのあとも、来年度のクラスがどうなるのだろうと周りから何度か言われた。
もしかしたら、クラスについて何か話があるのかもしれない。
けれど、それ以上は考えても分からなかった。
「……まだ考えてるの?」
エリナが尋ねる。
「だって、何の話だと思う?」
「朝から考えて分からなかったんでしょう?」
「……うん」
「なら、さっさと行って聞くしかないわ」
「そうなんだけど」
あっさり言われて、フローレンは思わず笑った。
少しだけ肩の力が抜ける。
「行ってらっしゃい」
エリナは自分の鞄を持ち上げた。
「私は先に戻ってるわね」
「うん。また明日」
「何だったか、話したくなったら聞かせてね」
「ありがとう」
柔らかな笑みを残し、エリナは教室を出ていった。
フローレンもようやく立ち上がる。
鞄を肩へ掛け、机の横を抜けた。
第二クラスの教室には、まだ何人か生徒が残っている。窓際で話している者もいれば、途中になった課題を広げている者もいた。いつもの放課後と何も変わらない光景だった。
扉を出る前に、フローレンは一度だけ教室を振り返った。
三年間、同じクラスで過ごしてきた生徒たち。
いつもと同じ机と椅子の間に、冬の淡い光が静かに差し込んでいる。
三年生が終われば、この景色も今のままではなくなる。
それはずっと分かっていたはずなのに、来年度のクラスという言葉を意識するようになってから、その当たり前のことが以前より少しだけ近く感じられた。
教員室は中央棟の二階にある。
何度か提出物を届けたことはあるものの、自分一人が呼ばれて向かうのは初めてだった。
廊下を歩くうちに、生徒の姿は少なくなっていく。放課後の声が遠ざかるほど、代わりに自分の足音がよく聞こえた。
窓の外には薄い冬雲が広がっている。日暮れにはまだ少し早いが、午後の光はもう白さを増し始め、石造りの廊下へ淡い色を落としていた。
教員室の前へ着く。
一度だけ息を整えて、扉を叩いた。
「どうぞ」
中から聞き慣れた声が返ってくる。
「失礼します」
扉を開けると、思っていたより室内は静かだった。
長い机がいくつも並び、その上には教本や紙の束、筆記具が整然と置かれている。何人かの教師がそれぞれ仕事をしていたが、フローレンが入ってくると、そのうち数人がわずかに顔を上げた。
「アストリア。こちらへ」
第二クラスの担任が、奥の小さな応接机を示す。
そこには担任だけでなく、見覚えのある白髪の教師も座っていた。薬草学や合同授業で何度も教わった教師だ。
さらにもう一人。
普段の授業ではほとんど関わることのない、三年生の学年主任までいる。
フローレンの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
――三人もいる。
思っていたより、ずっと大きな話なのかもしれない。
「そこへ座って」
「はい」
勧められた椅子へ腰を下ろし、鞄を膝の脇へ置く。
向かいには三人の教師が座り、机の中央には一枚の紙が伏せて置かれていた。
何が始まるのか分からないまま待っていると、最初に口を開いたのは担任だった。
「まず、昨日発表された学年末試験の結果についてだ」
「……はい」
やはり順位の話だったらしい。
胸の奥がわずかに鳴る。
「十三位だったな」
「はい」
「驚いたか?」
予想していなかった問いに、フローレンは一度瞬きをした。
「……とても」
正直に答えると、担任は小さく頷いた。それから学年主任へ視線を向ける。
学年主任は伏せられていた紙を表へ返した。
そこにはフローレンの名前と、一年間の成績や試験結果らしい数字がいくつも並んでいる。
「現時点で、君を来年度も第二クラスへ置く予定はない」
言葉の意味を受け取るまで、一瞬だけ時間がかかった。
「……え」
「通常のクラス編成であれば、第一クラスへの編入対象になる」
担任が穏やかに続ける。
「まだ正式発表の前だから、ほかの生徒には話さないでほしい。ただ、君自身には先に伝えておく必要があると判断した」
「第一クラス……」
小さく繰り返す。
エリナに言われたときには、まだどこか遠く感じていた言葉だった。それが今、来年自分が立つ場所として初めて形を持っている。
「……本当に?」
「ああ」
担任の返事に迷いはなかった。
胸の奥がゆっくりと温かくなる。
昨日見た十三位は、まだ紙の上の数字だった。けれど今、その結果が初めて来年の自分へ繋がったのだと分かる。
「ありがとうございます」
思わず頭を下げる。
顔を上げても、向かいに座る教師たちの表情はまだ話の終わりを示していなかった。学年主任が一度だけ手を組み直す。
「ただ」
その一言で、フローレンの意識が再び引き戻された。
「今日は、その話だけで君を呼んだわけではない」
胸に広がったばかりの嬉しさの隣へ、静かな緊張が戻ってきた。
「昨日、教員間で来年度のクラス編成について会議を行った」
学年主任が続ける。
「今回の順位だけで来年度の所属を決めるわけではない。日頃の成績や授業での様子、実習を含め、一年間の記録を改めて確認した」
机の上に置かれた紙へ、フローレンの視線が落ちる。
白髪の教師が、その続きを引き取った。
「春の君と今の君では、答案の組み立て方が随分違います。以前は覚えていることが先に出ていましたが、今は問いに必要なものを選び、条件を繋いで考えられる。一度出した答えも、自分で見直せるようになっています」
以前にも、似たことを言われた記憶がある。
けれど、こうして一年分をまとめて言葉にされると、自分が思っていたより遠くまで来ていたのだと、少しだけ不思議な気持ちになった。
「最近は、ほかの生徒から質問を受けることも増えたな」
担任が言う。
「説明っていうほどでは……」
「一緒に考えているだけ、だったか」
「……はい」
先に言われてしまい、フローレンは少しだけ頬を熱くした。担任の口元がわずかに緩む。
「そのことも評価の一つになっている。答えを教えるのではなく、相手がどこで分からなくなったのかを見ているそうだな」
学年主任は手元の記録を一枚めくった。
「合同実習も確認した。秋の物資輸送実習だ」
その言葉に、赤い印の入った進行表が記憶へ蘇る。
「君自身が、状況変更へ十分に対応できたという評価ではない。初めて見る資料を短時間ですべて理解できるわけでもない」
「……はい」
それは、フローレン自身がよく分かっていた。
「ただ、状況が変わったあとも、自分が受け持った資料へ戻り、必要な情報を探して薬品の優先順位を組み直そうとしていた。知っていることをそのまま当てはめるのではなく、変わった条件に合わせて使おうとしている」
覚えられることと、理解して判断することは同じではない。
以前なら、その違いを突きつけられれば、自分には記憶することしかできないのだと思ったかもしれない。けれど今は、覚えられることも、その先で考えることも、どちらも自分の中にあるものだと少しずつ分かってきている。
学年主任が記録から顔を上げた。
「だから、昨日の会議では一つ別の案が出た」
フローレンも顔を上げる。
「君を第一クラスへ編入させるだけで、それが本当に適切なのかという意見だ」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
第一クラスへ移るのではないのだろうか。
それなら、第二クラスに残るということだろうか。来年も同じクラスで学びながら、今とは何か違う役割を求められるのかもしれない。
考えても、話の行き先が見えない。
学年主任は、そんなフローレンをまっすぐに見た。
「学院では、君を来年度の《特進》クラスへ編入させる可能性について検討している」
一瞬、言葉の意味が頭へ入ってこなかった。
「……え?」
自分でも驚くほど小さな声が零れる。
「……《特進》?」
「ああ」
学年主任が頷いた。
「第一クラスではなく、ですか?」
「そうだ」
返事を聞いても、すぐには意味が馴染まない。
「でも……私、第二クラスです」
「知っている」
「特進って……二つ上で」
「それも分かっている」
当然のように返されて、今度こそ言葉がなくなった。
第一クラスのさらに向こうにある場所。
普段なら、自分の来年度と結びつけて考えることすらなかった。
そこへ、自分が入るかもしれない。
「前例はない」
学年主任が言った。
フローレンの視線が上がる。
「学院創立以来、第二クラスから直接特進へ編入した生徒はいない」
「……そうですよね」
昨日、掲示板の前でも同じような声を聞いた。誰も聞いたことがないのではなく、本当に前例そのものがなかったのだ。
「それなら……どうして私を?」
「先ほど説明した通りだ」
学年主任は淡々と答えた。
「十三位だったからだけではない。この一年の変化を見た結果、君を第一クラスへ編入させるだけで十分なのか、教師間で意見が分かれた」
フローレンは黙って聞く。
「ただし、学院側にも、今ある記録だけで君を特進へ編入させてよいと断言できるほどの確信はない」
それを聞いて、不思議と少しだけ呼吸がしやすくなった。
いきなり特進でやっていけると言い切られるより、ずっと納得できる。自分だって、今の力で特進の授業についていけるのかは分からなかった。十三位という結果が出ても、それとは別の話だ。
「だから、確かめることにした」
学年主任の言葉とともに、机の上へもう一枚の紙が置かれた。
先ほどの成績記録とは違う。上部にはまだ題名もなく、いくつかの項目だけが簡単に書き込まれている。
「希望するのであれば、君に特別試験を受けてもらう」
フローレンの視線が紙の上で止まった。
「……特別試験?」
「ああ」
「学年末試験とは別に?」
「別だ」
白髪の教師が頷いた。
「今回の試験で、通常の授業内容を十分に扱えることは確認できました。それに、君が多くのことを覚えていることは以前から分かっています。同じものをもう一度測っても、特進で学べるかどうかを確かめることにはなりません」
机上の紙へ、教師の指が触れる。
「ですから、違う形にします」
「違う形……」
「内容は、受験を希望した場合に改めて説明します。ただ、単に難しい問題を解けばいい試験ではありません」
フローレンは机の上の紙を見つめた。
まだ題名すらない、余白の多い一枚だった。それなのに、その向こうには今まで見たことのない何かが待っているような気がする。
「合格すれば」
学年主任が続けた。
「四年次から、《特進》クラスへ編入する」
胸の奥が大きく鳴った。
今度は、ただの可能性の話ではない。試験に合格すれば、本当にそこが来年の自分の教室になる。
四年生になった自分が、ルシアンやレオと同じ教室にいる。今までは放課後になれば合流していた二人と、朝から同じ授業を受け、同じ課題を開く。
そう思うと、胸の内へ小さな明るさが差した。
けれど、それだけではない。
今までより難しい授業や、自分の知らない考え方。まだ見たことのない問いに触れられる場所でもある。
「……特別試験では」
気づけば、フローレンは尋ねていた。
「どんなことをするんですか?」
教師三人の視線が、一度だけ交わった。
「まだ内容は言えません」
白髪の教師が答える。
「……そうですよね」
少しだけ残念に思った自分に気づく。何をするのか、知りたいと思っていたらしい。
「ただ、一つだけ言えます」
教師が続けた。
「これまで解いてきたような問題を、ただ繰り返す試験にはしません」
フローレンの視線が再び上がる。
「覚えていることだけでは足りません。初めて見るものも出します。何を使えばいいか、最初から書いてあるとも限りません」
知らないもの。すぐには答えが見えないもの。自分で何を使うのか考えなければならないもの。
少し前までなら、不安の方が先に立ったはずだった。
「……面白そう」
ぽつりと言葉が零れた。
言ってから、自分で気づく。
三人の教師にも聞こえたらしく、担任の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「そう思うか」
「あ……」
フローレンは少し慌てる。
「まだ受けるって決めたわけじゃないんですけど」
「分かっている」
学年主任の声には、急かす響きがなかった。
「今日は、その意思を確認するために呼んだ。特進へ行くかどうかを、学院が一方的に決めるつもりはない」
その言葉が、思っていたより深く胸へ入った。
「第一クラスへの編入であれば、通常の編成としてこちらで決める。だが、今回は違う。前例のない形で二つ上のクラスへ編入することになる。環境も大きく変わるし、特別試験を受けたからといって必ず合格できるとも約束できない」
「……はい」
「だから、君自身が望むかどうかを先に聞きたい」
学年主任はフローレンをまっすぐに見た。
「受けるか?」
短い問いだった。
フローレンはすぐには答えなかった。
試験そのものが怖いわけではない。けれど、落ちたらどうしようという不安がまったくないわけでもなかった。
三年間過ごしてきた第二クラスは、どちらを選んでも離れることになる。
その先にあるのは、第一クラス。
そして、今初めて自分の前へ差し出された《特進》。
第一クラスへ編入することさえ、少し前まで考えたこともなかった。それなのに今は、そのさらに違う場所へ手を伸ばすかどうかを尋ねられている。
特進には、ルシアンとレオがいる。二人と同じ教室で学べることを思えば、素直に嬉しかった。
けれど、それだけではない。
今より難しい授業や、まだ知らない考え方。先ほど特別試験について聞いたとき、真っ先に浮かんだのは「面白そう」という気持ちだった。
そこへ行ってみたい。
そんな思いが確かにある一方で、今の自分が本当についていけるのかという不安も残っている。
以前なら、きっと最初に誰かへ尋ねていた。ルシアンやレオに、自分にもできると思うかと聞いていたかもしれない。
けれど今、目の前で聞かれているのは。
できるかどうかではない。
――自分が、どうしたいのか。
その答えを、今すぐ言葉にしてしまうのは違う気がした。
「……少し、考えてもいいですか?」
フローレンは顔を上げた。
学年主任はすぐに頷いた。
「もちろんだ」
すぐに返事が返ってきて、フローレンはわずかに肩の力を抜いた。
「今日中に決める必要はない。明日の放課後までに返事をくれればいい」
「ありがとうございます」
「誰かへ相談しても構わない。ただし、正式発表前のことだから、必要以上に広めないように」
「はい」
フローレンはもう一度頭を下げた。
それで話は終わり、礼をして立ち上がる。鞄を持ち、扉へ向かいかけたところで、白髪の教師から声がかかった。
「アストリア」
「はい?」
教師は先ほどまでの記録を一枚、手元へ戻しているところだった。
「どちらを選んでも、十三位がなくなるわけではありません」
フローレンは瞬きをした。
「第一クラスへ編入することを選んでも、特別試験を受けて落ちても。君がこの一年でできるようになったことが消えるわけではありません」
その言葉は、不思議なくらい素直に胸へ入った。
積み重ねたものは、選んだ結果一つでなくなってしまうわけではない。
「だから」
教師はいつもの落ち着いた調子で続ける。
「自分がどうしたいのかを考えなさい」
胸の奥へ、言葉が静かに落ちた。
「……はい」
今度の返事は、少しだけ柔らかくなった。
教員室を出ると、廊下には夕方の色が差し始めていた。
窓の外では薄い雲の切れ間から陽が覗き、石造りの壁や床へ淡い金色を伸ばしている。行き交う生徒はもう少なく、遠くから聞こえる声も、放課後の校舎の静けさへ少しずつ溶けていた。
フローレンは閉じた扉の前ですぐには歩き出さず、一度だけ息を吐いた。
「……《特進》」
誰もいない廊下へ、小さく言葉が落ちる。
まだ、自分のものとは思えない。
昨日は、《特進》の名が並ぶ場所へ、自分の名前だけが紛れ込んだように見えていた。けれど今は、そこへ挑むための道が自分の前に差し出されている。
その道へ踏み出すかどうかは、自分で決めていい。
フローレンはゆっくりと歩き始めた。
向かうのは、いつもの自習室だった。今日はきっと、二人もいる。
教師から聞いたことを話したかった。十三位のその先に、思いもしなかった選択肢があったこと。そして、自分が今どう感じているのかも。
まだ、答えにはなっていない。
不安がないわけではない。
それでも、特別試験の話を聞いたとき、最初に浮かんだ気持ちはもう分かっていた。
――知りたい。
やってみたら、自分はどこまで行けるのだろう。
その問いが、歩くたび胸の内で少しずつ熱を持っていく。
フローレンは鞄の持ち手を握り直した。
廊下の先に、見慣れた自習室の扉が見えてくる。
その向こうへ向かう足取りは、教員室を出たときより、ほんの少しだけ速くなっていた。




